第八十六回 呉起が将を求め、騶忌が相を取る(三)

*今回は『東周列国志』第八十六回その三です。
 
韓烈侯は俠累が殺されたと聞いて「賊は誰だ?」と問いました。しかし誰にもわかりません。そこで死体を市中に曝し、千金の賞を懸けました。相国の仇に報いるために、賊の姓名と来歴を求めます。
死体は七日間曝され、蟻のように人々が往来しましたが、知っている者はいませんでした。
 
この事件はすぐに魏国の軹邑にも伝わりました。聶政の姉(結婚して故郷に帰っていたようです)が痛哭して言いました「それは弟に違いありません!」
罃は素帛(白い布。白は喪服の色です)で頭を包んで韓国に入りました。聶政の死体が市に晒されています。罃は死体を撫でて哀哭しました。
市吏(官吏)が罃を捕らえて問いました「汝は死者の何者だ?」
婦人が言いました「死者は私の弟の聶政です。妾(私)は姉の罃です。聶政は軹の深井里に住み、勇によって名が知られていました。彼は相国を刺した罪が重いことを知っており、賎妾(私)に累を及ぼすことを恐れたので、目をえぐって顔を破り、自ら名を隠そうとしたのです。しかし妾には一身の死を惜しんで弟を人の世に埋没させるようなことはできません。」
市吏が言いました「死者が汝の弟なら、賊となった理由も知っているであろう。誰が指示したのだ?汝が明言すれば、汝の一死が赦されるように、私が主上に請うてやろう。」
罃が言いました「妾が命を惜しむのなら(原文「愛死」。死を惜しむという意味)、敢えてここには来ません。弟は身躯を惜しむことなく、人の代わりに千乗の国相を誅して仇に報いました。もし妾がその名を言わなかったら、弟の名を埋没させてしまいます。しかしもしいきさつを洩らしたら、弟の義を埋没させることになってしまいます。」
罃は市中にある井亭の石柱に頭を打ちつけて死にました。
市吏が韓烈侯に報告すると、烈侯は嘆息して埋葬するように命じました。
その後、俠累の代わりに韓山堅が相国に任命されました。
 
烈侯の死後、子の文侯が位を継ぎ、文侯の後は哀侯が継ぎました。
韓山堅はかねてから哀侯と不仲だったため、隙に乗じて哀侯を弑殺しました。
しかし諸大臣が協力して韓山堅を誅殺し、哀侯の子若山を立てました。これを懿侯といいます。
懿侯の子は昭侯といい、申不害を相に用いました。
申不害は刑名の学(法家の学問)に精通しており、国が大いに治まりました。これらは後の話です。
 
 
周安王十五年、魏文侯斯が病にかかり、危篤に陥りました。太子撃を中山から招きます。
魏の太子が中山から離れたという情報が趙に入りました。趙はすぐに中山を急襲して奪います。この後、魏と趙に間隙ができました。
 
太子撃が魏都に還った時、魏文侯は既に死んでいました。太子が喪を主宰して位を継ぎます。これを武侯といいます。
武侯は田文を相国に任命しました。
呉起が西河から戻って入朝しました。呉起は自分の功績が大きいと信じており、相国に任命されることを期待していたため、田文が既に相になったと知って憤然としました。
呉起が朝廷を出た時、門で田文に遭遇しました。呉起が田文を迎えて言いました「子(あなた)は起(私)の功を知っていますか?今日、子に論じさせてください。」
田文は拱手して「お聞かせください」と言いました。
呉起が言いました「三軍の衆を統率し、士卒が鼓声を聞いたら死も忘れて国のために功を立てるようになる。この点において、子と起ではどちらが優れていますか?」
田文が言いました「私は及びません。」
呉起が言いました「百官を治め、万民を親しませ、府庫を充実させるという点において、子と起ではどちらが優れていますか?」
田文が言いました「私は及びません。」
呉起が言いました「西河を守って秦兵に東犯させず、韓趙を賓服服従させるという点において、子と起ではどちらが優れていますか?」
田文が言いました「私は及びません。」
呉起が言いました「この三者において、子は全て私の下にいます。しかし位が私の上に加えられているのはなぜでしょうか?」
田文が言いました「某(私)は上位を叨竊(得るべきではない物を得ること)しており、誠に恐縮しています(誠然可愧)。しかし今日は新君が統(血統。位)を継いだばかりです。主公はまだ若く、国人が猜疑しており、百姓は親しまず大臣も帰服していません。某は先世の勲旧(勲功がある旧臣)として肺腑重臣を承乏(暫定的に職に就くこと)していますが、今は功を論じる日(時)ではないでしょう。」
呉起は頭を伏せて深く考え、暫くしてこう言いました「子の言ももっともです。しかし相の位は、最後はやはり私に属すべきでしょう。」
二人が功績を論じているのを内侍が聞いて武侯に報告しました。
武侯は呉起に怨望の心があると疑い、呉起を都に留めて西河守には別の者を任命しようとしました。
呉起は武侯に誅殺されるのではないかと懼れて楚国に出奔しました。
 
楚悼王熊疑は以前から呉起の才を聞いていたため、一見して相印を授けました。
呉起は恩に感謝して発奮し、富国強兵を自分の任務にしました。そこで悼王に言いました「楚国の地は方数千里に及び、帯甲も百余万を擁しているので、本来なら、雄によって諸侯を圧し、代々盟主になって当然のはずです。しかし列国を越えることができないのは、養兵の道が失われているからです。養兵の道とは、まずその財を豊富にし、その後、力を用いるものです。今、不急の官(必要ない官員)が朝署(朝廷官署)を満たしており、疏遠の族(血縁関係が離れた王族。貴族)が公廩(国庫)を浪費しています。それなのに、戦士はわずかに残った食糧(升斗之余)を食べるだけです。これでは戦士に体を棄てて殉国させようとしても、難しいでしょう。大王が臣の計を聞くのなら、冗官(必要ない官員)を淘汰し、疏族(血縁関係が薄い王族)を排斥し、廩禄(俸禄)を蓄えて敢戦の士(勇敢な戦士)を遇するべきです。このようにしても国威が振るわないようなら、臣は妄言の罪によって誅に伏すことを請います。」
悼王は呉起の計に従いました。群臣の多くが反対しましたが、悼王は意志を変えず、呉起に官制を詳しく定めさせます。
その結果、数百人の冗官が削られ、大臣の子弟でも血縁だけでは俸禄を貪ることができなくなりました。また、公族でも五世以上離れた者は自分の力で生計を立てさせ、編氓(庶民)と同等にしました。五世以下の者は国王との関係の遠近によって俸禄が決められます。
こうして国賦の出費から数万が省かれることになりました。
そこで、国中から精鋭の士を選び、朝夕訓練しました。能力を確認して廩食(国が支給する糧食)を決めます。厚く遇された者は数倍の収入を得るようになったため、士卒は競って努力しました。
兵力が強大になった楚は天下を雄視しました。三晋、斉、秦は皆これを恐れ、悼王の世が終わるまで楚に兵を加えようとしませんでした。
 
しかし悼王が死ぬと状況が一変します。殯歛(死者の着替えをして棺に入れる儀式)を終える前に、楚の貴戚や大臣の子弟で俸禄を失った者達が、喪に乗じて乱を起こしました。目的は呉起誅殺です。
呉起が宮寝に奔ると、衆人が弓矢を持って後を追いました。呉起は敵わないと判断し、体を伏せて悼王の死体に抱きつきます。
衆人が一斉に矢を放ち、呉起だけでなく、王の死体にも数本の矢が刺さりました。
呉起が大声で叫びました「某(私)は死ぬことを惜しいとは思わない。諸臣は王に対して恨みを持ち、僇(辱め)が屍にまで及んだ。大逆不道が楚国の法から逃れられると思うか!」
言い終わると息が絶えました。
呉起の言を聞いた者達は恐れて離散します。
 
太子熊臧が位を継ぎました。これを粛王といいます。
粛王は一月余が経ってから、悼王の死体に矢を射た罪を追求し、弟の熊良夫に兵を与えて討伐させました。乱を起こした者達は次々に自分の家で誅殺され、七十余家が滅ぼされました。
 
 
 
*『東周列国志』第八十六回その四に続きます。