第九十七回 死范雎が秦国に逃げ、假張禄が魏使を辱める(二)

*今回は『東周列国志』第九十七回その二です。
 
范雎は鄭安平の家で薬を塗って養生しました。徐々に体が回復します。やがて鄭安平は范雎を連れて具茨山に隠れました。
范雎は張禄に改名しました。山中で張禄が范雎だと知っている者はいません。
半年後、秦の謁者王稽が昭襄王の命を奉じて使者となり、魏国に来ました。公館に宿泊します。
鄭安平は駅卒と偽って王稽のそばに仕えました。鄭安平の応対が敏捷だったため、王稽は鄭安平を気に入りました。
そこで王稽が鄭安平に問いました「汝は汝の国の賢人で、まだ出仕していない者を知らないか?」
鄭安平が言いました「賢人とは容易に語れるものではありません。以前、范雎という者がおり、その者は智謀の士でしたが、相国に殴打されて死んでしまいました。」
言い終わる前に王稽が嘆いて言いました「惜しいことだ。その者は我が秦国に来なかったから、大才を発揮できなかった。」
鄭安平が言いました「今、臣の里に張禄先生という者がおり、その才智は范雎に劣りません。あなたは会ってみたいと思いませんか?」
王稽が言いました「そのような者がいるのなら、なぜ招いて会わせないのだ。」
鄭安平が言いました「彼は国内に仇家があるので、昼は行動しません。もし仇がいなかったら、遥か以前から魏に仕えており、今日まで待つこともなかったでしょう。」
王稽が言いました「夜の訪問でもかまわない。待つことにしよう。」
鄭安平は張禄も駅卒の姿に換えさせ、深夜に公館で王稽を謁見させました。
王稽が天下の大勢について問うと、范雎は明確に解説し、まるで目の前に見えているかのようでした。
王稽が喜んで言いました「先生が非常(非凡)の人だと分かりました。私と秦に西游できますか?」
范雎が言いました「臣禄の仇は魏におり、安居できません。もし連れて行っていただけるのなら、誠に至願(最大の願い)というものです。」
王稽が指を折って言いました「私が使者の任務を終えるまで、まだ五日を要します。先生はその時が来たら三亭岡の人がいない場所で私を待ってください。そこで車に載せます。」
五日後、王稽が魏王に別れを告げました。群臣が郊外まで見送り、宴を開いて餞別します。
その後、王稽は車を駆けさせて三亭岡に行きました。
突然、林の中から二人が走り出してきました。張禄と鄭安平です。
王稽は奇珍を獲たように喜び、張禄と同じ車に乗りました。道中、飲食も休憩も必ず二人で一緒に行動します。談論して意気投合し、互いに親愛しました。
 
一日も経たずに秦の国境に入りました。湖関まで至ると前方の遠くで砂塵が舞い、一群の車騎が西から向かって来ました。
范雎が問いました「向こうから来るのは誰でしょうか?」
王稽が前駆を見定めて言いました「あれは丞相の穰侯です。東部の郡邑を巡察しに行くのでしょう。」
穰侯は名を魏冉といい、宣太后の弟(異父同母弟)です。宣太后羋氏は楚女で、昭襄王の母にあたります。昭襄王が即位した時はまだ幼くて冠礼も済ませていなかったため、宣太后が朝廷に臨んで政治を行い、弟の魏冉を用いて丞相に任命しました。魏冉は穰侯に封じられます。次弟(同父同母弟)の羋戎も華陽君に封じられ、並んで国事を専らにしました。
後に昭襄王が成長すると、太后の勢力を恐れたため、自分の弟の公子悝を涇陽君に、公子市を高陵君に封じて羋氏の権力を分散させようとしました。穰侯、華陽君、涇陽君、高陵君は秦国内で「四貴」とよばれます。但し、涇陽君と高陵君は丞相魏冉の尊貴な地位に及びませんでした。
 
丞相魏冉は王に代わって歳時(四季)の巡察を行っており、郡国の官吏の様子を調べ、城池を視察し、車馬を検閲し、百姓を撫循していました。これが旧規(慣習)となっています。
今日、穰侯は東巡するところでした。前導(先導)の威儀を見れば王稽にわからないはずがありません。
范雎が言いました「私が聞いたところでは、穰侯は秦の政権を専らにし、賢能に嫉妬して諸侯の賓客を嫌っているとのことです。恐らく辱めを受けることになるでしょう。私は車箱(荷台)に隠れて穣侯を避けます。」
間もなく穰侯が至りました。王稽は車を下りて謁見します。
穰侯も車を下りて王稽に会い、労って言いました「謁君は国事のために労苦(ご苦労)であった。」
二人とも車の前に立って挨拶します(敘寒温)
穰侯が問いました「最近、関東では何かあったか?」
王稽が鞠躬(お辞儀)して答えました「ありません(無有)。」
穰侯が車中を見て言いました「謁君は諸侯の賓客と一緒ではないか?あのような輩は口舌に頼って人の国で遊説し、富貴を得ているが、実際には全く役に立たない。」
王稽が言いました「そのようなことはしません(不敢)。」
穰侯は別れを告げて去りました。
范雎が車箱から外に出ましたが、座席に座らず、車から下りて走ろうとしました。
王稽が言いました「丞相は既に去りました。先生が一緒に乗っていても問題ありません。」
范雎が言いました「臣が秘かに穰侯の容貌を窺ったところ、白目が多くて視邪(斜視。「邪」は「斜」を意味します)でした。そのような人は疑い深い性格ですが、事に対しては遅鈍です。先ほど車中を見たのは既に疑っているからです。一時は見つかりませんでしたが、必ずすぐに後悔し、後悔したら必ず戻ってきます。逃げておいた方が安全です。」
范雎は鄭安平を呼んで一緒に走りました。王稽の車仗が後に続きます。
十里程進んだ時、背後で馬鈴が鳴り響きました。二十騎が東から飛ぶように接近してきます。
騎兵が王稽の車仗に追いついて言いました「我々は丞相の命を奉じて来ました。大夫が遊客を連れているのではないかと心配したので、改めて我々に調べさせたのです。お許しください(大夫勿怪)。」
魏冉の部下達は車中を調べて外国人がいないことを確認し、やっと引き上げました。
王稽が嘆息して言いました「張先生は真に智士だ。私には及ばない。」
王稽は車を催促して前に進み、五六里の所で張禄と鄭安平に会いました。再び車に乗せて一緒に咸陽に入ります。
 
王稽が秦昭襄王に朝見して復命を終えてから、こう言いました「魏に張禄先生という者がおり、衆を抜く智謀を持った天下の奇才です。彼は臣に秦国の勢(情勢)を語りました。彼が言うには、秦には累卵(卵を積むこと)の危機が存在し、彼に安泰をもたらす策があるものの、直接会わなければ話せないとのことでした。よって臣が車に乗せて連れて来ました。」
秦王が言いました「諸侯の客は大言を好み、いつもそのようなことを言う。とりあえず客舍に入れておけ。」
范雎は下舍が与えられ、王が必要とした時に招くことになりました。
しかし一度も招かれることなく年を越します。
 
ある日、范雎が外出して市に行きました。すると穰侯が出征するために兵を集めています。
范雎が秘かに周りの者に問いました「丞相が出征のために徵兵していますが、どこの国を討伐するのですか?」
一人の老人が答えました「斉の綱寿だ。」
范雎が問いました「斉兵が国境を侵したのですか?」
老人が答えました「そのようなことはない(未曾)。」
范雎が問いました「秦と斉は東西で懸絶(遠く離れていること)しており、間に韓魏を隔てています。しかも斉が秦を侵したわけでもないのに、どうして秦は遥か遠方を討伐するのですか?」
老人は范雎を僻処(人がいない場所)に連れて行ってこう言いました「斉討伐は秦王の意ではない。丞相の封邑に陶山があり、綱寿が陶に近いから、丞相は武安君を将にして攻め取りたいのだ。自分の封地を拡げるのが目的だ。」
范雎は館舍に帰ってから秦王に上書しました「羈旅(他国で寄居すること)の臣張禄が死罪を犯して(死罪死罪)秦王殿下に聞奏(上奏)いたします。臣は『明主が政治を立てたら、功がある者は称され、能がある者は官を与えられ、労が大きい者は禄が厚くなり、才が高い者は爵が尊くなる(明主立政,有功者賞,有能者官,労大者禄厚,才高者爵尊)』と聞いています。だから無能の者は濫職(相応しくない官職に就くこと)できず、有能の者が遺棄されることもありません。今、臣は下舍で命を待って一年が経ちました。もし臣を有用と思うのなら、寸陰の暇を借りて臣の説を尽くさせてください。もし臣を無用だと思うのなら、臣を留めて何の意味があるのでしょうか。言は臣にあり、聴は君にあります(話すのは臣ですが、採用するかどうかは国君しだいです)。臣の言が相応しくないと判断してから、斧鑕の誅(死刑)に伏させても遅くはありません。臣を軽視するために臣を推挙した人まで軽視するようなことは避けるべきです(臣を軽視したら臣を推挙した王稽も軽視することになります)。」
 
秦王は張禄の事を忘れていました。この書を見るとすぐに人を送って車で張禄を招き、離宮に連れて来させました。
秦王が来る前に范雎が先に着きました。
やがて、秦王の車騎が遠くから来ましたが、范雎は知らないふりをしてわざと永巷(宮内の小巷。宮女等が住む場所)に走ります。
それを見つけた宦者が范雎を追い出して「王が来られた!」と言いました。
しかし范雎は「秦には太后と穰侯がいるだけだ。どうして王がいるのだ」と言うと、宦者を顧みず前に進みました。
宦者が范雎を遮って言い争いを始めたところに秦王が到着します。
秦王が宦者に問いました「なぜ客と論を争っているのだ?」
宦者が范雎の言葉を報告しましたが、秦王は怒ることなく、范雎を内宮に迎え入れました。上客の礼で遇します。范雎は遠慮して謙遜の姿を見せました。
 
 
 
*『東周列国志』第九十七回その三に続きます。

第九十七回 死范雎が秦国に逃げ、假張禄が魏使を辱める(三)