第八十回 夫差が越を赦し、勾践が呉に仕える(二)

*今回は『東周列国志』第八十回その二です。
 
伯嚭が軍を率いて越王を護送しました。呉の都城に入り、呉王に謁見します。
句践は肉袒(上半身を裸にすること。降伏の姿です)して階下で伏し、夫人がそれに従いました。
范蠡が宝物女子の単(明細)を開いて階下で献上します。
越王が再拝稽首して言いました「東海の役臣句践は自分の力を量ることができず、辺境において罪を得ました。大王がその深辜(重罪)を赦し、箕帚をとらせることで、厚恩を蒙って須臾(暫く)の命を保てるのなら、感戴(感激)の極みです。句践は謹しんで叩首頓首いたします。」
夫差が言いました「寡人がもし先君の仇を念じたら、今日、子(汝)が生きている道理はない。」
句践が再び叩首して言いました「臣は誠に死に値します。ただ大王の憐憫を請うだけです。」
この時、傍にいた伍子胥が言いました「飛鳥が青雲の上にいる時でも、弓を絞って射ようとするものです。目の前の庭廡(正堂の周りの廊下)に集まっているのならなおさらです。句践の為人は機険(機知に富んで陰険)です。釜中の魚となった今、庖人(調理人)に命を制されているため、諂詞令色(諂いの言葉と腰を低くした姿)によって刑誅から免れようとしているのです。少しでも志を得たら、虎を山に放ち鯨を海に逃がすのと同じで、二度と制御できなくなります。」
激昂する伍子胥の目は熛火(火炎)のようで、声は雷霆のようでした。
しかし夫差はこう言いました「投降した者を誅し、服従した者を殺したら、禍が三世に及ぶという。孤は越を愛しているから誅さないのではない。天の咎に遭うことを恐れるのだ。」
太宰嚭が言いました「子胥は一時の計に明るいだけで安国の道を知りません。我が王の言は誠に仁者の言です。」
伍子胥は呉王が伯嚭の佞言を信じ、自分の諫言を聞き入れないのを見て、憤懣として退出しました。
夫差は越が貢献した物を受け取ってから、王孫雄を派遣して闔閭の墓の傍に一つの石室を建てさせました。句践夫婦を貶めてその中に入れます。衣冠を除かせ、蓬首垢衣(髪を乱して汚れた服を着ていること)という姿で養馬に従事させました。
伯嚭が秘かに食物を送りましたが、飢餓から免れるだけのわずかな物でした。
 
呉王が車で出遊する度に句践は馬箠(馬鞭)を持って車の前を歩きます。それを見た呉人は皆指さして「あれは越王だ」と言いました。
句践は首を低くして従うしかありません。
 
句践が石室に住んで二カ月が経ちました。
范蠡が朝夕とも傍に仕えて寸歩も離れません。
ある日、夫差が句践を招きました。句践が前に跪いて伏せ、范蠡が後ろに立っています。
夫差が范蠡に言いました「寡人はこう聞いている『哲婦(優れた婦人)は破亡(破滅)する家に嫁がず、名賢は滅絶する国に仕官しない(哲婦不嫁破亡之家,名賢不官滅絶之国)』。今、句践の無道によって国が既に亡んだ。子(汝)の君臣は共に奴僕となり、一室に拘留されているが、情けないとは思わないか?寡人は子(汝)の罪を赦そうと思う。子が過ちを改めて自分を新しくし、越を棄てて呉に帰順するのなら、寡人は必ず重用しよう。憂患から去って富貴を得るのは如何だ?」
夫差が話している間、越王は地に伏せて涙を流し、范蠡が呉に従うことだけを恐れていました。
范蠡は稽首してこう答えました「臣はこう聞いています。『亡国の臣は敢えて政を語らず、敗軍の将は敢えて勇を語らない(亡国之臣,不敢語政。敗軍之将,不敢語勇)』。臣は越で不忠不信だったため、越王を補佐して善に導くことができず、大王の罪を得ることになってしまいました。幸いにも大王が誅を加えなかったので、君臣とも命を保っています。(王宮に)入ったら掃除の備えとなり、出たら趨走(奔走。服役)することができれば、臣の願いは充分満たされます。富貴を望むつもりはありません。」
夫差が言いました「子の志が変わらないのなら石室に帰れ。」
范蠡は「謹しんで君命に従います」と答えました。
夫差は立ち上がって宮中に戻り、句践と范蠡はすぐ石室に入りました。
 
越王は犢鼻(服の一種。腰巻のような物)を身に着け、樵頭(樵が使うような粗い布の頭巾)を巻き、芝草を刈って馬を養いました。
夫人は無縁の裳(裳は下半身を覆う服。無縁は縁に装飾がないこと)と左関の襦(襦は短衣。左関は右の襟が左の襟を覆う着方。蛮夷を意味します)を着て、水を汲んだり糞尿をかたづけたり掃除をしました。
范蠡は薪を拾って炊事をします。次第に顔がやつれてきました。
夫差は頻繁に人を送って三人の様子を窺いました。君臣が努力して働き、わずかな怨恨の様子もなく、夜の間も愁嘆の声を上げないため、故郷に帰る志がないと判断して度外に置くようになりました(警戒しなくなりました)
 
ある日、夫差が姑蘇台に登りました。遠くを眺めると越王と夫人が馬糞の傍で姿勢を正して坐っており、范蠡が箠(馬鞭)を持って左に立っています。君臣の礼も夫婦の儀も備わっていました。
夫差が顧みて太宰嚭に言いました「あの越王は小国の君に過ぎず、范蠡も一介の士に過ぎないが、窮厄の地にいても君臣の礼を失わない。寡人は心から敬服する。」
伯嚭が言いました「敬服に値するだけでなく、憐れでもあります。」
夫差が言いました「太宰の言の通りだ。寡人は彼等を見るのが忍びない。もし彼等が過ちを悔いて変わったのなら、赦してもいいのではないか?」
伯嚭が言いました「『徳がなければ報いもない(無徳不復)』といいます。大王が聖王の心をもって孤窮の士を哀れみ、恩を越に加えるなら、越は厚く報いることでしょう。大王の決心を願います。」
夫差が言いました「太史に吉日を選ばせて越王を釈放し、国に帰らせよう。」
伯嚭は秘かに家人を送り、五鼓(五更。午前三時から五時)に石室を訪問させて喜信を句践に報せました。
句践は大喜びして范蠡に伝えます。
しかし范蠡はこう言いました「王のために占わせてください。今日は戊寅で、卯の時に報せを聞きました。戊は囚日で、卯は戊に克ちます(具体的な意味はわかりません)。その繇にはこうあります『天の網が四方に張られ、万物がことごとく傷つく。吉祥が逆に禍となる(天網四張,万物尽傷,祥反為殃)』。今回、報せが来ましたが、喜ぶことはできません。」
句践は喜びが憂いに変わりました。
 
伍子胥も呉王が越王を釈放しようとしていると聞きました。急いで謁見して諫めます「昔、桀が湯を幽閉したのに誅さず、紂が文王を幽閉したのに殺さなかったため、天道が逆転し、禍が福に転じ、桀が湯に放逐され、商が周に滅ぼされることになりました。今、大王は既に越君を幽閉したのに誅を行おうとしません。恐らく夏殷の患が至るでしょう。」
夫差は伍子胥の言を聞いて再び越王を殺す意志を抱きました。人を送って越王を召します。
夫差の使者が到着する前に伯嚭が句践に情報を伝えたため、句践は驚いて范蠡に話しました。
范蠡が言いました「王が懼れることはありません。呉王が王を捕らえて既に三年が経ちます。三年も忍びなかったのに(殺せなかったのに)、一日を忍べるはずがありません。行っても問題ありません。」
句践は「寡人が我慢して死なずにいたのは、全て大夫范蠡の策に頼ってきたからだ」と言って入城し、呉王に会いました。
しかし三日待っても呉王は入朝しません。
伯嚭が宮中から出て呉王の命を伝え、句践を石室に帰らせました。
句践が不思議に思って理由を問うと、伯嚭はこう言いました「王は子胥の言に惑わされたため、誅戮を加えようと思って召しました。しかしちょうど王が寒疾を感じて立ち上がれなくなりました。そこで某(私)が入宮して病状を問い、その機会を利用してこう言いました『災を祓うには福事を行うべきです。今、越王が匍匐して闕下で誅を待っており、怨苦の気が天を衝いています。王は体を大切にし、とりあえず越王を石室に帰らせて、疾が治ってから考えるべきです。』王は某の言を聴いて、あなたを城から出したのです。」
句践は感謝が絶えませんでした。
 
句践が石室に戻って三カ月が経ちました。呉王の病はまだ治りません。
句践が范蠡に吉凶を卜わせると、范蠡が卦を布いてこう言いました「呉王は死にません。己巳の日に至ったら病が減り、壬申の日に必ず全愈します。大王は問疾(看病)の許しを求めてください。もし入宮して会うことができたら、糞を求めて味見し、顔色を観察してから、再拝祝賀して病が治る日を告げてください。その日になって病が治れば、大王の心を動かすことができるので、釈放にも望みができます。」
句践が涙を流して言いました「孤は不肖だがかつては南面して国君になった。どうして屈辱を我慢して人のために泄便を味見しなければならないのだ。」
范蠡が言いました「昔、紂が西伯を羑里に幽閉した時、その子伯邑考を殺し、煮物にして贈りました。西伯は悲痛を忍んで我が子の肉を食したのです。大事を成そうという者は、細かい事に拘らないものです。呉王には婦人の仁がありますが、丈夫の決(決断力)がありません。既に越を赦そうとしたのに突然また考えを変えました。こうしなければ憐れみを得ることはできません。」
句践は即日、太宰府を訪ねて伯嚭に会い、こう言いました「人臣の道においては、主が疾(病)にかかったら臣が憂いるものです。主公が痾(重病)を抱えて治らないと聞いたので、句践は心孤失望(心が虚しくなること)し、寝食も安んじません。太宰に従って疾を問い、臣子の情を表したいと思います。」
伯嚭は「あなたの美意を伝えないわけにはいきません」と言い、呉王に会って句践の相念の情を伝えました。句践が看病する許可を請います。
重病のため疲労していた夫差は句践の気持ちを憐れに思って同意しました。
 
 
 
*『東周列国志』第八十回その三に続きます。