第八十二回 夫差が歃を争い、子路が纓を結ぶ(三)

*今回は『東周列国志』第八十二回その三です。
 
数日後、越王・句践が群臣を率いて自ら呉国に来朝しました。併せて戦勝を祝賀します。呉庭の諸臣にも饋賂(礼物。賄賂)が贈られました。
伯嚭が言いました「これは呉庭に奔走するという兆しに応じています。」
呉王は文台で酒宴を開きました。越王が呉王の傍に坐り、諸大夫は皆立っています。
夫差が言いました「『君は功績がある臣を忘れず、父は力がある子を埋没させない(君不忘有功之臣,父不没有力之子)』という。今、太宰嚭は寡人のために治兵して功がある。わしは賞として上卿にするつもりだ。また、越王は寡人に孝事して倦むことがない。わしは更にその国を増やして討伐を助けた功に報いるつもりだ。衆大夫の意見は如何だ?」
群臣は皆「大王の賞功酬労は覇王の行為です」と答えました。
しかし伍子胥だけは地に伏して泣き、こう言いました「悲しいことだ(嗚呼哀哉)!忠臣が口を塞ぎ、讒夫が傍で邪説諛辞を述べて曲を直としている(間違いを正しいこととしている)。乱を養って奸を蓄えたら、やがて呉国を滅ぼし、廟社を廃墟と化し、殿に荊棘が生えることになるだろう。」
夫差が激怒して言いました「老賊には偽りが多く、呉の妖孽となっている。専権擅威して我が国を傾覆させるつもりだ。寡人は前王のために誅を加えることが忍びなかったが、今回は退いて自ら進退を謀れ。再見の労を要することはない!」
伍子胥が言いました「老臣が不忠不信であったら前王の臣にはなれませんでした。龍逢は桀に逢い、比干は紂に逢いました(龍逢も比干も忠臣でしたが、諫言が原因で殺されました)。たとえ臣が誅されても、主公も続いて滅亡します。臣と王は永辞(永別)し、二度と会うことはありません。」
伍子胥は小走りで退出しました。
 
呉王の怒りは収まりません。そこで伯嚭が言いました「子胥が使者として斉に行った時、子を斉臣の鮑氏に託したと聞きました。呉に対して叛心があります。王は察するべきです。」
夫差は使者を送って伍子胥に「属鏤」の剣を下賜しました。
剣を受け取った伍子胥は嘆いて「王はわしに自裁を求めている」と言いました。
裸足で階を降りて中庭に立ち、天を仰いでこう叫びました「天よ(天乎,天乎)!昔、先王は汝(夫差)を立てようとしなかったが、わしが力を尽くしたおかげで汝は位を継ぐことができた!わしは汝のために楚を破って越に勝利し、威を諸侯に加えた!今、汝は我が言を用いず、逆にわしに死を賜った!わしは今日死ぬが、明日には越兵が至って汝の社稷を掘ることになるだろう!」
伍子胥が家人に命じました「わしの死後、わしの目をえぐって東門に懸けよ。越兵が呉に入るのを観るためだ。」
言い終わると自刎して果てました。
 
使者が剣を持って帰り、伍子胥の臨終の言葉を夫差に伝えました。
夫差は伍子胥の死体を見に行き、罵って言いました「胥よ。汝は死んでから何が分かるというのだ(死んだら見ることも聞くこともできない)?」
夫差は自ら伍子胥の頭を斬って盤門(南門)の城楼の上に置きました。死体は鴟夷(皮袋)に入れ、人に命じて車で運ばせ、長江に投げ捨てます。
夫差が言いました「日月が汝の骨を炙り、魚鱉が汝の肉を食べ、汝の骨は灰(塵)と化す。今後何を見るつもりだ。」
長江に棄てらえた死体は流れに乗って波に揚げられ、潮に従って往来し、崩岸(水の流れで削られた土石の岸)に運ばれました。驚いた土人(現地人)がこっそり拾い上げて呉山に埋葬します。この山は後に胥山と改名されました。今(明清時代)も山には子胥廟があります。
 
夫差は伍子胥を殺してから伯嚭を相国に任命しました。
越の封地を増やそうとしましたが、句践が固辞したため中止します。
越に帰った句践は呉に対する謀略をますます緊迫させました。
しかし夫差は全く気にすることなく、今まで以上に驕恣になりました。数万の兵卒を動員して邗城を築き、溝渠を穿ちます。東北は射陽湖に通じ、西北は江(長江)・淮(淮水)を合流させ、北は沂水に達し、西は済水に達しました。
 
呉王が再び中国(中原諸国)と会盟しようとしました。それを知った太子・友は強く諫めたいと思いましたが、怒りに触れることを恐れ、諷諫(比喩を使った婉曲な諫言)によって父に悟らせることにしました。
清旦(早朝)、太子・友が弾弓を持って後園から出てきました。衣履とも濡れています。それを見た呉王が不思議に思って問うと、太子・友はこう言いました「孩児(子供。私)が後園で遊んでいたら、秋蝉が高樹で鳴いているのが聞こえました。そこに行って探してみると、秋蝉が声を風に乗せて長く鳴いており(趨風長鳴)、悠々としていました。しかしその後ろには螳螂が枝を越えて條(長い枝)に沿って迫っており、腰を引いて鎌を高く上げ、まさに捕まえて食べようとしていました。蝉は全く気づいていません。ところが螳螂も秋蝉に夢中なため、黄雀が緑陰を徘徊して螳螂を食べようとしていることに気づいていません。黄雀も螳螂に夢中なため、孩児(私)が弓で弾をまかえて黄雀を撃とうとしていることに気づいていません。そして孩児も黄雀に夢中なため、傍に空坎(穴)があるということに気づきませんでした。その結果、足を踏み外して中に落ちてしまい、衣履ともに濡らして父王に笑われることになったのです。」
呉王が言いました「汝は前利を貪るだけで後患を顧みなかった。天下の愚において、これ以上のものはない。」
太子・友が言いました「天下の愚にはこれ以上のものもあります。魯は周公の後を受け継いでおり、孔子の教えもあるので、鄰国を犯すことがありません。しかし斉は理由もなく魯の討伐を謀り、魯を占有できると考えました。呉が境内の士を総動員するとは知らず、師を千里に曝して攻撃したのです。呉国は斉師に大勝したので、斉を占有できると思っています。越王が死士を選び、三江の口を出て五湖の中に入り、我が呉国を屠して(皆殺しにして)我が呉宮を滅ぼすことには考えが及んでいません。天下の愚でこれ以上のものはありません。」
呉王が怒って言いました「それは伍員の唾余(つまらない言葉)だ。以前から聞き飽きていたのに、汝がまたそれを拾って我が大計を邪魔するのか!これ以上言うようなら我が子ではない!」
太子・友は懼れて退出しました。
夫差は太子・友と王子・地、王孫・彌庸に国を守らせ、自ら国中の精兵を率いて出征しました。
邗溝を北上し、魯哀公と橐皋で、衛出公と発陽で会してから、諸侯と黄池での大会を約束します。晋と盟主の位を争うつもりです。
 
越王・句践は呉王が既に国境を出たと聞き、范蠡と計を練りました。習流(水軍。訓練を受けた囚人という説もあります)二千人、俊士(教練を受けた優秀な士)四万人、君子(教育を受けた禁衛。貴族という説もありますが、六千人は多すぎると思われます)六千人を動員し、海道から長江に入って呉を襲います。
前隊の疇無餘がまず呉郊に到着しました。王孫・彌庸が出陣し、数合もせずに王子・地も兵を率いて挟撃します。疇無餘は馬が転んで捕えられました。
翌日、句践の大軍が全て到着しました。太子・友が堅守しようとすると、王孫・彌庸が言いました「越人には呉を畏れる心がまだ残っています。また、遠くから来たので疲敝しています。もう一回勝てば必ず去ります。勝てなかった時に改めて守りを固めても遅くはありません。」
太子・友はこの言に惑わされ、彌庸に迎撃させました。太子・友も後に続きます。
 
句践は自ら陣中に立って兵を監督しました。
両軍の陣がぶつかった時、范蠡と泄庸の両翼が喚声を上げて呉軍に迫りました。風雨のような勢いです。
この時の呉軍は、戦に慣れた精勇は全て呉王に従って出征しているため、訓練を受けていない兵卒しか国内に残っていません。これに対して越軍は数年の訓練を経た精兵ばかりで、弓弩剣戟も強くて鋭利です。更に范蠡と泄庸はどちらも宿将です。呉軍がかなうはずがありません。
呉軍は大敗し、王孫・彌庸は泄庸に殺されました。
太子・友は越軍の包囲に陥り、突破を図って失敗しました。体中に数本の矢を浴びてから、捕虜になる恥辱を恐れて自刎します。
 
越兵が呉都の城下に迫りました。
王子・地は城門を堅く閉じ、民夫を率いて城壁を守ります。同時に人を送って呉王に急を告げました。
句践は水軍を太湖に留め、陸営を胥門と閶門(どちらも西門)の間に築いて駐軍しました。また、范蠡を送って姑蘇の台を焼きます。宮殿が広大だったため、火は彌月(一月)経っても消えませんでした。
呉の餘皇等の大舟は全て湖中に移されました。
この間、呉兵は城から出て戦おうとしませんでした。
 
 
 
*『東周列国志』第八十二回その四に続きます。

第八十二回 夫差が歃を争い、子路が纓を結ぶ(四)