第八十六回 呉起が将を求め、騶忌が相を取る(五)

*今回は『東周列国志』第八十六回その五です。
 
斉の騶忌はしばしば周りの者に「邑守の中で誰が賢人で誰が不肖だ?」と問いました。
同朝の人(同じ朝廷に仕える者)は皆、口を極めて阿大夫の賢才を褒め称え、即墨大夫をけなします。
騶忌はこれを威王に話しました。
威王は鄒忌の言を心中に置くことなく、自ら度々左右の者に同じ質問をしました。返ってくる答えはほとんど同じです。
そこで威王は秘かに人を送って二邑の政治を調査させました。
暫くして、使者が戻って事実を報告します。
威王は王旨(王命)を降して阿と即墨の二守を入朝させました。まず即墨大夫が到着して威王に朝見します。威王は何も言いません。左右の者は皆、威王の意図が分からず、訝しがっています。
やがて阿邑大夫も到着しました。威王は賞罰を行うために群臣を集めます。
左右の者達は心中でこう予想しました「今回、阿大夫は必ず重賞を与えられるだろう。即墨大夫には禍事が訪れる。」
文武百官が集まって朝見の礼を終えると、威王は即墨大夫を前に招いてこう言いました「子(汝)が即墨で官に就いてから、毎日、毀言(誹謗)が届いている。よってわしが人を送って即墨を視察させたところ、田野が開闢され、人民は富饒で、官員が政務を滞ることもなく、そのおかげで東方が安寧になっていた。子は邑を治めることに専意(専心)しており、わしの左右の者に媚びようとしなかったため、毀言を蒙ることになったのだ。子は誠に賢令である。」
威王は即墨大夫に万家の邑を加封しました。
その後、阿大夫を招いて言いました「子が阿を守るようになってから、毎日、譽言(称賛する言葉)が届いている。よってわしが人を送って視察させたところ、田野は荒蕪(荒廃)し、人民は凍餒(餓えと凍えに苦しむこと)していた。以前、趙兵が国境に接近した時も、子は救いに行かなかった。厚幣精金を賄賂にしてわしの左右に贈り、美譽を求めていただけだ。守(邑守)の不肖において、汝を越える者はいない。」
阿大夫は頓首して罪を謝り、過失を改める機会を求めました。しかし威王は請願を聴かず、力士を呼んで鼎鑊(大鍋)を準備させました。
すぐに火が激しく燃えて湯が沸騰します。阿大夫は縛られて鼎の中に投げられました。
更に威王は左右の近臣を集め、普段から阿大夫を褒めて即墨大夫をけなしていた数十人を譴責して言いました「汝等は寡人の左右にいるから、寡人は耳目を汝等に寄せている(汝等の耳目を頼りにしている)。それなのに、秘かに賄路を受け取り、是非を転倒させて寡人を欺いた。このような臣を持っていても役に立たない。全て烹(釜茹で)に処すべきだ。」
近臣達は泣いて拝礼し、命乞いをしました。しかし威王の怒りは収まらず、普段から特に信任していた十余人を順に煮殺しました。
その場にいた者が皆戦慄しました。
 
威王は賢才を選んで郡守を交代させました。檀子が南城を守って楚を防ぎ、田肹が高唐を守って趙を防ぎ、黔夫が徐州を守って燕を防ぎます。また、種首が司寇に、田忌が司馬になり、国内が大いに治まりました。諸侯が斉に畏服します。
 
威王は下邳を騶忌に封じてこう言いました「寡人の志を成したのは吾子(汝)だ。」
騶忌は成侯と号すようになります。
騶忌は恩に謝してから改めて上奏しました「昔、斉桓公と晋文公が五霸の中で最も強盛だったのは、尊周を名分にしたからです。今、周室は衰えましたが、九鼎がまだ存在しています。大王は周に入って朝覲の礼を行い、王寵を借りて諸侯に君臨するべきです。そうすれば、桓文(斉桓公と晋文公)の業も取るに足らないものとなります。」
威王が言いました「寡人は既に王を僭号している。王の立場で王に朝見するのは相応しくないだろう。」
騶忌が言いました「主公が王を称したのは、諸侯に雄長する(覇を称える。上に立つ)ためであり、天子を圧するためではありません。王を朝見する際だけ暫く斉侯を名乗れば、天子は必ず大王の謙徳を喜び、寵命(恩賜と王命)を加えることになります。」
威王は喜んで車を準備させ、成周に向かいました。周の天子を朝見します。
この年は周烈王六年で、周王室は既に微弱になっていました。諸侯が久しく朝礼を行っていなかったため、唯一斉侯が来朝すると上下が鼓舞して慶賀しました。烈王は宝藏を集めて威王に下賜します。
威王が周から斉に還る時も、道中で讃頌する声が上がり、威王の賢が称えられました。
 
 
当時の天下には七つの大国がありました。斉、楚、魏、趙、韓、燕、秦です。この七国は土地が広く兵も強く、ほぼ同等の勢力を持っていました。他にも越が存在しており、王を称していましたが、日々衰弱しています。宋、魯、衛、鄭等の国は語る必要もありません。
斉威王が霸を称えてから、楚、魏、韓、趙、燕の五国は斉の下になり、会聚(集会。会盟)があれば斉威王を盟主に推しました。
しかし秦だけは西戎の僻地にあったため、中国(中原諸国)から相手にされることなく、通好も途絶えていました。
秦献公の時代、上天が金の雨を三日間に渡って降らせました。それを聞いた周の太史儋が秘かに嘆いて言いました「秦の地は周から分かれたが、分かれて五百余歳(年)で再び合し、霸王の君が出現して、金徳によって天下の王となるはずだ。今、秦に金の雨が降ったが、(秦が天下の主になる)(予兆)ではないか(金は五行説で西方を象徴します。秦も西方にあります)。」
やがて献公が死に子の孝公が即位しました。
孝公は秦が中国の列に入れないことを恥と思い、賢人を招く令を出しました。その内容はこうです「賓客群臣の中で、奇計によって秦を強くできる者は、尊官を授けて大邑に封じる。」
どのような賢臣が招きに応じて来るのか、続きは次回です。

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