第八十五回 楽羊子が中山羹を啜り、西門豹が河伯に婦を送る(中篇)

*今回は『東周列国志』第八十五回中編です。
 
ちょうど八月中秋の時です。中山子姫窟が羊肉や酒を楸山に送って鼓須を慰労しました。鼓須は月に向かって酒を楽しみ、警戒を忘れてしまいます。
三更(夜二十三時から一時)の頃、西門豹が壮兵を率い、枚をくわえて突進しました。皆、一本ずつ長炬(たいまつ)を持っています。長炬には枯枝が巻きつけてあり、その中に引火しやすい薬物を浸してありました。
四方の山下で楸木に火が点けられます。
鼓須が軍中で燃えている火に気づきました。火は営寨に燃え移ります。鼓須は酔いを帯びたまま軍士に命じて火を消させましたが、火は音を立てて激しく燃え上がり、隙間もないほど山中に拡がりました。軍中が大混乱に陥ります。
鼓須は前営に魏兵がいると知っていたため、急いで山の後ろに向かって逃げました。
しかし楽羊が兵を率いて山の後ろから襲来します。
中山の兵は大敗し、鼓須は死戦の末、やっと脱出しました。
 
鼓須は白羊関まで来ましたが、魏兵がすぐ後ろに追って来たため、関を棄てて逃走しました。
楽羊は長駆して関に入り、立ち向かう敵をことごとく破っていきます。
鼓須は敗兵を率いて姫窟に会い、楽羊の勇智に対抗するのは困難だと報告しました。
 
すぐに楽羊が中山を包囲しました。
姫窟が激怒すると、大夫公孫焦が言いました「楽羊は楽舒の父で、舒は本国に仕えています。主公は舒に命じて城壁の上から父に兵を退くように説得させるべきです。これこそ上策です。」
姫窟はこれに従い、楽舒に言いました「汝の父が魏将となって城を攻めて来た。もし説得して兵を退かせることができたら、汝に大邑を封じよう。」
楽舒が言いました「臣の父はかつて中山に仕えようとせず、魏に仕えました。今はそれぞれが自分の主のために働いています。臣の説得がうまくいくはずがありません。」
しかし姫窟が強制したため、楽舒はやむなく城壁に登り、大声で父に声をかけました。
 
楽羊は甲冑を着て車に乗り、楽舒の姿を見つけると口を開くのを待たず、譴責して言いました「君子は危国に住まず、乱朝に仕えないものだ。しかし汝は富貴を貪って去就を知ることができなかった。わしは君命を奉じ、民を助けて罪を討ちに来た。汝の君に速やかに投降するように勧めれば、また会うこともできるだろう。」
楽舒が言いました「降るか降らないかは国君しだいです。男(恐らく「児」。私の意味)が勝手に決めることではありません。父には暫く攻撃を緩め、我が君臣がゆっくり計議することを許していただきたいです。」
楽羊が言いました「一カ月兵を休ませよう。父子の情を全うさせるためだ。汝の君臣は速やかに議を定めよ。大事を誤ってはならない。」
楽羊は軍令を出して城を攻めないように命じました。包囲だけが布かれます。
 
姫窟は楽羊が子を愛する心によって急襲できないことに頼り、とりあえず先延ばしを図りましたが、今後に対する考えは全くありません。
瞬く間に一カ月が経過し、楽羊が人を送って投降の書信を要求しました。
すると姫窟はまた楽舒を使って攻撃を緩めるように求めます。
楽羊は更に一カ月待ちました。
これが三回繰り返された時、西門豹が言いました「元帥は中山を攻略する意思がないのですか?なぜ久しく攻撃しないのですか?」
楽羊が言いました「中山君が百姓を憐れまないから、我々が討伐しに来た。もし猛攻を加えたら、ますます民を傷つけることになるだろう。私が彼等の請いに三回従ったのは、父子の情のためだけではない。民心を収めるためでもある。」
 
その頃、魏文侯の左右の者は楽羊が用いられたばかりなのに大任を任されたため、皆、不平の心を持っていました。
三回にわたって攻撃を中止したと聞くと、楽羊を謗って文侯にこう言いました「楽羊は連勝の威に乗じて破竹の勢いでしたが、楽舒の一語によって三カ月も攻撃を加えていません。ここから父子の情が深いことがわかります。主公が召し返さなかったら、恐らく師(軍)疲労させて財を費やすだけで、益はありません。」
文侯はこれに応えず、翟璜に問いました。
翟璜はこう言いました「必ず計があるのです。主公が疑う必要はありません。」
しかしこの後、群臣が次々に上書しました。ある者は中山が国の半分を楽羊に与えるつもりだと言い、ある者は楽羊が中山と謀って共に魏国を攻めようとしていると言います。
文侯はこれらの上書を全て封して篋(箱)にしまうと、頻繁に使者を送って楽羊を慰労し、都内に府第を築いて帰国を待ちました。
 
楽羊は文侯の好意に対して甚だしく感激しました。中山に投降する意思がないと知ると、将士を率いて攻城を開始し、力を尽くして戦います。
しかし中山の城壁は堅厚で、食糧の蓄えも豊富です。その上、鼓須と公孫焦が昼夜欠かさず巡警し、城中の家屋等に使われている木石を利用して捍禦(防御)の備えとしたため、数カ月経っても攻略できませんでした。
苦戦に悩む楽羊は発憤して西門豹と共に自ら矢石の下に立ち、四門に猛攻を加えるように命じます。
軍士を指揮していた鼓須は脳門(前頭部)に矢が中って死にました。
城内の房屋牆垣(家屋や壁垣)はほとんど取り壊されており、防御の備えも不足しています。
公孫焦が姫窟に言いました「事は急を要します。今は一計だけが魏兵を退けることができます。」
姫窟がその計を問うと、公孫焦が言いました「楽舒が三回攻撃を緩めるように求め、楽羊は三回とも聴き入れました。そこから子を愛する情が見て取れます。今、攻撃が激しくなっているので、楽舒を縛って高竿に結びつけ、師(軍)を退かなかったら子を殺すと宣言し、楽舒に命乞いをさせれば、楽羊の攻勢は必ずまた緩くなります。」
姫窟はこの言に従ました。
 
暫くして、楽舒が高竿の上で「命をお助けください(父親救命)!」と叫びました。
それを見た楽羊が怒って言いました「不肖の子よ、汝は人の国に仕えながら、上は奇を生んで策を用いることで主に戦勝の功を挙げさせることができず、下は危難に臨んで命をかけることで君に行成(講和)の計を決断させることができず、乳を吸う小児のように泣き叫んで憐れみを乞うのか!」
言い終わると弓を矢に乗せて楽舒を射ようとしました。
楽舒は苦悩して城壁を降り、姫窟に会って言いました「父の志は国のためにあり、父子の情を念じるつもりはありません。主公は自ら戦守を謀ってください。兵を退かせることができなかった罪を明らかにするために、臣が君前で死ぬことをお許しください。」
公孫焦が言いました「父が城を攻めているのですから、その子を無罪にするわけにはいきません。死を賜るのは当然です。」
姫窟が言いました「これは楽舒の過ちではない。」
公孫焦が言いました「楽舒が死ねば、臣に兵を退かせる計があります。」
姫窟は剣を楽舒に授けました。楽舒は自剄して果てます。
 
公孫焦が言いました「人の情において、父子の親(親しみ)に勝るものはありません。楽舒を煮て羹を作り、それを楽羊に送れば、楽羊は羹を見て忍びなくなります。哀泣のために攻戦の心を失った隙に、主公が一軍を率いて殺到し、一場の大戦を展開してください。幸いにも勝利を得ることができたら、改めて後の事を考えましょう。」
姫窟は他に計がないため、やむなくこれに従いました。楽舒の肉で羹を作り、首と一緒に楽羊に送ってこう伝えます「寡君は小将軍(楽舒)が師を退けることができなかったので、既に殺して羹にした。ここに謹んで羹を献上する。小将軍にはまだ妻孥(妻子)がいる。元帥がもしまだ城を攻めるようなら、即刻誅戮を行わなければならない。」
楽羊は我が子の首だと認めると、罵って言いました「不肖の子よ!無道の昏君に仕えたのだから死を得るのは当然だ!」
楽羊は羹を手に取り、使者がいる前で食べ始めます。
一器(一杯)を食べ終わってから使者にこう言いました「汝の君から羹を贈っていただいたので、城を落とした日には直接謝意を述べよう。我が軍にも鼎鑊があり、汝の君を待っている。」
 
使者が帰ってこの事を報告しました。
姫窟は楽羊に悲痛する心がないと知り、攻城もますます激しくなったため、城が落ちてから辱めを受けることを恐れ、後宮に入って自縊しました。
公孫焦が門を開いて投降します。
楽羊は公孫焦が讒諂によって国を滅ぼした罪を譴責して処刑しました。
 
楽羊は居民を慰撫してから兵五千を留めて西門豹に守備を命じました。楽羊自身は中山の府藏に蓄えられた宝玉を全て奪って魏に兵を還します。
 
楽羊の成功を聞いた魏文侯は自ら城を出て迎え入れ、労ってこう言いました「将軍は国のために子を失った。これは孤の過ちだ。」
楽羊が頓首して言いました「臣には義があるので、私情を顧みて主公から与えられた斧鉞の寄(任務)を裏切ることはできません。」
楽羊は朝見の礼を終えてから中山の地図と宝貨の数(明細)を献上しました。
群臣が戦勝を祝賀します。
文侯は内台の上で宴を開き、自ら觴(杯)を持って楽羊に下賜しました。楽羊は觴を受け取って飲み干します。足を高く上げ、気を高揚させ、功に驕る態度が見られました。
宴が終わると文侯が左右の近臣に命じて二つの篋(箱)を運んで来させました。固く封識(封をして上に印があること)がしてあり、そのまま楽羊の邸宅に持って帰るように命じます。近臣が二つの篋を渡した時、楽羊はこう考えました「篋の中には珍珠金玉の類が入っているに違いない。主公は群臣の嫉妬を恐れたから、このように封識して私に贈ったのだ。」
楽羊は家人に命じて中堂に運ばせます。そこで篋を開いて見ると、全て群臣の奏本でした。どれも楽羊の反叛について書かれています。
楽羊が驚いて言いました「朝中にはこれほどまで造謗(誹謗)があったのか!もしも我が君が深く信頼せず惑わされていたら、どうして成功できただろう。」
 
翌日、楽羊が入朝して恩を謝しました。文侯が上賞を加えることを議すと、楽羊は再拝してこう言いました「中山を滅ぼすことができたのは全て主公が内で力持(堅持)したからです。臣は外でわずかな犬馬の労を尽くしたにすぎません。何の力(功)があるというのでしょう。」
文侯が言いました「寡人でなければ卿に任せることができなかったが、卿でなかったら寡人の任に応えることもできなかった。しかし将軍は労苦したであろう。封邑に就いて安食(平穏に生活すること)すればよい。」
楽羊は霊寿の地に封じられ、霊寿君と称すことになりました。兵権は失います。
 
翟璜が文侯に問いました「主公は楽羊の能力を知っているのに、なぜ兵を指揮させて辺境の備えとせず、安閒(安静な生活)に放ったのですか?」
文侯は笑うだけで答えません。
朝廷を出た翟璜が李克に問うと、李克はこう言いました「楽羊は自分の子も愛さなかった。他の者に対してならなおさらだろう。これは管仲易牙を疑ったのと同じだ。」
翟璜はやっと悟りました。
 
 
 
*『東周列国志』第八十五回下編に続きます。