第七十九回 女楽を帰して孔子を拒み、会稽に棲んで宰嚭に通じる(三)

*今回は『東周列国志』第七十九回その三です。
 
翌日、句践が秘密裏に軍令を伝えました。軍中で死罪を犯した者三百人が集められ、三列に分けられます。三百人は袒衣(上半身を脱ぐこと)して剣を首にかけ、ゆっくり呉軍に向かって歩きました。
先頭の者が呉陣の前で言いました「我が主・越王は自分の力を量らず、上国の罪を得て下討(討伐)の労を招きました。臣等は命を惜しまないので、死によって越王の罪に代えさせてください。」
言い終わると次々に自刎していきます。
呉兵は今までこのような情景を見たことがなかったため、異様な出来事を注視しました。何が起きているのか理解できず、互いに情報を伝えあいます。
するとその時、越の陣内で突然、戦鼓が叩かれました。鼓声が周りを震わせると、疇無餘と胥犴が率いる二隊の死士がそれぞれ大楯と短兵(短い武器)を持ち、喚声を上げて呉陣に迫ります。
慌てた呉兵は隊伍を乱しました。
句践が大軍を率いて後に続き、右からは諸稽郢、左からは霊姑浮が呉陣を切り開きました。
王孫駱が命を棄てて諸稽郢に対抗します。
霊姑浮は長刀を揮って左右を衝き、呉兵を見つけて殺していきました。ちょうど呉王闔閭に遭遇したため、刀を振り下ろします。
闔閭はとっさに後ろに体を移して逃げようとしましたが、刀が右足にあたり、将指(足の親指)を負傷しました。片方の屨(靴)を車の下に落としました。
そこに専毅の兵が到着して呉王を助けました。専毅の体も重傷を負っています。
王孫駱は呉王が負傷したと知り、戦いをあきらめて急いで兵をまとめました。しかし越兵の急襲に遭って半数以上が殺されます。
闔閭は傷が重いため、すぐに撤兵を命じて営寨に帰りました。
霊姑浮が呉王の屨を拾って功を報告したため、句践は大いに喜びました。
 
老齢の呉王は苦痛に耐えることができず、国都から七里まで戻ったところで一声叫んで死にました。
伯嚭が喪(霊柩)を守って先行し、王孫駱が兵を率いて後ろを断ちます。呉軍はゆっくり帰国しました。
越兵はこれを追撃しませんでした。
 
呉の太孫夫差が喪を迎え入れ、成服(喪服)を着て位に即きました。
卜いの結果、闔閭を破楚門外の海湧山に埋葬することになり、工人を動員して山に穴を穿ちました。専諸が使った魚腸の剣を殉葬し、その他にも剣甲六千副や金玉といった副葬品が中に入れられます。埋葬が終わると工人を殺して殉死者としました。
三日後、ある人が埋葬した場所を眺めると、上に白虎が座っていました。そのため虎邱山と名づけられます。識者(見識がある人)は埋められた金の気によって白虎が現れたと考えました(金徳の色は白とされています)
後に秦始皇が人を送って闔閭の墓を発掘させましたが、山を穿って剣を求めても何も得られませんでした。穿った場所は深澗(深い谷)になりました。今(明清時代)の虎邱剣池がそれです。
専毅も重傷が原因で死に、山の後ろに埋葬されました。今ではその場所がどこかわからなくなっています。
 
夫差は祖父の葬儀が終わってから、長子友を太子に立てました。
侍者十人を順番に庭に立てさせ、夫差が出入りする度に大きな声でこう言わせました「夫差よ!汝は越王が汝の祖(祖父)を殺したことを忘れたか!」
夫差は泣いて「忘れることはありません(唯,不敢忘)!」と答え、心を戒めて復讐の念を強くしました。
また、夫差は伍子胥と伯嚭に命じて太湖で水兵を訓練させ、射棚を霊巖山に立てて射術を訓練させました。
三年の喪が明けるのを待って仇討ちの兵を挙げるつもりです。これは周敬王二十四年の事です。
 
 
この頃、晋では頃公が政権を失い、六卿が党を立てて権力を争っていました。晋国内部で互いに蝕んでいる状態です(自相魚肉)
荀寅(范氏)と士吉射(中行氏)は仲が良く、婚姻関係を結んでいました。韓不信と魏曼多はこの二人を嫌っています。
荀躒(智氏)は梁嬰父という寵臣を卿に立てたいと思っていました。梁嬰父は荀躒の寵愛に頼り、荀寅を駆逐してその位を奪う計画を練ります。そのため、荀躒と范氏、中行氏の関係も悪化しました。
上卿趙鞅には午という族子がおり、邯鄲に封じられていました(邯鄲午といいます)。邯鄲午の母は荀寅の姉なので、荀寅は邯鄲午を「甥」とよんでいます。
先年、衛霊公と斉景公が共謀して晋に反した時、晋の趙鞅が軍を率いて衛を討伐しました。恐れた衛は戸口五百家を晋に貢いで謝罪しました。趙鞅はこの五百家を邯鄲に留め、「衛貢」と称しました。
暫くして、趙鞅が五百家を晋陽(趙氏の拠点)に移して戸数を増やそうとしました。しかし邯鄲午は衛人が不満をいだくことを心配し、すぐには実行しませんでした。
趙鞅は自分の命に従わない邯鄲午に対して怒りを抱き、邯鄲午を晋陽に誘い出してから捕えて殺してしまいました。
すると今度は荀寅が激怒しました。趙鞅が勝手に甥を殺したからです。荀寅は士吉射と商議し、共に趙氏を討伐して邯鄲午の仇に報いようとしました。
 
趙氏には董安于という謀臣がおり、この時、趙氏のために晋陽城を守っていました。二氏の謀を聞いた董安于は晋都絳州に走り、趙鞅に報告してこう言いました「范氏と中行氏は関係が深く、一旦乱を成したら恐らく制御できません。主君は先に行動して備えるべきです。」
趙鞅が言いました「晋国には令があり、禍を始めた者は必ず誅されることになっている。彼等が先に動くのを待ってから応じればいい。」
董安于が言いました「多くの百姓を害すくらいなら、私一人が死ぬことを願います(二氏が先に動いたら多くの民が死ぬことになります)。もし有事の際は(乱の責任を問われたら)、安于が当たります(責任を取ります)。」
趙鞅は同意しませんでしたが、董安于は秘かに甲兵を準備し、状況の変化を覗いました。
 
董安于の動きを知った荀寅と士吉射は、自分の衆を煽動して言いました「董安于が治兵(兵を整えること)している。我々を害すつもりだ!」
二人は兵を連ねて趙氏を討伐し、宮(屋敷)を包囲しました。しかし董安于に備えがあったため、兵を率いて血路を切り開き、趙鞅を守りながら晋陽城まで奔りました。二氏が攻めて来ることを恐れた董安于は営塁を築いて守りを固めます。
 
荀躒が韓不信と魏曼多に言いました「趙氏は六卿の長であるのに、寅と吉射が君命もなく勝手に駆逐した。政権が二家に帰してしまうだろう。」
韓不信が言いました「禍を始めたという罪状で二人とも駆逐すればいいではありませんか。」
三人は定公に会って二氏の討伐を請いました。それぞれ家甲を率い、定公を奉じて二家を討伐します。
荀寅と士吉射は力を尽くして抗戦しましたが勝てませんでした。
士吉射が定公を奪おうとすると、韓不信が急いで人を市中に送り、こう叫ばせました「范氏と中行氏が謀反し、国君をさらいに来た!」
これを信じた国人は皆兵器を持って定公を助けに来ました。
三家は国人の力を借りて范氏と中行氏の兵を破ります。
荀寅と士吉射は朝歌に奔って挙兵しました。
 
韓不信が定公に言いました「范氏と中行氏が禍の首謀者ですが、既に駆逐しました。趙氏は代々晋において大功があります。鞅の位を元に戻すべきです。」
定公は逆らうことなく、趙鞅を晋陽から呼び戻して爵禄を戻しました。
 
梁嬰父が荀寅に代わって卿になりたいと思っていたため、荀躒が趙鞅に相談しました。
趙鞅が董安于に問うと、董安于はこう言いました「晋は政が多門から出ているため、禍乱が収まりません。もし嬰父を立てたら、また新たに一人の荀寅を置くことになります。」
趙鞅は荀躒の要求に従いませんでした。
これに怒った梁嬰父は、董安于に邪魔をされたと知って荀躒にこう言いました「韓魏は趙の党なので、智氏(荀躒)の勢力が孤立しています。趙氏が頼りにしているのは謀臣の董安于です。彼を除くべきです。」
荀躒が「彼を除く策があるか?」と問うと、梁嬰父が言いました「安于は秘かに甲兵を準備して范氏と中行氏の変を激発させました。禍を始めた者を論じるのなら、安于が首(筆頭)となります。」
荀躒は梁嬰父の言の通りに趙鞅を譴責しました。趙鞅は恐れを抱きます。
董安于が言いました「臣は元々死を覚悟していました。臣が死んで趙氏が安泰になるのなら、死は生よりも賢となります。」
董安于は退出して自縊しました。
趙鞅はその死体を市に晒し、人を送って荀躒に「安于は既に罪に伏しました」と伝えました。
荀躒は趙鞅と盟を結んで互いに害さないことを約束します。
趙鞅は家廟の中で秘かに董安于を祀ってその労に答えました。
 
荀寅と士吉射は久しく朝歌を拠点としました。晋から離反した諸侯も二氏の力を借りて晋を害そうとしました。
趙鞅がしばしば兵を興して攻撃しましたが、斉、魯、鄭、衛が粟(食糧)を運んだり兵を出して二氏を助けたため、攻略できませんでした。
 
周敬王三十年、趙鞅が韓、魏、智三家の兵を合わせてやっと朝歌を攻め落としました。荀寅と士吉射は邯鄲に奔ってから柏人に逃げます。
暫くして柏人城も陥落し、その党に属す范皋夷と張柳朔が戦死しました。
豫讓は荀躒の子荀甲に捕えられましたが、荀甲の子荀瑤が命乞いしたため、智氏の臣になりました。
荀寅と士吉射は斉国に逃走しました。
荀林父は五世後の荀寅の代に至るまで、士蔿は七世後の士吉射の代に至るまで、その祖宗は皆、晋室股肱の臣でしたが、子孫が貪婪横柄だったため、宗族の滅亡を招きました。
この後、晋の六卿は趙、韓、魏、智の四卿になります。
 
 
少し遡って周敬王二十六年春二月、呉王夫差が喪を解いて既に久しい時が経ちました。
夫差は太廟に報告して国中の兵を動員します。伍子胥を大将に、伯嚭を副将に任命し、太湖から水道を通って越を攻めました。
越王句践は群臣を集めて計議し、軍を率いて迎え撃つことにしました。
しかし大夫范蠡(字は少伯)が進み出て上奏しました「呉はその君を失ったことを恥じとし、報復を誓って既に三年が経ちます。その志は憤り、力は一つになっているので、当たるべきではありません。兵をまとめて堅守を計るべきです。」
大夫文種(字は会)もこう言いました「臣の愚見では、卑詞によって謝罪し、和を乞うべきです。彼等が兵を退いてから後の事を図りましょう。」
句践が言いました「二卿は守と和を主張したが、どちらも至計ではない。呉は我が国代々の仇だ。攻撃を受けたのに戦わなかったら、我々は軍を成せなくなる。」
こうして国中の丁壮三万人が動員され、椒山の下で呉軍を迎えました。
 
 
 
*『東周列国志』第七十九回その四に続きます。