第八十九回 馬陵道で龐涓を射ち、咸陽市で商鞅を分屍する(三)

*今回は『東周列国志』第八十九回その三です。
 
話は秦に移ります。
秦の相国衛鞅は龐涓が死んだと聞いて孝公にこう言いました「秦と魏は比鄰の国(隣り合わせの国。隣国)で、秦に魏があるのは人に腹心の疾(病)があるのと同じです。魏が秦を併呑しなければ、秦が魏を併呑することになり、両者が共存できないのは明らかです。最近、魏が斉に大敗し、諸侯が魏から叛しました。この時に乗じて魏を攻めれば、魏は支えることができず必ず東に遷ります。その後、秦が河山の固い守りに頼って東を向き、諸侯を制すれば、帝王の業となります。」
同意した孝公は衛鞅を大将に、公子少官を副将に任命し、兵五万で魏を討伐させました。
秦軍は咸陽を出て東に向かいます。
 
緊急の報告が魏の西河に至りました。守臣の朱倉が急を告げる文書を国都に送ります。使者は一日に三回も発せられました。
恵王が群臣を集めて秦を防ぐ計を問いました。
公子卬が進み出て言いました「鞅が以前、魏にいた時、臣は彼と親しくしていました。臣はかつて大王に推挙したこともありましたが、大王は同意しませんでした。今日は臣が兵を率いて赴き、まず講和を求めたいと思います。もし同意しなかったら、城池を固守して韓趙に救援を求めましょう。」
群臣は皆この策に賛成しました。
恵王は公子卬を大将に任命し、五万の兵を率いて西河を援けさせます。
魏軍は呉城に進軍しました。この呉城は呉起が西河を守っていた時に、秦を防ぐために築いた堅固な城です。
公子卬は早速書信を準備して秦の営寨に人を送り、衛鞅に挨拶して停戦を求めようとしました。するとそこに城を守る将士が報告に来ました「秦の相国が人を送って書を届けに来ました。今、城外にいます。」
公子卬は縄を使って使者を城壁の上に吊り上げさせました。書信にはこう書かれています「鞅はかつて公子ととても仲良くしており、骨肉(親族)と変わりがありませんでした。今、それぞれが主に仕えて両国の将となりましたが、兵を治めて互いに魚肉となるのは(殺し合うのは)忍びありません。鄙意(私の意志。願い)は公子と約束しそれぞれ兵車を去らせ、甲冑を解いて衣冠の会を開くことにあります。玉泉山で会って楽飲してから解散しましょう。そうすれば、両国を肝脳塗地(肝脳で地を塗る。命を犠牲にすること)の禍から免れさせ、千秋(千年)に渡って我々二人の交情が管鮑に匹敵すると称賛を受けることができます。公子が同意されるのなら、会見の日を決めてください。」
読み終った公子卬は大喜びして「私の意思もこれと同じだ」と言い、使者を厚くもてなして答書を準備しました「相国は夙昔(往時)の友好を忘れず、斉桓の故事を挙げて兵車を衣裳に替え、秦と魏の民を安んじ、管鮑の誼を明らかにしようとしています。これは卬の志でもあります。三日の間で相国が示す期日に従います。命に逆らうことはありません。」
答書を得た衛鞅は喜んで「我が計が成った」と言い、改めて使者を城内に送って会見の日時を伝えました。
使者が公子卬に言いました「秦兵の前営は既に撤去し、先に帰国しました。他の陣営も元帥との会見が終わったら、すぐに営寨をたたむ予定です。」
また。旱藕と麝香を公子卬に贈って言いました「この二物は秦地の産物です。旱藕は人の体を補い(益人)、麝香は邪を除きます(辟邪)。これらの物によって旧情を忘れていないことを示し、永遠に友好が続くことを願っています。」
公子卬は衛鞅が自分を愛していると思い、ますます信じて感謝の答書を使者に渡しました。
衛鞅は偽の軍令を発して前営を撤収させ、公子少官に先行を命じました。但し秘かに策を授けます。帰路に就いた少官は道中で食糧を得るために射猟をすると称して、狐岐山や白雀山等に四散して埋伏しました。当日の午末から未初にかけて(午は午前十一時から午後一時。未は午後一時から三時)玉泉山の下に集結し、山上で砲が放たれるのを合図に、一斉に殺到して会見に参加した者を一人残らず捕えるという手筈です。
 
当日早朝、まず衛鞅が人を城内に送ってこう伝えました「相国が先に玉泉山に入ってお待ちしています。隨行の者は三百人に満ちません。」
公子卬は完全に信用しています。輶車(軽車)に酒食を積み、一隊の楽工を率いて、車に乗って会に向かいました。人数は衛鞅と同じです。
衛鞅が山下で迎え入れました。公子卬は衛鞅に従っている者が少数で、しかも軍器を持っていないのを見て、全く疑いを持ちませんでした。
二人は挨拶をしてから昔日の交情について語り、更に今日の通和の意志を話し合いました。魏国の従人で喜ばない者はいません。
双方が酒席の準備をしており、公子卬が地主として先に衛鞅に酒を注ぎました。三献三酬(三回酒を献じて三回酒を勧められる礼)して三回楽奏します。
衛鞅は軍吏に命じて席上で時間を報告させ、魏国が設けた宴席を片付けさせました。今度は秦国の酒饌(酒や料理)が運ばれます。
酒席には二人の秦人が侍っていました。どちらも秦国の有名な勇士で、一人を烏獲、一人を任鄙といいました。烏獲は千鈞を持ち上げる力があり、任鄙は素手で虎豹と格闘できました。
衛鞅が一杯目の杯を持って酒を勧めた時、目で左右に合図を送りました。左右の者が山頂に走って一声の号砲を放ちます。すると山下でも砲声が呼応し、陵谷を震わせました。
公子卬が驚いて問いました「この砲は何のためですか?相国は欺いたのですか!」
衛鞅が笑って言いました「欺くのはこの一回だけです。罪をお赦しください(暫欺一次,尚容告罪)。」
公子卬は慌てて逃走しようとしましたが、烏獲に捕まって身動きが取れません。
任鄙が左右の者を指揮して魏人を捕らえました。
公子少官も軍士を率いて車仗(車や武器)を奪い、全ての魏人を捕まえました。まさに一滴の水も漏らさないほどです。
衛鞅は公子卬を囚車に乗せて先に秦国に送らせ、勝報を伝えました。捕えた隨行の者達に対しては、全て縄を解き、酒を与えて安心させてから、元の車仗を返してこう命じました「主帥が会から戻ったとだけ伝えて城門を開かせることができたら、別に重賞を与えよう。もし従わないようなら、即時斬首する。」
捕えられた従人は小輩(身分が低い者。賎しい者)ばかりだったため、皆死を恐れて衛鞅の指示に従いました。
烏獲が公子卬のふりをして車中に座り、任鄙が護送の使臣になって単車で後に従います。
 
城壁の上の者達は自軍の従人が帰ってきたのを見て、すぐに門を開きました。すると二人の勇将が共に行動を開始し、城門を一拳一脚で粉砕します。門が閉まらなくなったため、魏の軍士が前に進んで抵抗しようとしましたが、全て打ち倒されました。
背後から衛鞅が率いる大軍が飛ぶように迫って来ます。城内の軍民は混乱して逃げ隠れしました。
衛鞅は軍士を放ってひとしきり乱殺を行い、呉城を占領しました。
朱倉は主帥が捕虜になったと聞き、西河を守るのは困難と判断して、城を棄てて逃走しました。
衛鞅は長駆して深く魏領に入り、魏都安邑に迫りました。
驚いた恵王は大夫龍賈を派遣して秦軍に講和を求めます。
衛鞅が言いました「魏王は私を用いることができなかった。だから私は国を出て秦国に仕えたのだ。秦王のおかげで卿相として尊ばれ、食禄は万鐘を数える。今回、兵権を委ねられたのに、もし魏を滅ぼさなかったら、重託(重任)を裏切ることになる。」
龍賈が言いました「『良鳥は旧林を恋し、良臣は旧主を懐かしむ(良鳥恋旧林,良臣懐故主)』といいます。魏王は足下を用いることができませんでしたが、父母の邦(国)に対して足下は無情でいられるのですか?」
衛鞅は暫く深く考えてから龍賈にこう言いました「私に班師(撤兵)させたいのなら、河西の地を全て秦に割譲しなければならない。」
龍賈は同意するしかなく、戻って恵王に報告しました。恵王もこれに従い、和を買うために龍賈に命じて河西の地図を秦軍に献上させました。衛鞅は地図を受け取って領地を収め、秦に凱旋します。
公子卬は秦に投降しました。
魏恵王は安邑の地が秦に近くて守り難いと判断し、大梁に遷都しました。この後の魏は梁国とも称します。
 
 
 
*『東周列国志』第八十九回その四に続きます。

第八十九回 馬陵道で龐涓を射ち、咸陽市で商鞅を分屍する(四)