第八十九回 馬陵道で龐涓を射ち、咸陽市で商鞅を分屍する(四)

*今回は『東周列国志』第八十九回その四です。
 
秦孝公が衛鞅の功を嘉して列侯に封じました。以前、魏から奪った商於等の十五邑を衛鞅の食邑として与えます。衛鞅は商君と号しました。後世、商鞅と呼ばれるのはこのためです。
商鞅は恩を謝して屋敷に帰り、家臣にこう言いました「私は衛の支庶だったが策を持って秦に帰順し、秦のために政治を改めて国を富強にした。今また魏地七百里を得て邑十五城に封じられた。大丈夫が得る志の極みといえるだろう。」
賓客が声をそろえて祝賀しました。ところが一人の士が進み出て厳しい口調で賓客達に言いました「千人が『はいはい』と言って同調するくらいなら、一士がうるさく批判するべきだ(千人諾諾,不如一士諤諤)。汝等は商君の門下にいながら、なぜ諂(阿諛)を進めて主を陥れるのだ?」
衆人が見ると上客の趙良です。
商鞅が問いました「先生は衆人の諂を指摘したが、私が秦を治める様子を試しに述べてみよ。五羖大夫(百里)と較べてどちらが賢人だ?」
趙良が言いました「五羖大夫は穆公の相となり、三回晋君を置いて二十国を併合し、その主を西戎の伯主(覇者)にしました。自分自身に対しては、暑くても蓋(傘)を張らず、疲労しても車に乗らず(贅沢を嫌って驕ることがなかったので)、彼が死んだ日には百姓が悲哭し、まるで考妣(父母)を喪った時のようでした。今、あなたは秦の相になって八載(八年)が経ち、法令が行われるようになりましたが、刑戮が過酷すぎるので、民は威を見るだけで徳を見ることがなく、利を知るだけで義を知ることがありません。太子はあなたがその師傅に刑を用いたことを恨み、憎しみは骨髓にまで至っています。民間の父兄子弟も怨心を抱いて久しくなります。一旦、秦君が晏駕崩御されたら、あなたは朝露のように危うくなるでしょう。どうして商於の富を貪って大丈夫を自負することができるのですか。あなたは賢人を薦めて自分の代わりにするべきです。俸禄を辞して位を去り、野に退いて耕作を始めれば、まだ自全(天寿を全うすること)を望むこともできるでしょう。」
商君は不快になって黙ってしまいました。
 
五カ月後、秦孝公が病を患って死んでしまいました。
群臣は太子駟を奉じて即位させます。これを恵文公といいます。
商鞅は先朝の旧臣を自負しており、朝廷に出入りする態度が傲慢でした。
公子虔は以前、商鞅によって鼻を削がれましたが、恨みを積もらせるばかりで報いる機会がありませんでした。新君が即位すると、公孫賈と共に恵文公に上奏しました「『大臣が重くなりすぎたら国を危うくし、左右が重くなりすぎたら身を危うくする』といいます。商鞅が法を立てて秦を治めてから、秦邦は確かに治まりました。しかし婦人も童稚も商君の法を語るだけで、秦国の法を語ることはありません。最近更に十五邑を封じられ、その位は尊貴になり、権勢も重くなっています。今後、必ず叛逆を謀ることでしょう。」
恵文公もこう言いました「わしもあの賊を恨んで久しい。しかし先王の臣であり、反形(謀反の形)も明らかではないから、暫く許容していたのだ。」
恵文王は使者を送って商鞅の相印を没収し、商於に帰るように命じました。
商鞅が朝廷を辞して車で城を出ると、諸侯に匹敵する儀仗が隊伍を成して従いました。百官もそろって商鞅を送り出したため、朝署(官署)が空になってしまいました。
公子虔と公孫賈が秘かに恵文公に言いました「商君は咎を悔いることを知らず、僭越にも王者の儀制を真似しています。もし商於に帰ったら必ず謀叛します。」
甘龍と杜摯も証人になって商鞅の謀反を訴えたため、恵文公は激怒して商鞅の討伐を命じました。公孫賈に武士三千を率いて商鞅を追撃させ、首を斬って帰るように命じます。
公孫賈は命を受けて朝のうちに出発しました。
 
当時、百姓は街から巷に至るまで誰もが商君を怨んでいたため、公孫賈が兵を率いて追撃したと聞くと腕を振って後に続きました。その数は数千人に上ります。
商鞅は車駕で城を出て既に百余里進んでいましたが、突然、後ろで喚声が轟くのを聞き、人を送って調べさせました。部下が戻って言いました「朝廷が兵を発して追撃させました。」
驚いた商鞅は新王が憤激していると判断しました。このままでは禍から逃れられなくなります。急いで衣冠を脱いで車から下り、卒隸の姿をして逃亡しました。
函関に至った時には天が暗くなり始めていました。旅店に向かって宿をとろうとしましたが、店主が身元を証明する帖(資料)を出すように要求します。
商鞅が「持っていない」と言うと、店主が言いました「商君の法では、帖を持っていない人を留めてはならないことになっている。犯した者は併せて斬られてしまうから、あなたを留めるわけにはいかない。」
商鞅が嘆息して言いました「私はこの法を設けたために、この身を害すことになってしまった。」
商鞅は夜を通して前に進み、なんとか関門を抜け出して魏国に奔りました。
しかし魏恵王は商鞅が公子卬を騙して捕え、河西の地を割譲させたことを怨んでいます。そこで商鞅を捕らえて秦に献上しようとしました。
商鞅は商於に逃げ帰り、兵を起こして秦を攻めようとしましたが、公孫賈に追いつかれて逮捕されました。
恵文公が商鞅の罪を読み上げ、市曹に連れ出して五牛で分屍させました。商鞅の一族も全て滅ぼされます。
商鞅は新法を立てて秦国を富強にしましたが、憐れにも今日、車裂の禍を受けることになりました。過刻(過酷)の報いというものでしょう。周顕王三十一年の事です。
 
商鞅が死んでから百姓の歌舞が道を満たしました。まるで重い負担から解放されたようです。
六国も商鞅の死を聞いて互いに慶祝しました。
甘龍と杜摯は商鞅のために職を解かれていましたが、再び元の官に復します。
公孫衍が相国になりました。
公孫衍は恵文公に進言して西の巴蜀を併合させ、王を称えて天下に号令するように勧めました。王として列国に命じて魏国のように地を割譲させ、背いた国には兵を発して討伐するというのが公孫衍の計です。
恵文公は進言に従って王を称えました。その後、使者を列国に派遣して、慶賀のために領地を割譲するように要求します。
諸侯が躊躇して決断できない中、楚威王熊商だけは強硬な態度を採りました。威王は昭陽を用いて越兵を破り、越王無疆を殺して越の地を全て併呑したばかりです。楚は地が広くて兵が強く、秦に匹敵する力を持っていました。秦の使者が楚に至ると、楚王は叱咤して帰らせました。
 
そこで洛陽の蘇秦が「兼并」の策を持って秦王を説得しました。
蘇秦がどうやって秦を説くのか、続きは次回です。

第九十回 蘇秦が六国の相となり、張儀が秦邦に向かう(一)