第九十三回 趙主父が沙邱で餓死し、孟嘗君が函谷関を通る(中編)

*今回は『東周列国志』第九十三回中編です。
 
趙恵王の太傅李兌は肥義と仲が良かったため、秘かにこう言いました「安陽君は強壮なうえ驕っており、その党も多いので、今でも怨望の心があります。田不礼は剛狠(剛腹。頑強)で自分に自信を持っており、進むことは知っていても退くことは知りません(「知進而不知退」。謙虚になれないという意味)。二人が党を成したら険を行って僥倖(幸運)に頼ります。事を起こす日は遠くありません。子(あなた)は任が重く勢が尊いので、必ず禍が先に及びます。なぜ病と称して政権を公子成に譲り、禍から逃れないのですか。」
肥義が言いました「主父は王を義(私)に委ね、相国の尊位を与えた。安危の時に託せると判断したからだ。今まだ禍の形が見えていないのに、自ら先に逃げたら、荀息に笑われてしまうだろう。」
李兌は嘆息して「子(あなた)はこれから忠臣になりますが、智士になることはできません」と言い、久しく泣いて別れを告げました。
肥義は李兌の言を考えて夜も眠れなくなり、食事も喉を通らなくなりました。いくら考えても良策が生まれません。そこで近侍の高信にこう言いました「今後、もしも誰かが王を招いたら、必ず先にわしに報告せよ。」
高信は「わかりました(諾)」と答えました。
 
ある日、主父と恵王が沙邱で遊びました。安陽君章も随行しています。
沙邱には商紂王が築いた台と二カ所の離宮がありました。主父と恵王がそれぞれ一宮に住みます。二つの離宮は五六里離れており、ちょうど真ん中に安陽君の館がありました。
田不礼が安陽君に言いました「王が外で遊行しており、兵衆が集まっていません。主父の命を偽って王を招けば王は必ず来ます。私が途中で兵を伏せて殺しましょう。主父を奉じて衆を安撫すれば逆らう者はいません。」
章は「良い計だ(此計甚妙)」と言ってすぐに心腹の内侍を派遣し、主父の使者と偽って夜の間に恵王を招きました。使者がこう伝えます「主父が突然病を発しました。王に会いたがっているので速やかに移動してください。」
高信が急いで相国肥義に伝えました。肥義は「王は以前から病などない。これは疑わしい」と言い、離宮に入って王に言いました「義がこの身をもって先に行きます。問題ないと分かってから王は行動してください。」
肥義は高信にも指示を出しました「宮門を堅く閉じろ。軽率に開いてはならない。」
肥義は数騎を率いて使者と一緒に先行しました。
道の途中で伏兵が現れ、恵王だと思って一斉に襲いかかりました。肥義一行は皆殺しにされます。
田不礼が火を灯して確認しました。死体を見てやっと肥義だと知り、驚いてこう言いました「事態が変わってしまった!機(機密)が暴露される前に衆を総動員し、夜に乗じて王を襲おう。今なら幸いにも勝てるかもしれない。」
田不礼は安陽君を奉じて王を攻撃しました。
しかし肥義の指示を受けた高信が既に防戦の準備をすませています。
田不礼が王宮に入れないまま、空が明るくなりました。
高信が士卒を屋根に登らせて上から矢を放ちました。賊軍の多くが死傷します。
やがて矢が尽きましたが、瓦を投げつけました。
田不礼は巨石を木に繋げて宮門を撃たせました。雷のような音が響きます。
正に恵王の危急の時、宮外で大きな喚声が挙がりました。二隊の軍馬が殺到し、賊兵が大敗して離散していきます。
これ以前に公子成と李兌が国内で商議し、安陽君が乱を成すことを心配して沙邱に向かっていました。ちょうど賊が王宮を囲んでいたため、それぞれ兵を指揮して王の難を救いました。
敗れた安陽君が田不礼に言いました「こうなったらどうすればいい?」
田不礼が言いました「急いで主父の所に走り、泣いて哀求するべきです。主父は必ず庇うでしょう。私が力を尽くして追兵を拒みます。」
章はこの言に従って単騎で主父が住む宮中に奔りました。主父は全く難色を表すことなく、門を開いて受け入れ、章を隠しました。
田不礼は残兵を駆けさせて公子成と李兌の軍に対抗しました。しかし衆寡の差は明らかで、田不礼は李兌に斬られました。
李兌は「身を置く場所がなくなった安陽君は必ず主父に助けを求める」と判断し、兵を率いて主父の宮を包囲しました。宮門を開き、剣を持った李兌が先に進んで路を開きます。公子成も後に続きました。
宮内に入った二人が主父に会い、叩頭して言いました「安陽君が反叛しました。法に則って裁くべきであり、赦すことはできません。主父は安陽君をお渡しください。」
主父が言いました「彼がわしの宮中に来たことはない。二卿は他を探せ。」
二人が再三再四勧告しても、主父は発言を変えません。
李兌が言いました「事ここに至ったら、宮内を搜簡(捜査)するしかありません。確かに賊がいないと分かってから謝罪しても遅くはないでしょう。」
公子成は「君の言う通りだ」と言うと、親兵数百人を集めて宮中を徹底的に調べさせました。やがて複壁(二重になった壁)の中から安陽君を見つけ出します。
安陽君が引きずり出されると、李兌がすぐに剣を向いて首を斬りました。
公子成が問いました「なぜ急いで首を斬ったのだ?」
李兌が言いました「もしも主父に会って奪われたら、逆らえば臣礼を失うことになり、従えば賊を失うことになります。いっそのこと殺すべきです。」
公子成は納得しました。
李兌は安陽君の首を持って宮殿から出て行きました。主父の泣き声が聞こえます。
李兌が公子成に言いました「主父は宮門を開いて章を納めました。既に憐憫の心を持っていたからです。我々は章のために主父の宮を包囲し、章を捜し出して殺しました。主父の心を傷つけたに違いありません。事態が収束してから、主父が宮を包囲した罪を加えたら、私達は族滅されてしまいます。王は年幼で共に計ることができません。我々で決断しましょう。」
二人は軍士にこう命じました「包囲を解いてはならない。」
更に主父の宮内に人を送り、恵王の令と称してこう告げました「宮内の者で先に出て来た者は罪を免じる。後から出て来た者は賊党とみなし、その族を滅ぼす!」
王令を聞いた宮人や内侍は争って宮を出ました。主父一人だけが残されます。主父が人を呼んでも応える者は誰もいません。外に出たくても門は鍵で閉められています。
包囲が数日続き、主父は宮中で飢えに苦しみましたが、食べる物がありません。庭の樹木に雀の巣を見つけたため、卵を探して生で呑み込みましたが、それも尽きて一月余で餓死しました。
 
主父が死んでも外の人々にはわからず、李兌等も中に入ろうとしませんでした。
三カ月余も待ってやっと鍵を開けます。餓死した主父の死体は既に朽ち果てていました。
公子成が恵王を奉じて沙邱宮に行き、殮(死体を棺に入れる礼)に立ち会って喪を発しました。棺は代地に埋葬されました。今(明清時代)の霊邱県は武霊王を埋葬したことからつけられた地名です。
帰国した恵王は公子成を相国に、李兌を司寇に任命しました。
暫くして公子成が死んだため、恵王は公子勝を相国に任命しました。かつて主父が王を分けようとした時に反対したからです。公子勝は平原(地名)に封じられ、平原君と号しました。
 
平原君も士を愛しており、孟嘗君の気風がありました。
尊貴の位に就くとますます賓客を招き、食客は常に数千人を数えるようになります。
平原君の府第(府邸)には画楼があり、美人がいました。楼の上からは民家を望むことができます。
民家の主人には躄疾(足の障害。びっこ)がありました。毎朝起きてから、水を汲むために足元がおぼつかない様子で(蹣跚)出てきます。美人は楼上でその様子を眺め見て大笑しました。
暫くして、躄者が平原君の門を訪ねて謁見を請いました。
公子勝は揖礼して屋敷の中に進めます。
躄者が言いました「あなたは士を愛すると聞きました。士が千里の道も遠いと思わずあなたの門に集まっているのは、あなたが士を尊んで美色を蔑んでいると信じたからです。臣には不幸にも罷癃の病(老病。持病)があり、歩くのが不便です。あなたの後宮はそれを見て笑いました。臣は甘んじて婦人の辱を受けるつもりはありません。臣を笑った者の頭をください。」
公子勝は笑って「わかった(諾)」と答えました。
躄者が去ってから、平原君がまた笑って言いました「あの豎(身分が低い者)は愚かなことだ。一笑されただけで私の美人を殺そうとするのか。」
平原君の門下には決まりがあり、主客の者食客を管理する者)が每月一回、客籍(客の名簿)を提出し、客の数に合わせて金銭や食料の出入の数を決めることになっていました。
これまでは客の数が増えることはあっても減ることはありませんでした。しかしこの日から客が去り始め、一年余りすると半分にまで減少しました。公子勝はこれを不思議に思い、鐘を鳴らして諸客を集めました。
公子勝が問いました「勝(私)は諸君の待遇において礼を失ったことがないが、次々に人が去っていく。これはなぜだ?」
客の中の一人が進み出て言いました「あなたが躄を笑った美人を殺さなかったので、衆人が不満を持ち、あなたが美色を愛して士を蔑んでいると考えるようになりました。だから人々が去っていくのです。臣等も日を待たずに去るつもりです。」
驚いた平原君は罪を認めて「これは勝の過ちだ!」と言い、すぐに佩剣を解いて左右の者に楼上の美人の首を斬らせました。その後、躄者の門を訪ね、長い間跪いて謝罪します。その結果、躄者は満足して喜び、門下の者も平原君の賢を称え、以前のように賓客が集まるようになりました。
 
 
*『東周列国志』第九十三回後編に続きます。

第九十三回 趙主父が沙邱で餓死し、孟嘗君が函谷関を通る(後編)