第八十六回 呉起が将を求め、騶忌が相を取る(二)

*今回は『東周列国志』第八十六回その二です。
 
魏文侯が翟璜に西河の守備について尋ねました。ちょうど呉起が翟璜の家に投じていたため、翟璜は呉起を推挙します。
文侯が呉起を招いて問いました「将軍は魯将として功を立てたと聞いたが、なぜわざわざ敝邑に来たのだ?」
呉起が答えました「魯侯は讒言を信じて臣を信任できませんでした。だから臣は死から逃れるためにここに来たのです。君侯は下士に対しても腰を低くして(折節下土)豪傑を帰心させていると聞いたので、君侯を慕っていました。どうか馬前で鞭を執らせてください。もしも駆使を蒙ることができるのなら(用いていただけるのなら)、肝脳が地を塗ったとしても(「肝脳塗地」。命を落としたとしても)恨みはありません。」
文侯は呉起を西河守に任命しました。
西河に入った呉起は城池(城壁や濠)を修築して兵を訓練ました。士卒を愛して慈しむ姿は魯将だった時と変わりません。
秦に対抗するために城を築き、呉城と命名しました。
 
 
当時、秦恵公が死んで太子が即位しました。名を出子といいます。
恵公は簡公の子で、簡公は霊公の季父(叔父)にあたります。
霊公が死んだばかりの時、その子師隰がまだ幼かったため、群臣は簡公を奉じて即位させました。
その後三代で出子(簡公恵公出子)に至ります。
既に成長していた師隰が大臣に言いました「この国は元々我が父の国だった。私は何の罪があって廃されたのだ?」
大臣は誰も答えられず、協力して出子を殺してしまいました。こうして師隰が即位しました。これを献公といいます。
 
呉起が秦国の多事多難に乗じて秦を急襲し、河西の五城を占領しました。
韓と趙が祝賀の使者を魏に送ります。
文侯は翟璜が賢人を推挙した功を称えて相国に任命しようとしました。そこでまず李克に意見を求めました。
しかし李克は「魏成に及びません」と言います。
文侯は納得して頷きました。
李克が朝廷を出ると、翟璜が迎えて問いました「主公が相を選ぼうとしており、子(汝)の意見を聞いて決定すると聞いた。もう決まったか?誰になった?」
李克が言いました「既に魏成に決まりました。」
翟璜が怒って言いました「国君が中山を討伐しようとした時、私が楽羊を進めた。国君が鄴を憂いた時には、私が西門豹を進めた。国君が西河を憂いた時には、私が呉起を進めた。なぜ私が魏成に及ばないのだ!」
李克が言いました「成(魏成)が推挙したのは卜子夏、田子方、段干木といった人物で、国君の師か友です。子(あなた)が進めた者は全て国君の臣です。成は千鍾の食俸がありますが、十分の九は外で使っており、賢士を遇しています。子の禄食は全て自分を満足させるために使われています。子がどうして魏成と較べられるのですか?」
納得した翟璜は再拝して「鄙人(見識がない者。小人)が失言しました。弟子として門下に侍らせてください」と言いました。
この後、魏国の将相は適切な人材が用いられ、辺鄙が安定し、三晋の中で魏が最も強盛になりました。
 
斉の相国田和は魏の強盛と文侯の賢名が天下で尊重されているのを見て、魏と深い関係を結びました。
やがて斉の国君である康公貸を海上に遷しました。康公には一城だけ与えてその収入で生活させます。残りの地は全て田氏が奪いました。
また、魏文侯に使者を送って周王朝へのとりなしを求めました。三晋が周王室から封侯された前例に倣って諸侯に列しようとします。
この時の周は、威烈王が既に死に、子の安王驕が即位していました。周王室の勢力はますます微弱になっています。
安王十三年、安王は魏文侯の要請に同意し、田和を斉侯に封じました。これを田太公といいます。陳の公子完が斉に出奔して斉桓公の大夫になってから、田氏は十世にわたって継承され、田和に至って斉(姜氏の斉)の代わりに国を有すことになりました。姜氏の祭祀はここで途絶えました。
 
 
当時、三晋は相の人選を重視していました。そのため相国の権勢が重くなります。趙相公仲連や韓相俠累がその代表です。
このうち俠累は、まだ身分が低かった時、濮陽の人仲子(名は遂)と八拝の交(兄弟の交わり)を結びました。
侠累の家は貧しく、厳遂は豊かだったため、厳遂が日常の必需品を提供し、更に千金を投じて遊費(仕官のために周遊する際の費用)を援助しました。そのおかげで俠累は韓に仕えて相国の位に登ることができました。
政治を行うようになった俠累は、威重(威厳。尊厳)を際立たせて個人的に会いに来る者を全て拒絶しました。
やがて、厳遂が俠累による推挙を求めて韓に来ましたが、一月以上待っても会えません。そこで厳遂は家財を国君の左右の者に贈って烈侯に直接謁見しました。
烈侯は厳遂を気に入って重用しようとします。
ところが俠累が烈侯の前で繰り返し厳遂の短所を述べて妨害しました。それを聞いた厳遂は俠累を深く怨み、韓を去って諸国を遊歴しました。怨みを雪ぐために俠累を刺殺できる勇士を探します。
 
厳遂が斉国に至った時、屠牛の肆(店)の中で巨斧を操っている男を見ました。斧を下した場所は、瞬く間に筋骨が分解され、全く力を費やすことなく牛がさばかれていきます。その斧の重さは三十余斤もありそうです。
厳遂は尋常ではないと思い、詳しく男を観察しました。身長は八尺あり、環眼虯鬚(目が丸くて髭が縮れていること)、顴骨特聳(頬骨が出っ張っていること)という容貌で、声音(言葉)を聞くと斉人ではないようです。
厳遂は男を招いて姓名と来歴を問いました。
男が答えました「某(私)は姓を聶、名を政といい、魏人です。家は軹の深井里にあります。賎性(本性。性格)が粗直なので郷里で罪を得てしまい、老母と姉を連れてこの地に逃げて来ました。屠牛を行って朝夕の供としています(生計を立てています)。」
聶政が厳遂に姓と字を聞いたため、厳遂も姓名を告げました。この日はこれだけで別れます。
 
翌朝、厳遂が衣冠を整えて再び聶政を尋ねました。酒肆(酒店)に招待して賓主の礼を行います。
酒が三酌(三杯。三巡)してから、厳遂が黄金百鎰を出して聶政に贈りました。聶政があまりの厚遇を不思議がると、厳遂が言いました「子(あなた)の堂(家)に老母がいると聞いたので、個人的に不腆(つまらない物)を贈り、吾子(あなた)に代わって一日の養にしようと思ったのです(あなたが老母を養うのを援けようと思ったのです)。」
聶政が言いました「仲子が老母を養おうとするのは、政(私)を用いる場所があるからではありませんか。明言しないのなら受けるわけにはいきません。」
厳遂は俠累が恩に背いたことを詳しく語り、恨みに報いたいと話しました。
聶政が言いました「昔、専諸はこう言いました『老母がいるのでこの身を人に許すわけにはいきません。』仲子は別に勇士を求めてください。某(私)は無駄に尊賜を受けるわけにはいきません。」
厳遂が言いました「某(私)はあなたの高義を慕い、兄弟の好を結びたいと思っています。私事を成すために養母の孝を奪うつもりはありません。」
聶政は強く譲られたため、やむなく黄金を受け取りました。半分は姉罃が結婚する時の費用とし、残りの金で毎日、肥甘(脂がのった肉や甘味。美食)を買って母を養いました。
一年余りで老母が病死しました。
厳遂が聶政を訪ねて哭弔し、聶政に代わって葬儀を行います。喪葬が終わってから聶政が言いました「今日の身は足下(あなた)の身です。好きに用いてください。私がこの身を惜しむことはありません。」
仲子は仇に報いる策を問い、車騎や壮士を準備しようとしました。しかし聶政はこう言いました「相国は至貴なので、出入りする際の兵衛は較べる者がないほど衆盛なはずです。よって、奇策を用いるべきです。力で勝とうとしてはなりません。鋭利な匕首を手に入れて、懐に隠して近づき、隙を伺って事を行うつもりです。今日、私は仲子と別れて先に行きます。今後、会うことはありません。仲子も私の事を誰にも問わないでください。」
 
聶政は韓に入って郊外で宿泊しました。三日間、静かに休息します。
四日目の早朝、城に入りました。ちょうど俠累が朝廷から出てきます。駟馬の高車に乗り、戈を持った甲士が前後を護衛し、飛ぶように去っていきました。
聶政は相府まで後を追いました。
侠累は車を下り、府中に座って諸事を裁決します。大門から堂階に至るまで、全て兵仗が守っています。
聶政は離れた場所から堂上を眺めました。侠累は席(座布団)を重ねて座り、案(机)にもたれ掛っています。左右の者が次々に牒(書類)を持って報告し、裁決を求めました。
暫くしてやっと政務が片付きました。俠累が席を去ろうとします。聶政は俠累や周りの者が油断した隙を突き、「相国に急ぎの用があります」と言いながら走って前に進みました。門の外から腕を揮って直進します。甲士が遮ろうとしましたが、全て縦横に倒されました。
聶政は瞬く間に公座に接近し、懐から匕首を出して俠累を刺しました。
侠累は驚いて立ち上がりましたが、席を離れる前に心(心臓)を突かれて命を落とします。
堂上が混乱に陥り、一斉に「賊だ!」と叫びました。
衛兵が門を閉じて聶政を捕らえようとします。
聶政は衛兵と戦って数人を殺しましたが、逃げられないと判断しました。しかしそのまま死んだら身元を知っている者がいるかもしれません。聶政は急いで匕首を使って顔を削ぎ、両目をえぐり出してから、喉を刺して死にました。
 
 
 
*『東周列国志』第八十六回その三に続きます。

第八十六回 呉起が将を求め、騶忌が相を取る(三)