第九十四回 馮驩が孟嘗の客となり、斉王が桀宋を伐つ(四)

*今回は『東周列国志』第九十四回その四です。
 
翌日、宋王偃は斉兵に戦う能力がないと信じ、営寨を引き払って進軍しました。直接、斉の営塁を攻撃します。
閭丘儉は韓聶の旗号を立てて陣を連ねました。辰(午前七時から九時)から午(正午)に至るまで、三十余回も合戦します。
宋王はさすがに勇猛な英傑で、自ら斉将二十余人を斬り、百余人の兵士を殺しました。しかし宋将盧曼が陣中で戦死します。
やがて、閭丘儉がまた大敗して逃走しました。無数の車仗器械が棄てられていたため、宋兵が先を争って物資を略奪します。
すると突然、探子(斥候)が報告しました「敵兵が睢陽城を襲いました。急を告げています!確認したところ、楚魏二国の軍馬のようです。」
宋王は激怒してすぐに隊列を整え、都城に引き上げました。
ところが五里も進まない所で斜めから一軍が突出し、「斉国の上将韓聶、ここにあり!無道の昏君!まだ降らないのか!」と叫びました。
宋王の左右の将戴直と屈志高が車を並べて進み出ましたが、韓聶が神威を発揮して、まず屈志高を車の下に斬り捨てます。
戴直は交戦しようとせず、宋王を守って戦いながら逃走しました。睢陽の城下まで至ると守将公孫抜が自国の軍馬と知って門を開き、中に迎え入れました。
この後、三国は兵を合わせて昼夜休まず城を攻めました。
 
突然、遠くで砂塵が巻き上がり、新たに大軍が到着しました。
斉湣王は韓聶が成功できないことを心配し、自ら大将王蠋や太史敫等を率いて出征しました。生軍(精鋭)三万が韓聶に合流し、軍勢がますます壮観になります。
宋軍は斉王が自ら兵を率いて来たと知り、膽を潰して意気消沈しました。
また、宋王が士卒を慈しまず、昼夜に渡って男女を駆使して城を守らせているのに全く恩賞がないため、怨声が絶えなくなりました。
戴直が王偃に言いました「敵の勢いが猖狂で人心も変わっています。大王は城を棄てて暫く河南に避難し、改めて恢復を図るべきです。」
宋王は王霸を狙う心が既に秋水(澄みきった水?)と化していたため、一度嘆息して夜半に逃走しました。戴直と共に城を棄てます。
公孫抜が急いで降旗を立てて湣王を城に迎え入れました。
湣王は百姓を按撫し、同時に諸軍に命じて宋王を追撃させました。
宋王は温邑まで奔りましたが、追兵に追いつかれました。まず戴直が捕まって斬られます。
宋王は神農の澗中(谷)に身を投じましたが、死ねませんでした。軍士が牽き出して首を斬り、睢陽に送ります。
こうして斉、楚、魏が宋国を滅ぼし、その地を三分しました。
 
楚と魏の兵が解散してから、斉湣王が言いました「伐宋の役では斉の力が大きかった。楚と魏が領地を受け取る資格はない。」
湣王は兵に枚(声を出さないために噛む小さな板)を銜えさせて唐昧の後を追わせ、楚軍を重丘で破りました。勝ちに乗じた斉軍は北に向かって淮北の地を全て占領します。
更に西進して三晋を侵し、しばしば三晋の軍を破りました。
楚と魏は約束を違えた湣王を恨み、秦に使者を送って帰附しました。秦は蘇代の功として称賛しました。
 
湣王は宋の地を兼併してからますます驕恣になりました。嬖臣夷維を衛、魯、鄒に派遣し、三国の君に臣を称して入朝するように要求します。三国は斉の侵伐を懼れて従わざるを得ませんでした。
湣王が言いました「寡人は燕を破壊して宋を滅ぼし(残燕滅宋)、千里の地を開いた。更に梁を破って楚を割き(敗梁割楚)、威を諸侯に加えた。魯と衛も既に臣を称した。泗上に斉を恐懼しない国はない。旦晚に(朝晩。すぐに)一旅を率いて二周を兼併し、九鼎を臨淄に遷して天子の号を正し、天下に令を発するつもりだ。誰に逆らうことができるか。」
孟嘗君田文が諫めて言いました「宋王偃が驕だったので、斉は乗じることができました。大王が宋を戒めとすることを願います。周は微弱とはいえ、なお天下の共主と号されています。七国が攻戦しても敢えて周に至らないのは、その名を畏れているからです。以前、大王が帝号を去って称さなかったため、天下が斉の讓徳を称えました。今突然、周に代わろうという志が生まれましたが、恐らく斉にとって福にはなりません。」
湣王が言いました「湯(成湯)は桀を放逐し、武王は紂を討伐したが、桀や紂は主ではなかったのか?寡人がなぜ湯武(成湯と武王)に及ばないのだ?惜しいことに子(汝)は伊尹でも太公でもない。」
湣公は再び孟嘗君の相印を没収しました。
 
孟嘗君は誅殺を懼れて賓客と共に大梁に奔りました。公子無忌を頼って寄居します。
公子無忌は魏昭王の少子です。その為人は謙恭で士を愛し、人に接したら自分の対応が行き届かないことを恐れました。
ある日の朝膳で一羽の鳩が鷂(鷹に似た鳥)に追われ、急いで案(机)の下にもぐりました。無忌は鳩を隠して周りを眺め、鷂が去ったのを確認してから鳩を放ちました。ところが鷂は屋脊(屋根)に隠れており、鳩が飛んで出てくるのを見て、すぐに後ろから食べてしまいました。
無忌は自分を咎めてこう言いました「あの鳩は患を避けて私に投じたのに、鷂に殺されてしまった。私は鳩を裏切ってしまった。」
その日は一日中食事をせず、左右の者に命じて鷂を捕まえさせました。
やがて百余羽の鷂がそれぞれ一つの籠に入れられて献上されました。
無忌が言いました「鳩を殺したのは一羽だけだ。どうして他の禽(鳥)に累を及ぼすことができるか。」
無忌は剣を籠の上に置いてこう念じました「鳩を食べていない鳥は私に向いて悲しく鳴け。私が汝を放してやろう。」
鷂の群れが一斉に悲しそうな鳴き声をあげました。
しかし一つの籠だけは、鷂が頭を下げて無忌を見ようとしません。無忌はその鷂を籠から出して殺し、他の鷂を全て放しました。
これを聞いた者が感嘆して言いました「魏公子は一羽の鳩に対しても裏切ることができない。人に対してならなおさら裏切れないだろう。」
この後、賢愚に関係なく多数の士が集まり、市のようになりました。食客は三千余人を数え、孟嘗君、平原君と併称されます。
 
魏に姓は侯、名は嬴という隠士がいました。七十余歳になりますが、家が貧しかったため大梁夷門の監者(門番)を勤めています。素行が修潔で、しかも奇計を好み、里中から尊敬されて侯生と号されていました。
それを聞いた無忌は車を準備して侯嬴を訪ねました。黄金二十鎰を贄(礼物)にします。
侯生が言いました「嬴は貧困に安んじて自分を守っており、一銭でも人から妄りに受け取ったことはありません。既に老いたのに、今さらどうして公子のために節を変えることができるでしょう。」
無忌は無理強いできないと判断します。しかし侯生を尊重して礼を行い、それを賓客に示したいと思いました。そこで盛大な酒宴を準備します。
当日、魏の宗室や将相といった貴客が無忌の堂中に集まりました。それぞれの席が定められましたが、左の第一席だけが空けられています。
無忌は自ら車を御して夷門に向かい、侯生を宴に招きました。侯生が車に乗る時、無忌は揖礼して上坐を譲りました。侯生は全く謙遜せず上座に座ります。
無忌は侯生の横で手綱を取り、極めて恭敬な態度を見せました。
すると侯生が無忌に言いました「臣には朱亥という客(友人)がおり、市屠の中にいます。今から会いに行きたいと思うのですが、公子は一緒に枉駕(わざわざ足を運ぶこと)できますか?」
無忌が言いました「先生と一緒に行かせてください。」
無忌は従者たちに遠回りを命じて車を市に入らせました。
屠門に至ると侯生が言いました「公子は暫く車の中でお待ちください。老漢は車を下りて客に会ってきます。」
侯生は車を下りて朱亥の家に入りました。肉案(肉を売る机)を隔てて朱亥と向かい合い、長話を始めます。
侯生は時々公子を窺い見ました。公子の顔はますます和やかになり、全く倦怠の色が見えません。
しかし無忌の従騎数十余人は侯生が長々と話しているのを見て嫌になり、多くが隠れて罵りました。その声は侯生にも聞こえています。ただ公子だけは最後まで顔色を変えませんでした。
長い時間が経ってから、侯生がやっと朱亥に別れを告げて車に乗りました。やはり上坐に座ります。
無忌は午牌(正午)に門を出ましたが、府邸に帰った時には申(午後三時から五時)の終わりに近づいていました。
貴客達は公子が自ら客を迎えに行ったと知り、左の席を空けて待っていました。どこに住む有名の遊士なのか、あるいはどこか大国の使臣なのか、誰も何も知らず、一片の敬心を持って待ち続けます。しかし久しく経っても現れないため、皆、いらいらして敬意を失い始めました(心煩意懶)
そこに「公子が客を迎えて到着しました」という報告が入りました。
貴客達に再び敬心が生まれ、そろって立ち上がって無忌と客を出迎えます。貴人達が目を見開いて待ち受ける中、入って来たのは古くて粗末な衣冠を身に着けた白鬚の老人でした。この客を見て驚かない者はいません。
無忌が侯生を連れて全ての賓客に紹介しました。貴客達は夷門の監者だと聞いて納得できませんでした。
無忌が揖礼して侯生に首席を譲り、侯生は謙讓することなく座りました。
酒がまわってから、無忌が金巵(杯)を持って侯生の前で寿を祝いました。
侯生が巵を受け取って無忌に言いました「臣は夷門の抱関吏(関門を守る小吏)に過ぎませんが、公子はわざわざ枉駕し(足を運び。遠回りし)、久しく市中に立ちながら全く怠色を見せませんでした。また、臣を尊んで諸貴の上に置きました。臣にとっては過分なことですが、臣がこうしたのは、公子が士にへりくだることができるという美名を成したかったからです。」
貴客達は皆隠れて嘲笑しました。
宴が解散してから、侯生は公子の上客になりました。
侯生が朱亥の賢才を推挙したため、無忌が度々会いに行きましたが、朱亥は決して答拝せず、無忌もそれを咎めませんでした。
無忌はこのように自分の節を屈して士の下になることができました。
 
今日、孟嘗君が魏に来ました。頼りになるのは無忌しかいません。古語に「同じ声は互いに応じ、同じ気は互いに求める(同声相応,同気相求)」という八文字がありますが、まさにその通りで、二人は自然に意気投合します。
孟嘗君は元々趙の平原君(公子勝)とも厚い親交がありました。そこで無忌にも趙勝と交わるように勧めます。無忌は実の姉を平原君に嫁がせて夫人にしました。
こうして魏と趙が通好し、孟嘗君は両国の間で尊重されました。
 
斉湣王は孟嘗君が去ってからますます驕矜(驕慢自大)になり、日夜、周に代わって天子になる計画を練りました。
この頃、斉の境内で度々怪異が起きました。ある時は、天が数百里に渡って血の雨を降らせ、人の衣服を濡らして我慢できないほどの腥臭(生臭い匂い)を漂わせました。またある時は、地が数丈にわたって割け、泉水が湧き出ました。更には誰かが関に向かって哭泣しましたが、声だけが聞こえて姿は見えませんでした。
このような事が続いたため、百姓は恐れて不安になりました(原文「朝不保夕」。朝から夜まで安全を保てるかどうか分からず、一日中不安になること)
大夫の狐咺と陳挙が前後して諫言し、孟嘗君を呼び戻すように請いましたが、湣王は怒って二人を殺し、死体を通衢(大通り)に曝して諫言を途絶えさせました。
王蠋や太史敫等は病と称して職を棄て、郷里に隠居します。
湣王の結末はどうなるのか、続きは次回です。

第九十五回 楽毅が斉を滅ぼし、田単が燕を破る(前篇)