第九十四回 馮驩が孟嘗の客となり、斉王が桀宋を伐つ(三)

*今回は『東周列国志』第九十四回その三です。
 
宋康王は宋辟公辟兵の子で剔成の弟です。母の夢の中で徐偃王西周時代、徐国の国君)が現れて託生(生まれ換わること。転世)したため、偃と名づけられました。
生まれつきの異相で、身長は九尺四寸、面闊(闊面)は一尺三寸もあり、目は巨星のようで、面(顔)には神光があり、勇力によって鉄鉤を曲げたり伸ばしたりできました。
周顕王四十一年に兄の剔成を逐って自ら即位します。
即位後十一年目に国人が雀の巣を探して蛻卵(割れた卵)を見つけました。中には小鸇(鷹の一種)がいます。国人は奇怪な事だと思って君偃(康王)に献上しました。
偃は太史を招いて占わせました。太史が卦を布いて言いました「小が大を生んだのは、弱が逆転して強となることを意味します。崛起して霸王になる象です。」
偃が喜んで言いました「宋は甚だしく弱い。寡人がこれを興さなかったら誰に望むのだ。」
偃は多数の壮丁を選んで自ら訓練し、勁兵(強兵)十万余を得ました。
その後、東は斉を攻めて五城を取り、南は楚を破って三百余里の地を開き、西は魏軍を破って二城を取り、滕を滅ぼしてその地を占領しました。
また、秦に使者を送って通好し、秦も使者を送って答礼します。
こうして宋は強国を号し、斉、楚、三晋と並立しました。偃は宋王を称します(これを康王といいます)
 
宋康王は天下の英雄を自負し、匹敵する者がいないと過信して霸王の業を急ぎました。
朝政に臨む度に、群臣に命じて万歳を唱えさせます。堂上で一呼したら堂下が応じ、更に門外の侍衛がそれに応じ、数里離れた場所でも万歳の声が聞こえました。
ある時には、革囊(皮の袋)に牛の血を盛って高竿に掲げ、弓を牽いて射ました。弓も矢も強いため、革囊を貫通して血の雨が飛び散ります。康王は人を市に送って「我が王が天を射て勝利を得た」という噂を流し、遠くに住む人々まで恐れさせようとしました。
長夜の宴を開いた時は、群臣に酒を強制しました。但し自分の酒だけは秘かに左右の近臣に命じて熱い水に換えさせてあります。普段から酒量が多い群臣も皆酩酊して礼を成せなくなりましたが、康王はいつまでも意識がはっきりしていました。左右で媚を献じる者達が言いました「君王の酒量は海のようです。千石を飲んでも酔いません。」
更に多数の婦人を集めて淫楽し、一夜で数十人を御しました。これも人を使って「宋王の精神は数百人分を兼ねており、倦怠したことがない」という噂を流して自慢しました。
 
ある日、封父炎帝の後裔)の墟(故国)に巡遊して桑を採っている婦人に遇いました。容姿が美しかったため、青陵に台を築いて様子を眺めます。やがて、家を訪ねて舍人韓憑の妻息氏だと知りました。
王は韓憑に意を伝えて妻を要求しました。韓憑が妻に話して気持ちを問うと、息氏は詩を作ってこう答えました「南山に鳥がおり、北山に網を張る。鳥は自ら高く飛び、網があっても役に立たない(南山有鳥,北山張羅。鳥自高飛,羅当奈何)。」
しかし宋王の息氏に対する想いは収まらず、人を送って韓憑の家で息氏を奪いました。韓憑は息氏が車に乗って去るのを見て、心中忍ぶことができず、自殺してしまいました。
宋王は息氏を招いて二人で青陵台に登り、こう言いました「わしは宋王だ。人を富貴にさせることもできるし、人を生かすことも殺すこともできる。そもそも汝の夫は既に死んだ。汝はどこに帰るのだ?もし寡人に従うのなら王后に立ててやろう。」
息氏は再び詩を作って答えました「鳥には雌雄があり、鳳凰を追うことはい(普通の鳥は夫婦で仲良く暮らすだけで、鳳凰と一緒になろうとは思わない)。妾(私)は庶人。宋王を楽しませることはできない(鳥有雌雄,不逐鳳凰。妾是庶人,不楽宋王)。」
宋王が言いました「卿は既にここに来た。寡人に従いたくないと思っても無理なことだ。」
息氏が言いました「妾が沐浴更衣し、故夫の魂を拝して別れを告げることをお許し下さい。その後、大王の巾櫛に侍ります(巾は手拭い、櫛はくし。あわせて洗面用具。巾櫛に侍る(侍巾櫛)は妻妾になるという意味)。」
宋王は許可しました。
息氏は沐浴して服を換えると、空を眺めて再拝し、台の上から身を投げました。宋王が急いで人を送って服を引かせようとしましたが間に合いません。息氏を見に行くと既に息絶えていました。
息氏の身の回りを調べて裙帯から一幅の書を見つけました。そこにはこう書かれています「死後、遺骨を韓憑と同じ塚に合葬していただくことを乞います。黄泉で徳に感謝します。」
激怒した宋王はわざと二つの塚を造り、二つの死体を分けて埋めました。塚は東西に離れて向かい合っており、二人が一つになることはできません。
宋王は埋葬して三日後に帰国しました。
ある夜、二つの塚の傍に突然、文梓木(良木)が生えました。十日の間に木は三丈余の高さになり、枝が自然に結びついて一体になりました。そこに一対の鴛鴦が飛んできて、枝の上に止まります。互いに首を絡めて悲しそうに鳴きました。
里人が哀れんで言いました「これは韓憑夫婦の魂が化けたのだ。」
この樹は「相思樹」と名づけられました。
 
群臣の多くが宋王の暴虐を見て諫言しました。しかし宋王は臣下の瀆(不敬)を我慢できず、弓矢を座席の傍に置いて諫言する者が来たら弓を引きました。
一日で景成、戴烏、公子勃の三人が殺されたため、朝廷を挙げて口を開く者がいなくなります。諸侯は桀宋と号すようになりました(桀は夏王朝を滅亡に導いた暴君です)
 
 
斉湣王は蘇代の話を聞いて楚と魏に使者を送り、共に宋を攻撃してその地を三分することを約束しました。
斉の兵が出発すると、秦昭王が怒って言いました「宋は秦と懽(歓)を通じたばかりなのに、斉が攻撃した。寡人は宋を援けなければならない。それ以外の計はない。」
斉湣王は秦が宋を援けることを恐れて蘇代に意見を求めました。
蘇代が言いました「臣が秦兵を西に留めさせて、王に宋討伐の功を成させましょう。」
 
蘇代が西の秦に入って昭襄王に言いました「今回、斉が宋を討伐しました。臣は敢えて大王を祝賀させていただきます。」
秦王が問いました「斉が宋を攻めたことで、先生はなぜ寡人を祝賀するのだ?」
蘇代が言いました「斉王の強暴は宋と差がありません。今、楚魏と約束して宋を攻めましたが、必ず楚魏を侮って圧迫します。楚魏が圧迫を受けたら、必ず西を向いて秦に仕えます。秦は斉に対する餌として一つの宋を損ないますが、座して楚魏の二国を収めることができます。王にとって不利はありません。だから祝賀するのです。」
秦王が問いました「寡人は宋を救いたいと思うがどうだ?」
蘇代が言いました「桀宋は天下の公怒を犯しており、天下は皆、その滅亡を幸としています。もし秦だけが宋を救ったら、衆怒は秦に移るでしょう。」
秦王は兵を収めて宋救援を中止しました。
 
まず斉軍が宋の郊外に至りました。楚と魏の兵も続々と集結します。
斉将韓聶、楚将唐昧、魏将芒卯の三人が集まって商議しました。
唐昧が言いました「宋王は志が大きく気が驕っています。弱を示して誘い出すべきです。」
芒卯が言いました「宋王は淫虐で人心が離怨しています。そして我々三国には喪師失地の恥があります。檄文で宋王の罪悪を宣伝して故地の民を招けば、必ず戈を逆に持って宋に刃向かう者が出てきます。」
韓聶が言いました「二君の言はどちらも是(正論)です。」
こうして檄文が書かれました。桀宋の十の大罪を宣言します。一は兄を逐って位を簒奪し、不正によって国を得たこと。二は滕を滅ぼしてその地を兼併し、桀強(強暴)によって弱者を虐げていること。三は攻撃を好んで戦を楽しみ、大国を侵犯していること。四は革囊を使って天を射たと称し、上帝に対して罪を得たこと。五は長夜の酣飲(宴)を開いて国政を顧みないこと。六は人の妻女を奪って淫蕩無恥なこと。七は諫臣を射殺して忠良の口を塞いでいること。八は王号を僭称して妄自尊大(過度な自信をもって尊大)なこと。九は単独で強秦に媚びて隣国との間に怨みを結んでいること。十は神に対して怠慢、民に対して暴虐で、君道が全くないことです。
檄文が各地に届くと人心が恐れて動揺しました。三国が失った地では、民が宋に帰順することを喜ばず、官吏を放逐して自ら城壁に登り、自国の兵が来るのを待ちました。
三国の兵は向かう所でことごとく勝利し、宋都睢陽に直進します。
 
宋王偃は車徒を大閲兵し、自ら中軍を指揮しました。城から十里離れた場所で営塁を構え、三国の攻突に備えます。
韓聶が部下の将閭丘儉に兵五千人で戦いを挑ませました。しかし宋兵は出て来ません。
閭丘儉は声が響く軍士を数人選び、車に乗って桀宋の十罪を読み上げさせました。
宋王偃は激怒して将軍盧曼に出撃を命じます。
双方が数合戦った時、閭丘儉が敗走しました。盧曼が追撃します。閭丘儉は全ての車馬器械(武器。物資)を棄て、狼狽して奔りました。
営塁に登って眺めていた宋王偃は斉軍が敗れたのを確認し、喜んで言いました「斉の一軍を破ったから楚と魏も気を喪ったはずだ。」
宋王は全軍を動員して出陣し、斉の営塁に迫りました。
韓聶はまた一陣を譲って二十里撤退し、改めて営寨を築きました。しかしその間に唐昧と芒卯の二軍を左右に送り、宋王の大営の後に移動させました。
 
 
 
*『東周列国志』第九十四回その四に続きます。

第九十四回 馮驩が孟嘗の客となり、斉王が桀宋を伐つ(四)