第九十一回 燕噲が兵を招き、張儀が楚を欺く(三)

*今回は『東周列国志』第九十一回その三です。
 
燕の相国子之は身長が八尺、腰回りが十囲もあり、肌肥肉重(筋肉質な様子)、面闊口方(顔が大きくて口が四角い様子)という容貌で、手で空飛ぶ禽鳥を捕まえることができ、走れば奔馬に追いつくことができました。燕易王の時代から国柄を掌握しています。
易王を継いだ燕王噲は酒色に溺れ、逸楽だけに貪って朝廷で政治を行おうとしませんでした。そのため子之に纂逆の意志が生まれます。
蘇代と蘇厲は子之と深い関係があったため、諸侯の使者が来るたびに子之の賢名を高揚しました。
 
ある時、燕王噲が蘇代を斉に送って質子(人質)の様子を伺わせました。
燕に戻った蘇代に燕王噲が問いました「斉には孟嘗君がおり、天下の大賢だと聞いている。斉王にはこのような賢臣がいるから、天下に覇を称えるのではないか?」
蘇代が答えました「それは無理です。」
王噲が問いました「なぜ無理なのだ?」
蘇代が言いました「孟嘗君の賢を知りながら専任していません。どうして霸を成せるでしょう。」
王噲が言いました「今の寡人は孟嘗君を臣にすることができないが、もし得られたら、どうして専任しないだろう(わしが孟嘗君を得たら政治をすべて任せるのだが)。」
蘇代が言いました「今、相国の子之が政事に明習(習熟)しています。これは燕の孟嘗君です。」
この後、王噲は子之に国事を専任しました。
 
またある日、王噲が大夫鹿毛寿に問いました「古の人君は大勢いるが、なぜ堯舜だけが称えられるのだ?」
鹿毛寿も子之の党人なのでこう答えました「堯舜が聖人として称えられているのは、堯は天下を舜に譲り、舜は天下を禹に譲ることができたからです。」
王噲が問いました「ではなぜ禹だけは自分の子に伝えたのだ?」
鹿毛寿が言いました「禹も天下を益に譲ろうとしました。しかし政事を代理させただけで太子を廃さなかったのです。そのため禹が崩じた後、太子啓が益の天下を奪ってしまいました。今に至るまで論者は禹の徳が衰落して堯舜に及ばないと言っていますが、まさにこのためです。」
燕王が問いました「寡人は国を子之に譲ろうと思うが、実行するべきだろうか?」
鹿毛寿が言いました「もし王が実行したら、堯舜との差がなくなります。」
王噲は群臣を集めて太子平を廃し、子之に国を譲りました。
子之は謙遜するふりをして再三辞退してから禅譲を受け入れます。
郊天祭地(天地の祭り)を行い、袞冕(帝王の礼服)を身に着け、圭(式典で帝王が持つ玉器)を手にし、南面して王を称しました。少しも慚色がありません。
王噲は逆に北面して臣位に並び、王宮を出て別宮で生活しました。
蘇代と鹿毛寿が共に上卿になりました。
 
ところが子之の即位に将軍市被が心中で憤激し、自分の軍士を率いて子之を攻撃しました。多くの百姓もこれに従います。
双方は十余日に渡って連戦し、数万人が殺傷されました。
結局、市被が敗れて子之に殺されます。
鹿毛寿が子之に言いました「市被が乱を起こしたのは故太子(元太子)平がいるからです。」
子之は太子平を捕らえようとしました。
それを知った太傅郭隗が太子平と一緒に微服(庶民の服)で逃走し、無終山で難を避けました。
太子平の庶弟にあたる公子職は韓国に出奔します。
燕の国人で子之に対して怨憤しない者はいませんでした。
 
斉湣王が燕の乱を聞きました。匡章を大将に任命し、兵十万を与えて渤海から燕に進攻させます。
燕人は子之への恨みが骨にまで達するほどだったため、食糧や飲物を持って次々に斉軍を迎えに行きました。寸兵(わずかな武器)を持って抵抗しようとする者もいません。
匡章は兵を出してから足を止めることなく、五十日で燕都に達しました。百姓が門を開いて中に入れます。
子之の党は斉の大軍が長駆進入して来るのを見て、恐れて逃げ隠れしました。子之は勇に頼って鹿毛寿と共に大衢(大通り)で戦いましたが、兵士が徐々に離散し、鹿毛寿は戦死しました。子之も重傷を負いましたが、なお格闘して百余人を殺し、最後は力尽きて捕えられました。
燕王噲は別宮で自縊し、蘇代は周に奔りました。
 
匡章は燕の宗廟を破壊し、府庫の宝貨を全て奪いました。子之を囚車に入れて臨淄に送り、戦功を報告します。燕地三千余里の大半が斉の支配下に置かれることになりました。
匡章は燕都に駐留して周辺の属邑を攻略します。
これは周赧王元年の事です。
 
斉湣王は自ら子之の罪を譴責して凌遅の刑(体を切り刻んで殺す刑)に処しました。
子之は王になって一年余しか経っていませんでしたが、癡心(痴心。欲心)によって位を貪り、自ら喪滅を招きました。愚かなことです。
 
燕人は子之を憎んでいましたが、斉王が燕を滅ぼそうとしていることにも不服でした。そこで協力して太子平を求め、無終山で捜し出して国君に奉じました。これを昭王といいます。
郭隗が相国になりました。
この時、趙武霊王も斉が燕を併呑したことに不満だったため、大将楽池に命じて韓から公子職を迎え入れさせ、燕王に立てようとしました。しかし太子平が即位したと聞いて中止しました。
敦隗は檄文を燕都に飛ばして復国したことを宣言しました。斉に降った各邑が一斉に反して燕に帰順します。
匡章はそれを抑えることができず、兵を率いて斉に還りました。
 
昭王は燕都に入って宗廟を修理し、斉の仇に報いる志を立てました。自分の身を低くして厚幣で賢士を招きます。
昭王が相国郭隗に言いました「先王の恥を孤は早夜(朝晩)とも心に留めている。もし共に斉の事を図れる賢士を得ることができたら、孤はこの身をもって仕えるつもりだ。先生にそのような人を選んでほしい。」
郭隗が言いました「古の人君が千金を使って涓人(近臣)に千里の馬を求めさせました。涓人は路上で死馬に出会います。周りにいた人々が輪になって嘆息していたため、涓人が理由を問うと、人々はこう言いました『この馬が生きていた時は、一日に千里を走ることができました。しかし死んでしまったので、こうして惜しんでいるのです。』涓人は五百金でその馬の骨を買い、囊(袋)に入れて背負って帰りました。死んだ馬を見た国君は、激怒してこう言いました『このような死骨が何の役に立つのだ!わしの多くの金を棄ててきたのか!』すると涓人はこう答えました『五百金を費やしたのは千里の馬の骨を得るためです。このような奇事は人々が争って噂しあい、必ずこう言うでしょう「死馬でも重価を得たのだから、活馬ならなおさらではないか。」馬はもうすぐここに来ます。』果たして一年も経たずに三頭の千里の馬を得ることができました。今、王は天下の賢士を欲していますが、まず隗を馬骨にしてください。隗より賢才の者が必ず価(報酬)を求めて集まります。」
昭王は郭隗のために宮殿を築き、弟子の礼を執りました。北面して教えを聞き、飲食も共にしてこれ以上ないほど恭敬を示します。また、易水の傍に高台を築き、台上に黄金を積んで四方の賢士を招きました。台の名を招賢台といい、または黄金台ともよばれました。
燕王が士を愛するという評判は遠近に伝わりました。その結果、劇辛が趙から、蘇代が周から、鄒衍が斉から、屈景が衛から燕に訪れます。昭王は全て客卿にして国事を謀りました。
 
 
 
*『東周列国志』第九十一回その四に続きます。

第九十一回 燕噲が兵を招き、張儀が楚を欺く(四)