第八十六回 呉起が将を求め、騶忌が相を取る(四)

*今回は『東周列国志』第八十六回その四です。
 
話は斉に移ります。
田和は斉侯になってから二年で死にました。子の午が跡を継ぎ、午から子の因斉に継承されます。因斉が即位したのは周安王二十三年のことです。
因斉は斉の国が豊かで兵が強いことを自負していました。しかし呉越は以前から王を称しており(実際には呉は既に亡んでいます)、使命(使者)が各国の間を往来する時には王号を使っています。因斉は呉越より下の地位に甘んじていることができず、ついに斉王を僭称しました。これを斉威王といいます。
魏侯罃は斉が王を称したと聞き、こう言いました「魏が斉に及ばないことがあるか?」
魏侯も魏王を称します。『孟子』に見られる梁恵王です。
 
斉威王は即位してから毎日酒色に浸り、音楽を聴き、国政を修めませんでした。
九年の間に韓、魏、魯、趙が兵を興して侵伐し、辺将が連敗します。
ある日、一人の士人が閽(宮門)を叩いて謁見を求めました。自ら「姓は騶、名は忌といい、本国の者で、琴を知っています。王が好音(音楽を好む)と聞いたので、敢えて謁見を求めに来ました」と称しています。
威王は騶忌を接見して席を与え、左右の近臣に命じて几(机)を運ばせました。琴が騶忌の前に置かれます。
ところが騶忌は弦を撫でるだけで弾こうとしません。威王が問いました「先生が琴を得意とすると聞いたので、寡人は至音を聞いてみたいと思った。しかし弦を撫でるだけで弾かないのは、琴が不佳(良くない)だからか?それとも寡人に不足があるからか?」
騶忌は琴を退けてから様相を正して言いました「臣が知っているのは琴の理(道理)です。絲桐の声(琴の音色)は楽工の事です(琴を演奏するのは楽工の仕事です)。臣もそれを知っていますが、敢えて王にお聴かせできるものではありません。」
威王が問いました「琴の理とはどのようなものだ?聞くことができるか?」
騶忌が答えました「琴とは禁に通じます。淫邪を禁止することで正に帰ります。昔、伏羲が琴を作りました。その長さは三尺六寸六分あり、三百六十六日を象徴しています。広さ(幅)は六寸あり、六合(天地と東西南北)を象徴しています。前が広くて後ろが狭いのは、尊卑を象徴しています。上が円形で下が方形なのは天地に法ったからです。五弦は五行を象徴しています。大弦(太い弦)は君、小弦(細い弦)は臣です。その音は緩急によって清濁を表します。濁(低くて重い音。またはゆっくりした音。大弦の音)は寬(寛大)ですが弛むことがなく、君道に通じています。清(高くて清んだ音。小弦の音)は廉(廉潔。または明亮)にして乱れることがなく、臣道に通じています。一弦を宮(以下、「宮羽」は音階)といい、次の弦を商といい、次を角、次を徵、次を羽といいます。後に文王と武王がそれぞれ一弦を加えました。文弦(文王が加えた弦)は少宮、武弦(武王が加えた弦)は少商といい、この二弦によって君臣の恩が調和されました(原文「以合君臣之恩也」。大弦は「宮」で国君を表し、小弦は「商」以下で臣下を表します。文王と武王は「少宮」と「少商」の二弦を加えて更に音調を整えました。君臣の調和を象徴します)。君臣が調和すれば政令が和諧します。治国の道も琴の道理と同じです(琴の音階が調和すれば美しい音楽になるように、君臣が調和すれば政治も正しく機能します)。」
威王が言いました「素晴らしい(善哉)。先生は琴理を知っているのだから、琴音も習熟しているはずだ。試しに一度弾いてほしい。」
騶忌が言いました「臣は琴を事(業)としているので、琴の演奏に習熟しています。大王は国を事としているので、国を治めることに習熟していて当然でしょう。しかし今、大王は国を擁しながら(撫国)治めようとしません。臣が琴を撫でるだけで(撫琴)弾かないのと違いがありますか?臣は琴を撫でるだけで弾かないので、大王の意を満足させることができません。大王は国を擁しながら治めていませんが、万民の意を満足させていないのではありませんか。」
威王が驚いて言いました「先生は琴によって寡人を諫めた。寡人は命(言葉)を聞こう。」
威王は騶忌を右室に留め、翌日、沐浴してから再び招きました。国事について談論します。
騶忌は威王に節飲遠色(酒を控えて女色を遠ざけること)を勧め、名実(評判と実態)を確認して明らかにすることや、忠佞を見極めて用いることの重要さを説き、民を休めて戦の訓練をさせ、霸王の業を経営するように進言しました。
喜んだ威王は騶忌を相国に任命しました。
 
当時、辯士の淳于髠が斉にいました。騶忌が易々と相印を手に入れたため、心中不服になり、徒(弟子)を連れて騶忌に会いに行きました。
騶忌が恭しく淳于髠を迎え入れると、淳于髠は傲慢な態度で直接上坐に行き、胡坐をかいて言いました「髠(私)には愚志(愚見)がある。相国の前で述べたいと思うがいいか?」
騶忌は「聞かせてください」と答えました。
淳于髠が言いました「子は母から離れず、婦は夫から離れないものだ。」
騶忌が言いました「謹んで教えを受けます。国君の側(傍)から遠く離れることはありません。」
淳于髠が言いました「棘木で車輪を作り、猪脂(豚の脂)を塗るのは、滑りやすくするためだ。車輪を方孔(四角い穴)に入れたら回転できなくなる。」
騶忌が言いました「謹んで教えを受けます。人情(人々の気持ち)に順じないわけにはいきません。」
淳于髠が言いました「弓の幹は膠で固められているが、解けてしまうこともある。多数の水の流れは海に向かい、自然に一つになる。」
騶忌が言いました「謹んで教えを受けます。万民と親附しないわけにはいきません。」
淳于髠が言いました「狐裘が古くなって痛んでも、黄狗の皮で補ってはならない。」
騶忌が言いました「謹んで教えを受けます。賢者を選択するように努め、不肖の者をその中に混入させることはありません。」
淳于髠が言いました「輻轂(車輪)が分寸の正確さを求めなかったら車を完成させることはできず、琴瑟が緩急を較べなかったら音律を完成させることができない。」
騶忌が言いました「謹んで教えを受けます。法令を修めて奸吏を監督することに努めます。」
淳于髠は暫く黙ってから、再拝して退出しました。
門を出た時、徒が淳于髠に聞きました「夫子(先生)は相国に会ったばかりの時、なぜ倨(驕慢な態度)だったのですか?今は再拝して退きましたが、なぜ屈(腰を低くすること)となったのですか?」
淳于髠が言いました「わしは五つの微言(本意を隠した言葉。比喩)を示したが、相国は滞ることなく応じ、わしの意思を全て理解した。誠に大才である。わしが及ぶ相手ではない。」
この後、遊説の士は騶忌の名を聞いて斉に近寄らなくなりました。
一方の騶忌も淳于髠の言に従い、心を尽くして政治を行いました。
 
 
 
*『東周列国志』第八十六回その五に続きます。

第八十六回 呉起が将を求め、騶忌が相を取る(五)