第七十九回 女楽を帰して孔子を拒み、会稽に棲んで宰嚭に通じる(四)

*今回は『東周列国志』第七十九回その四です。
 
戦いが始まると、呉兵が少し退いたため、越軍は約百十人(百人前後)を殺傷しました。句践は利に乗じて直進します。しかし数里進んだ所で夫差の大軍に遭遇しました。
双方が陣を構えて大戦します(ここからは水上の戦いです。これ以前が水上の戦いか陸上の戦いかははっきりしません)
夫差は船頭に立ち、自ら枹を持って戦鼓を敲きました。激励された将士は勇気を十倍にします。
突然、北から大風が吹き、波濤がうねりました。伍子胥と伯嚭がそれぞれ大艦・餘皇に乗り、帆を揚げて下ってきます。風に乗った呉兵が一斉に強弓勁弩で矢を放ちました。矢は飛蝗のように越軍に襲いかかります。向い風の越兵は抵抗できず、大敗して逃走しました。
呉軍は三路に分かれて追撃しました。
越将霊姑浮は舟が転覆して溺死し、胥犴も矢に中って戦死しました。呉兵は勝ちに乗じて追撃を続け、数え切れないほどの越兵を殺しました。
 
句践は固城に奔って守りを固めました。呉兵が数重に包囲し、水を汲む道を完全に塞ぎます。
夫差が喜んで言いました「十日も経たずに越兵は全て渴死するだろう。」
ところが山頂には霊泉があり、泉には嘉魚が住んでいました。句践は数百の魚を取らせて呉王に贈ります。呉王は大変驚きました。
句践は范蠡を残して堅守させ、自ら残兵を指揮して、隙に乗じて会稽山に奔りました。
そこで甲楯の数を確認すると、わずか五千余人しか残っていません。
句践が嘆息して言いました「先君から孤に至るまでの三十年来、このような敗戦を味わったことはない。范文二大夫の言を聴かなかったために、こうなってしまった。」
 
その頃、呉兵が固城に猛攻を加えていました。伍子胥が右に、伯嚭が左に営を構えています。
范蠡が送った急を告げる使者は一日に三回も至りました。
越王が大いに恐れると、文種が謀って言いました「事は急を要します。今でも講和を求めればまだ間に合うでしょう。」
句践が問いました「呉がもし同意しなかったらどうする?」
文種が言いました「呉には太宰伯嚭という者がおり、貪財好色なうえ他者の功績を嫌って能力を嫉妬しています。彼は子胥と共に仕えていますが、志趣(意志)が合っていません。呉王は子胥を畏怖して言う事を聞いていますが、嚭と親しくしています。秘かに太宰の営を訪ねて懽心(歓心)を結び、行成(講和)の約を定めましょう。太宰が呉王に進言すれば必ず聴き入れます。子胥がそれを知って阻止しようとしても間にあいません。」
句践が問いました「卿が太宰に会う時、何を賄賂にするつもりだ?」
文種が答えました「軍中で乏しいのは女色です。美女を得て献上しましょう。もし天が越に祚(福)を与えるつもりなら、嚭は必ず臣に会って話を聞きます。」
句践は昼夜を通して使者を都城に駆けさせ、夫人に命じて宮中で美色がある者八人を選んで容飾を盛んにさせました。更に白璧二十双、黄金千鎰を準備し、夜の間に太宰の営を訪ねて会見を求めます。
伯嚭は拒否しようとしましたが、人を送って文種の様子を探らせ、礼物の準備があると知ったため、文種を招き入れました。
伯嚭は傲慢な様子で座って待ちます。文種が跪いて言いました「寡君句践は年幼無知なため、大国に善く仕えることができず、罪を得ることになってしまいました。今、寡君は悔恨しても既に及ばず、国を挙げて呉の臣になることを願っていますが、王が咎(罪)を見て寡君を納めないことを(王が寡君の罪を忘れることなく、寡君を許容しないことを)恐れています。寡君は太宰に赫赫たる功徳があり、外は呉の干城となり、内は王の心膂となっていると知り、下臣種を送ってまず轅門で太宰を叩首させました。一言の重みを借りて寡君を宇下に収めていただきたいと思います。不腆の儀(粗末な礼物)としてとりあえず薄贄(少ない礼物)を尽くします。これらの物はこの後、途絶えることがありません(越が呉に仕えたら、今後も貢物が絶えません)。」
文種が賄単(礼物の明細)を伯嚭に献上しました。
伯嚭が厳しい顔をして言いました「越国は旦暮にも破れて滅ぶ。越にある物が全て呉に帰すことは間違いない。このようにわずかな物でわしを誘うつもりか?」
文種が更に進み出て言いました「越兵は敗れましたが、会稽を守る精卒はなお五千を数えるので、一戦に堪えることはできます。戦って勝てなかったら庫藏の蓄えを焼き捨て、異国に身を隠して楚王の事(楚のように復国すること)を図ります。どうして呉の物とすることができるでしょう。また、たとえ呉が全てを有したとしても大半は王宮に帰してしまうので、太宰と諸将が分け合うのはそのうちの一二に過ぎません。越との講和を主宰すれば、寡君は王に身を委ねるのではなく、実際は太宰に委ねることになります。春秋の貢献は王宮に入る前にまず宰府に入ります。こうなれば太宰が全越の利を独占することになり、諸将も関与できません。そもそも、困窮した獣でもまだ戦えるものです。城を背にして一戦したら、不測の事が起きるかもしれません。」
文種の言葉は伯嚭の心を動かしました。伯嚭は思わずうなずいて微笑みます。
文種が単(明細)に書かれた美人を指さして言いました「この八人は皆、越宮から出された者です。もし民間に更に美しい者がおり、寡君が生きて越国に帰られるのなら、常に力を尽くして(民間の美女を)捜し出し、太宰の掃除の数(侍女)として備えさせましょう。」
伯嚭が立ち上がって言いました「大夫が右営ではなく左営に来たのは、某(私)が危難に乗じて人を害することがないと判断したからだ。明朝、某が子(汝)を連れて吾王に謁見させ、決議を求めよう。」
伯嚭は献上された礼物を全て収めると、文種を営中に留め、賓主の礼を施しました。
 
翌朝、二人が中軍を訪ねて夫差に会いました。
伯嚭が先に入り、越王句践が文種を派遣して講和を望んでいることを告げます。
夫差が怒って言いました「越と寡人には不共戴天(天を共に戴かないこと。共存しないこと)の恨がある。講和に同意できるはずがない。」
伯嚭が言いました「王は孫武の言をお忘れですか?孫武は『兵(戦)は凶器なので、暫定的に用いることはあっても久しく用いるべきではない(兵凶器,可暫用而不可久也)』と言いました。越は呉の罪を得ましたが、呉に降るという者が既に至りました。その君は呉の臣になることを請い、その妻は呉の妾になることを請い、越国の宝器珍玩は全て呉宮に献上されます。彼等が王に乞うのは宗祀の一線を保つことだけです。越の降を受け入れれば実を厚くし、越の罪を赦せば名を顕揚できます。名と実を共に収めれば、呉は伯(覇者)になれます。必ず兵力を尽くして越を誅すというのなら、句践は宗廟を焼き、妻子を殺し、金玉を江に沈め、死士五千人を率いて呉と命をかけるでしょう。これでは王の左右を損なうことになります。越の人を殺すよりも、越の国を得て利とした方が得でしょう。」
夫差が問いました「文種は今どこにいる?」
伯嚭が答えました「幕外で招きを待っています。」
夫差は文種を中に入れさせました。
文種は膝で前に進み、伯嚭に話した内容を一通り述べます。言動に卑遜な態度が加えられました。
夫差が問いました「汝の君は臣妾(奴隷)になることを請うているが、寡人に従って呉に入ることができるか?」
文種が稽首して言いました「既に臣妾になった以上、死生は国君が握っています。王の左右に服さないはずがありません。」
伯嚭が言いました「句践夫婦は呉国に来ることを願っています。呉は名義上は越を赦したとしても、実際には越を得るのと同じです。王はこれ以上何を求めるのでしょうか?」
夫差は講和に同意しました。
 
この事を右営の伍子胥に伝える者がいました。
伍子胥が急いで中軍を訪ねます。伯嚭が文種と一緒に王の傍に立っているのを見て、伍子胥は顔中に怒気を浮かべて呉王に問いました「王は既に越との和を許したのですか?」
呉王が言いました「既に許した。」
伍子胥が大声で「いけません(不可,不可)!」と言いました。文種が驚いて数歩退がり、静かに伍子胥の言を聞きます。
伍子胥はこう言いました「越と呉は隣り合っており、両立できない形勢にあります。もし呉が越を滅ぼさなかったら、越が必ず呉を滅ぼします。我が国が秦晋といった国を攻めて勝ったとしても、その地を得ても住めず、その車を奪っても乗ることができません。しかし越を攻めて勝てば、その地には住むことができ、その舟には乗ることができます。これは社稷の利なので棄ててはなりません。しかも先王の大仇があります。越を滅ぼさず、どうして立庭の誓に謝すことができるのですか?」
夫差は答えに窮し、目で伯嚭に合図しました。
伯嚭が進み出て言いました「相国の言は誤りです。先王が国を建てた時、水陸に国を封じました。呉越は水に便宜があり、秦晋は陸に便宜があります。もしその地に住むことができ、その舟に乗ることができるから呉越は共存できないというのなら、秦、晋、斉、魯は全て陸国であり、その地に住むことができ、その車に乗ることができるので、四国が併呑されて一つになるというのでしょうか?先王の大仇であるから赦されないというのなら、相国にとって楚に対する仇は更に甚だしいものです。なぜ楚国を滅ぼさず和に同意したのでしょうか?今、越王夫婦はそろって呉に服役することを願っています。羋勝を納めただけの楚とはなおさら異なります。相国は忠厚の事を行っているつもりですが、王に刻薄の名を着せようとしています。忠臣はこのようなことはしません。」
夫差が喜んで言いました「太宰の言に理(道理)がある。相国は暫く退がれ。越国の貢献が届いた日に、汝にも分け与えよう。」
伍子胥は怒って顔を土色にし、嘆息してこう言いました「被離の言を聴かなかったことを後悔している。このような佞臣と共に仕えなければならないとは!」
伍子胥の口は怨みが絶えませんでしたが、やむなく歩いて幕府を出ました。
伍子胥が大夫王孫雄に言いました「越は十年で生聚(力を蓄えること)し、更に十年で教訓(民を教育すること)するだろう。二十年も経たずに呉宮は沼と化す。」
王孫雄は完全には信じませんでした。
伍子胥は憤懣したまま右営に帰りました。
 
夫差は文種を帰らせて越王に報告させました。報告を終えた文種が再び呉営を訪れて謝意を述べます。
夫差が文種に越王夫婦が呉に入る日を聞きました。
文種が答えました「寡君は大王に赦されて誅殺を受けずにすんだので、とりあえず国に帰り、玉帛子女を全て集めて呉に献上するつもりです。大王に期日を緩めていただくことを請います。もし負心(裏切り)によって信を失ったとしても、大王の誅から逃れることはできません(大王からは逃げられないので、裏切ることはありません)。」
夫差はこれに同意し、五月中旬に夫婦が呉に入って臣従することを約束させました。
王孫雄が文種を連れて越国に入り、句践の出発を促します。
太宰伯嚭も兵一万を呉山に駐留させて待機しました。もし期日になっても来なかったら、越を滅ぼして帰還することになっています。
夫差は大軍を率いて先に帰国しました。
 
越王はどのように呉に入るのか、続きは次回です。

第八十回 夫差が越を赦し、勾践が呉に仕える(一)