第八十七回 衛鞅が変法し、孫臏が下山する(三)

*今回は『東周列国志』第八十七回その三です。
 
周の陽城に鬼谷という場所がありました。山が深く樹木が茂っており、どこまでも幽寂としていて人が住める場所とは思えません。鬼谷とよばれたのはそのためです。
しかしその中に一人の隠者が住んでいました。自ら鬼谷子と号していますが、本当の姓は王、名は栩と伝えられています。晋平公の時代の人です。
かつて雲夢山で宋人の墨翟と一緒に薬を採って道を修めました。墨翟は妻子を養うことなく、天下を雲遊(足跡を残さず自由に周遊すること)して済人利物(人を助けて物を利すこと)に専念し、人々の苦厄を除いて危難から救いたいと考えていました。
王栩は鬼谷の深くに住んでおり、人々は本名を呼ばず鬼谷先生と呼びました。
鬼谷子は天地の道理に通じ、数家の学問を身につけていました。その学識に及ぶ者はいません。
数家の学問というのは、
一は数学といい、日星象緯(天文)を掌握しています。将来を占って過去を観測し、予言したことは全て的中しました。
二は兵学といい、『六韜三略兵法書』に精通して変化無窮です。陣を構えて兵を動かしたら鬼神も測り知れません。
三は游学といい、広記多聞です。理に明るくて勢(情勢)を把握し、弁論したら万口があってもかないません。
四は出世学といい、修身養性します。服食導引道家による養生の方法。服食は丹薬等を食べること。導引は気を整える呼吸法)によって病を退けて寿命を延ばし、沖挙(仙人になること)も可能にしました。
 
鬼谷先生は仙家の沖挙の術も把握しているのに、自ら身を屈して世間(人の世)に住んでいました。それは何人かの聡明な弟子を引き連れて一緒に仙境に帰りたいと思っていたからです。弟子を得るために鬼谷の地に身を寄せました。
 
初めは市に入って人のために占卜を行ったのがきっかけでした。鬼谷子が語った吉凶休咎(善悪)が全て的中し、まるで神のようだったため、次第にその学術を慕った人が集まるようになりました。
先生は学びに来た者の資性(資質)だけを確認し、どの学問に近いかを判断してその術を授けました。
鬼谷子の目的は、一つは人才を育てて七国の役に立たせることです。もう一つは仙骨(仙人になる素質がある者)を捜し出して共に出世の事(人の世から離れること。仙人になること)を行うためです。
鬼谷に住んでから年を数えたことがなく、学びに来た弟子の数もわかりません。来た者は拒まず、去る者は追いませんでした。
 
同じ時期に複数の有名な弟子ができました。斉人の孫賓、魏人の龐涓、張儀、洛陽人の蘇秦です。
孫賓と龐涓は兄弟の契りを結んで共に兵法を学び、蘇秦張儀も兄弟の契りを学んで共に遊説を学びました。それぞれ一家の学(独立した一家の学問)を成就させます。
 
龐涓は兵法を三年余にわたって学び、既に充分な能力を習得できたと信じました。
ある日、水を汲むために山の下に行くと、偶然、路人が魏国の噂をしていました。魏王が厚幣で賢人を求め、将相を探しているといいます。
龐涓は心を動かされて先生に別れを告げに行きました。下山して魏国の招聘に応じるつもりです。しかし先生が同意しないことを恐れたため、心中で躊躇してなかなか話を切り出せません。
先生はその様子を見て下山の意志を察し、笑って龐涓に言いました「汝の時運は既に至った。なぜ下山して富貴を求めないのだ?」
先生の言を聞いた龐涓は、まさに心中の思いにかなっていたため、跪いてこう言いました「弟子にはまさにその意志がありました。しかし今回の旅立ちによって、意を得ることができるかどうか分かりません。」
先生が言いました「汝は山花を一枝採って来なさい。汝のために占ってみよう。」
龐涓は下山して山花を探しました。
この時は六月炎天の時期で、既に百花が咲き終わっていたため、どこに行っても山花が見つかりません。龐涓は左右を歩き回って長い時間探しましたが、やっと一茎の草花を見つけただけでした。花の根元から抜き取って師父に渡しに行こうとしましたが、ふとこう考えました「この花は弱くて小さい(質弱身微)から大器になれないだろう。」
龐涓は花を地に投げ捨てると再び探し始めました。しかしどうしても他の花を見つけ出すことができません。
やむなく戻って先ほどの草花を取り、袖の中に隠して帰りました。
 
龐涓が先生に言いました「山中に花はありません。」
先生が言いました「花がないというのなら、汝の袖の中の物は何だ?」
龐涓は隠せなくなって花を出しました。
土から離れた花は日光にもあたっていたため、半分ほどが萎えています。
先生が言いました「汝はこの花の名を知っているか?馬兜鈴だ。一度に十二朶(「朶」は花を数える単位)が花開く。これは汝の栄盛の年数を表す。鬼谷で採られて日を見て萎えた。鬼の傍に委(萎)があるから、汝の出身(立身)の地は魏国に違いない。」
先生が「魏国」と言い当てたため、龐涓は秘かに驚嘆しました。
先生が続けました「しかし汝は欺(詐術。偽り)を見せるべきではなかった(先ほど、花が見つからないと偽ったのは間違いだ)。後日、必ず人を欺く事があり、それが原因で人に欺かれるだろう。戒めなければならない。わしが八字を与えよう。汝はよく覚えておけ。『羊に遇って栄え、馬に遇って窮する(遇羊而栄,遇馬而瘁)。』」
龐涓が再拝して言いました「我が師の大教を書紳(大切なことを書いて身に着けること)とします。」
 
龐涓が出発する時、孫賓が山の下まで送りました。
龐涓が言いました「某(私)は兄(孫賓)と八拝の交を結び、富貴を共にすると誓いました。今回、もし進身の階(立身の機会)があったら、必ず兄を推挙します。共に功業を立てましょう。」
孫賓が言いました「弟の言は本当か?」
龐涓が答えました「弟に謬言(嘘)があったら、万箭(万矢)の下で死にましょう。」
孫賓が言いました「厚情に感謝する。再び誓う必要はない。」
二人は涙を流して別れを惜しみました。
 
孫賓が山に帰りました。孫賓が涙を流していたため、鬼谷先生が問いました「汝は龐生が去ったのを惜しんでいるのか?」
孫賓が言いました「同学の情があります。どうして惜しまずにいられるでしょう。」
先生が問いました「汝が見て、龐生の才は大将を務めることができるか?」
孫賓が言いました「師の教訓(教導)を受けて久しくなります。できないはずがありません。」
先生が言いました「それは違う(全未,全未)。」
孫賓が驚いて理由を聞きましたが、先生は何も言いませんでした。
 
翌日、鬼谷子が弟子に言いました「夜の間、鼠の声に悩んでいる。汝等は交代で値宿(宿直)し、わしのために鼠を除け。」
弟子達が命令に従いました。
 
その夜、孫賓が値宿になりました。
先生は枕の下から一巻の文書を取り出し、孫賓に言いました「これは汝の祖(祖父)孫武子による『兵法』十三篇だ。昔、汝の祖が呉王闔閭に献上し、闔閭はこの策を用いて楚師を大破した。後に闔閭はこの書を惜しみ、広く人に伝わることを望まず、鉄櫃(箱)に入れて姑蘇台の屋楹(部屋の柱)の中に隠した。そのため、越兵が台を焼いてから、この書は伝わらなくなってしまった。しかしわしは汝の祖と交わりがあったので、この書を求めて自ら注解(注釈)をつけた。行兵(用兵)の秘密(奥義)は全てこの中にあるが、今まで誰にも軽々しく譲ることはなかった。子(汝)は心術(心思。内心)が忠厚なので、特別に子に授けよう。」
孫賓が言いました「弟子()は幼くして父母を失い、国家が多故(多難)に遭ったため宗族も離散しました。祖父にこのような書があるとは聞いていましたが、今まで見たこともありませんでした。我が師が既に注解を行ったのなら、なぜ併せて龐涓に与えることなく、賓(私)だけに授けるのですか。」
先生が言いました「この書を得た者が書の教えを善用すれば天下の利となる。しかし善用しなければ天下の害となる。涓は佳士(善良な士)ではないから、軽率に与えるわけにはいかなかったのだ。」
孫賓は書を臥室に持ち帰って昼夜研究しました。
三日後、突然、先生が孫賓に書を返すように求めました。孫賓は袖の中から書を出して先生に返します。
先生が篇をおって内容を問うと、孫賓は流れるように答え、一字も漏らしませんでした。
先生が喜んで言いました「子はこのように心を尽くして努力した(用心如此)。汝の祖が死ぬことはない。」
 
 
龐涓は孫賓と別れてから一路魏国に向かいました。兵法を売りにして相国王錯にとりなしを頼み、王錯から恵王に推挙されます。
龐涓が入朝した時、ちょうど庖人(料理人)が蒸羊を恵王の前に進め、恵王が箸を取りました。それを見た龐涓が秘かに喜んで言いました「我が師は『羊に遇って栄える(遇羊而栄)』と言った。嘘ではなかったようだ。」
恵王は部屋に入って来た龐涓が立派な人物だったため、箸を置いて立ち上がり、迎え入れて礼遇しました。龐涓が再拝(跪いての叩頭)すると、恵王が抱え起こします。
恵王が何を学んだか問いました。
龐涓が言いました「臣は鬼谷先生の門で学び、用兵の道に頗る精通しています。」
龐涓は身振り手振りを加えて布陣や戦術について述べ、胸中の学識を語り尽くしました。
恵王が問いました「我が国は東に斉があり、西に秦があり、南に楚があり、北に韓、趙、燕があり、それぞれの勢力が均衡している。中でも趙人は我が中山を奪った。まだこの仇に報いていないが、先生には策があるか?」
龐涓が言いました「大王が微臣(私)を用いないのならそれまでですが、もしも微臣を用いて将にするのなら、戦えば必ず勝ち、攻めれば必ず取ることを保証しましょう。天下を兼并することもできるのです。六国を憂いる必要はありません。」
恵王が疑って言いました「先生の大言は、実現が困難ではないか?」
龐涓が言いました「臣は自分の長所を把握しており、六国を掌中で弄ぶ能力があります。もし任を委ねられたのに功績を挙げられなかったら、甘んじて罪(刑)に伏します。」
喜んだ恵王は龐涓を元帥に任命し、軍師の職を兼任させました。
龐涓の子龐英と姪(甥)の龐蔥、龐茅も将に列します。
龐涓は兵を訓練してからまず衛宋といった小国を侵して連戦連勝しました。
その結果、宋、魯、衛、鄭の諸君が互いに約束して頻繁に来朝するようになります。
斉兵も国境を侵しましたが、龐涓が防御して退けました。
龐涓は不世の功(類まれな功績。世々代々立てられるありふれた功績ではないという意味)を立てたと信じ、心中で得意になりました。
 
 
 
*『東周列国志』第八十七回その四に続きます。

第八十七回 衛鞅が変法し、孫臏が下山する(四)