第八十七回 衛鞅が変法し、孫臏が下山する(二)

*今回は『東周列国志』第八十七回その二です。
 
翌日、孝公が人を送って衛鞅を招きましたが、衛鞅は辞退してこう答えました「臣は主公と約束をしました。三日後でなければお会いできません。」
景監が辞退しないように勧めましたが、衛鞅はこう言いました「私は始めて国君と約束しました。もし自ら信を失ったら、後日、どうして国君の信を得ることができるでしょう。」
景監は納得しました。
 
三日目、孝公が人を送って車で衛鞅を迎えました。衛鞅が会いに行くと、孝公は坐を与えて教えを請います。その態度はいたって懇切でした。
衛鞅は秦の政治で改めなければならない事を詳しく語りました。互いに問答を続けて三日三晩経ちましたが、孝公には全く倦色が現れません。
全ての話を聞いた孝公は衛鞅を左庶長に任命し、一区の府邸と黄金五百鎰を下賜しました。更に群臣を諭してこう言いました「今後、国政は全て左庶長の施行に従え。違抗(逆らうこと)する者は逆旨(君命に逆らうこと)と同罪とみなす。」
群臣が粛然としました。
 
衛鞅が変法の令を制定し、條款を孝公に献上しました。君臣の間で商議がされ、新法が完成します。
しかし新しい政令を発布しても民が信用せず、実行できない恐れがあります。そこで衛鞅はまず三丈の木を咸陽の市の南門に立てて官吏に守らせ、こう宣言しました「この木を北門に移すことができた者には十金を与える。」
多くの百姓が見物に来ましたが、誰もが意図を測りかねて不思議に思い、木を移そうとしませんでした。
衛鞅が言いました「民が移そうとしないのは金が少ないからではないか。」
そこで令を改めて五十金を与えることにしました。人々はますます怪しみます。
しかし一人の者が進み出て「秦の法はかねてから重賞がなかった。今、突然このような令が出されたのは、きっと計議(目的。計画)があるからだ。たとえ五十金を得られなくても、薄賞すらないことはないだろう」と言い、木を担いで北門に立てました。
見物していた者達も後について北門に移動し、大勢の人が集まって壁を作ります。
官吏が走って衛鞅に報告しました。衛鞅は木を運んだ者を招いて「汝は真に良民だ。我が令に従うことができた」と称賛し、五十金を与えました。
衛鞅が言いました「わしが汝等民との間で信を失うことはない。」
市にいた民はこの事を他の人にも伝えていきます。人々は左庶長が政令を出したら必ず行うと噂し、互いに注意するように戒め合いました。
 
翌日、新令が頒布されました。市の人々が集まって確認し、皆、驚いて舌を出します。周顕王十年の事です。
以下、新令の内容です。
一、定都(都を定める)
秦の地で最も勝れているのは咸陽である。山を背にして河に囲まれ(被山帯河)、金城(堅固な城)が千里に及ぶ。よってこれから咸陽に遷都し、王業を永定させる。
一、建県(県を建てる)
境内の村鎮を全て合併して県を置き、各県に令と丞をそれぞれ一名設けて新法を監督実行させる。職責を全うできない者は、軽重に則って罪を議す。
一、闢土(土地を開く)
郊外の曠土(荒廃した土地)で車馬が通らない場所、および田間の阡陌(あぜ道。空地)は、附近の居民に開墾を命じて田地にさせる。完成したら計歩して(歩数を測って)畝となし、通常の規則に則って税を徴収する。六尺を一歩、二百四十歩を一畝とする。一歩が六尺を越えていたら(一歩が六尺以上あったら。実際の面積を隠して小さく報告していたら)(偽り)とし、田を没収して官に入れる。
一、定賦(税を定める)
賦税は全て畝数によって課し、「井田什一之制(「什一之制」というのは収穫の十分の一を納める税制です。井田制では九分の一を納めていたはずなので、「井田九一之制」が正しいと思われます)」を廃止する。全ての田は官に属し、百姓は尺寸も私有してはならない。
一、本富(本を富ませる。「本」は農業を指します)
男は田を耕し、女は織物をする。粟帛(食糧や帛布)が多い者を良民とみなし、一家の役(労役)を免じる。怠惰によって貧困になった者は、官家の奴僕に没落させる。道に灰(ごみ)を棄てるのは、惰農(農業を怠けること)によって論じる(「道に灰を棄てたら農業を怠けた罪と同罪にする」という意味。灰が作物の生長の妨げになったのかもしれません。馬が灰を嫌ったため、灰を道に棄てることを禁止したという説もあります)。工商業者からは重税を徴集する。民に二人の男がいたら分異(分居)させ、それぞれが丁銭人頭税を払う。分異しない者は、一人で両課(二人分の税)を負担する。
一、勧戦
官爵の序列は軍功によって定められる。敵の首を一つ斬ったら爵一級を賞とし、一歩退いた者は斬首する。功が多い者が上爵を受け、自由に車服を華美にすることを許す。功がない者は富室(富裕な家)であっても布褐乗犢(粗末な服と小牛が牽く車)だけを許可する。宗室も軍功の多寡によって親疏を定め、戦で功がなければ属籍を削って庶民と同等にする。私闘を行った者は曲直に関わらずどちらも斬首に処す。
一、禁奸(奸悪を禁じる)
五家を保(戸口の単位)とし、十家を相連させ(五家を「伍」といい、二つの伍で「什」が形成されます)、互いに覚察(監視)させる。一家に過ちがあったら九家が告発し、告発しない者がいたら十家を連坐させて全て腰斬に処す。奸者を告発した者には敵に克った(斬った)時と同じ賞を与えることにし、一奸を告発したら爵一級を与える。罪人を私匿した者は罪人と同罪とみなす。客舍が人を泊める時は、文憑(証書)を得て確認しなければならない。身分を証明できない者は留めてはならない。民一人が罪を犯したら、室家(家族)を併せて官が没収する。
一、重令(政令を重んじる)
政令が発せられたら貴賎を問わず一体となって遵守し、従わない者がいたら戮(処刑)して見せしめにする。
 
新令が出されると百姓が議論しました。便があるという者もいれば反対する者もいます。
衛鞅は議論した者を全て捕えて府中に集め、譴責してこう言いました「汝曹(汝等)は、政令を聞いたらただそれを奉じて行えばいいのだ。不便だと言った者は梗令政令を妨害すること)の民だ。便があると言った者は媚令政令に媚びること)の民だ。どちらも良民ではない。」
衛鞅は逮捕した者の姓名を記録し、全て辺境に移して戍卒にしました。
大夫甘龍と杜摯が新法について私議したため、罷免されて庶人に落とされました。
この後、道を歩く人は目で合図を送るだけで、敢えて口に出して議論することはなくなりました。
 
衛鞅は大勢の徒卒を動員し、咸陽城中に宮闕を築きました。遷都を実行する吉日を選びます。
太子駟が遷都に反対して変法の非を唱えたため、衛鞅が怒って言いました「法が実行できないのは上が法を犯しているからだ。太子は君嗣(国君の跡継ぎ)なので刑を加えられないが、もし赦したら法を行わないことになる。」
そこで衛鞅は孝公に進言し、太子の師傅を裁くことにしました。太傅の公子虔が劓鼻(鼻を削ぐこと)に処され、太師の公孫賈が鯨面(顔に刺青すること)に処されます。
それを聞いた百姓が互いに言いました「太子でも令に違えたらその師傅が刑から免れられなかった。他の人ならなおさらだろう。」
衛鞅は人心が定まったのを見届けて、日を選んで遷都しました。
雍州の大姓(豪族)で咸陽に移住した者は数千家に上ります。
 
衛鞅は秦国を三十一県に分け、田畝を開墾して百余万の税収を増やしました。
また、衛鞅はしばしば自ら渭水を訪れて囚人を観察し、一日に七百余人を誅殺したこともありました。渭水が赤く染まり、哭声が野に拡がり、百姓は夜になって寝てからも夢の中で恐れて震えました。
こうして法令が行き届き、道で物を拾っても着服する者はいなくなり、国から盗賊が消え、倉廩が充足しました。人々は公戦(国の戦い)では勇敢ですが、敢えて私闘をする者はいません。
変法が成功して秦国の富強は天下に並ぶものがなくなりました。
その後、秦は兵を興して楚を攻め、商於の地を奪いました。武関の外に六百余里の地を拡げます。
周顕王が秦の功績を認めて使者を送り、秦を方伯(一方の覇者)に冊命しました。
諸侯が孝公を祝賀しました。
 
 
当時、三晋の中で魏だけが王を称しており、韓趙を併合したいと思っていました。
魏王は衛鞅が秦国に用いられたと聞き、嘆いて言いました「公叔痤の言を聞かなかったことを後悔している。」
 
魏では卜子夏、田子方、魏成、李克等が既に死んだため、厚幣を使って四方から豪傑を招いていました。
鄒人の孟軻(字は子輿。孟子は子思の門下に属する高弟でした。子思は姓を孔、名を伋といい、孔子の嫡孫にあたります。孟軻は聖賢の伝を子思から学び受け、済世安民(世を助けて民を安んじる)の志を持ちました。
魏恵王が士を大切にしていると聞いたため、鄒から魏に入ります。
恵王は郊外で迎え入れて上賓の礼で遇しました。
しかし恵王が利国の道(道理)を問うと、孟軻はこう答えました「臣は聖門で遊学し、仁義を知っているだけです。利があることは知りません。」
恵王は孟軻の言を迂遠だと思って用いませんでした。孟軻は魏を去って斉に向かいました。
 
 
 
*『東周列国志』第八十七回その三に続きます。

第八十七回 衛鞅が変法し、孫臏が下山する(三)