第九十七回 死范雎が秦国に逃げ、假張禄が魏使を辱める(三)

*今回は『東周列国志』第九十七回その三です。
 
秦王が左右の人払いをし、長跪(上半身を直立して跪く礼)して問いました「先生は何を寡人に教えてくださるのですか?」
范雎は「はいはい(唯唯)」としか言いません。
少しして、秦王がまた跪いて教えを請いました。
しかし范雎はやはり「はいはい(唯唯)」と答えるだけです。
これが三回繰り返されてから、秦王が問いました「先生は寡人に教えをくださらないのですか?寡人は語るに足りないというのですか?」
范雎が答えました「そうではありません。昔、呂尚は渭浜で釣りをしている時、文王に遇って一言で尚父に拝されました。周はその謀を用いて商を滅ぼし、天下を有することになります。箕子と比干は貴戚として極諫を尽くしましたが、商紂はそれを聞かず、一人を奴とし、一人を誅しました。その結果、商は滅亡します。これは他でもありません。信と不信の違いがあるだけです。呂尚は疏(疎遠。他人。血縁がないこと)でしたが文王に信任されたので、王業を周に帰させ、呂尚も侯封を享受して世世(代代)継承させることができました。箕子と比干は親(親族)でしたが、紂に信任されなかったため、その身は死辱から免れることができず、国も救いがなくなりました。今、臣は羈旅の臣として至疏の地におります。しかし話したいと思う内容は全て興亡に関する大計か、人の骨肉の間に関係することです。深く話さなければ秦を救うことができませんが、深く話したら箕子や比干の禍が後から訪れることになります。王が三問しても敢えて答えなかったのは、王心が信か不信か測りかねていたからです。」
秦王が再び跪いて言いました「先生は何を言うのですか。寡人は先生の大才を慕ったので、左右の者を去らせ、専心して教えを聴くことにしたのです。上は太后から下は大臣に及ぶまで、何を語ってもかまいません。先生は隠さず言を尽くしてください。」
秦王は永巷に入った時、宦者から范雎の「秦には太后と穰侯がいるだけで、王がいるとは聞いたことがない」という言葉を聞いたため、心中で疑問を抱き、教えを請いたいと思っていました。
しかし范雎は初めての機会で万一気に入られなかったら、後の進言の道を閉ざすことになってしまいます。しかも左右で盗み聞きしている者も多く、進言が洩れてしまった時の禍は測り知れません。そこで国外の事情を簡単に説明してきっかけ(引火之煤)にすることにしました。
范雎が言いました「大王が臣に言を尽くすように命じられました。これは臣の願いです。」
范雎が下拝すると秦王も答拝しました。
范睢が席に着いて言いました「秦地の険は天下に及ぶものがなく、甲兵の強も天下に敵うものがいません。しかし兼并の謀は成就せず、伯王(覇王)の業も完成しません。これは秦の大臣が計を失っているからではありませんか?」
秦王が側席(正面から外れた席に座ること。賢人に対して敬意を示すこと)して問いました「計を失っているとは何を指すのかお教えください。」
范雎が言いました「臣は穰侯が韓魏を越えて斉を攻めようとしていると聞きました。この計は正しくありません(計左)。斉と秦は遠く離れており、韓と魏が間に存在しています。王がわずかな師を出しても、斉の害にはなりません。逆に多くの師を出したら、先に秦を害すことになります。昔、魏は趙を越えて中山を討伐し、その地を占領しましたが、暫くして趙が有すことになりました。その理由は、中山が趙に近くて魏から遠かったからです。今、斉を攻めて勝てなかったら秦の大辱となります。斉を攻めて勝ったとしても、韓魏の資(資本。助け)となるだけで、秦には何の利もありません。大王のために計るなら、遠くと交わって近くを攻めるべきです(遠交而近攻)。遠くと交われば人の歓(他国間の友好関係)を離すことができます。近くを攻めれば我が国の領地を拡げることができます。蚕が葉を食べるように近くから始めて遠くに拡大すれば、天下を全て占有するのも困難ではありません。」
秦王が問いました「遠交近攻の道(方法)とはどのようなものだ?」
范雎が言いました「遠交は斉楚の他になく、近攻は韓魏の他にありません。韓魏を得たら斉楚だけが存続することはできません。」
秦王は手を叩いて称賛し、范雎を客卿に任命しました。范雎は張卿と号します。
 
秦王は早速、范雎の計を用いて東伐し、韓魏を攻めました。白起の斉討伐は中止されます。
魏冉と白起は一相一将として久しく権力を握っていましたが、張禄が突然寵を得たため、不快になりました。
しかし秦王は范雎を深く信じ、日に日に寵遇を深めていきます。いつも范雎を招いて夜半まで事を計り、范雎の進言に従わないことはありませんでした。
 
范雎は秦王の心が固まったと判断し、機会を探して左右の人払いをさせました。
范雎が言いました「臣は大王の過聴(意見を採用すること。信任)を蒙り、事を共にできるようになりました。(この御恩は)粉骨砕身しても報いることができません。しかし、臣には安秦の計がありますが、まだ王に対して言い尽くしてはいません。」
秦王が跪いて問いました「寡人は国を先生に託した。先生に安秦の計があるのなら、今ここで教えをいただこう。他の機会まで待つつもりはない。」
范雎が言いました「臣がかつて山東に住んでいた時、斉には孟嘗君がいると聞いていただけで、斉王がいるとは聞いたことがありませんでした。また秦には太后、穰侯、華陽君、高陵君、涇陽君がいるだけで、秦王がいるとは聞いたことがありませんでした。国を制御する者を王といい、生殺予奪は他人が専断できるものではありません。しかし今、太后が国母の尊に頼って擅行しており、王を顧みないこと四十余年に及んでいます。穰侯は一人で秦国の相となり、華陽がそれを補佐しています。涇陽と高陵はそれぞれが門戸を立てて生殺を自由に行っています。そしてこれら私家の富は公の十倍にもなります。大王は拱手して空名を享受しているだけですが、危険な状態ではありませんか?昔、崔杼が斉で専断して最後は荘公を弑殺しました。李兌が趙で専横して最後は主父を害しました。今、穰侯は内では太后の勢に頼り、外では大王の威を利用し、兵を用いたら諸侯を震恐させ、甲(武器)を解いたら列国が恩を感じています。また、広く耳目を作って王の左右にも設けてあります。王が朝廷で孤立している姿を臣が見るのは一日のことではありません。千秋万歳の後(王の死後)、秦国を有す者が王の子孫ではなくなることを恐れています。」
話を聞いた秦王は思わず毛骨を慄然とさせ、再び拝謝して言いました「先生の教えは肺腑の至言(心の底から出た誠実な言葉)だ。寡人はもっと早くに聞けなかったことを残念に思っている。」
 
翌日、秦王は穰侯魏冉から相印を回収して就国(封国に帰ること)させました。
穰侯は有司(官員)から牛車を借りて家財を運びます。車の数は千余乗に上り、奇珍異宝は秦の内庫にもないような物ばかりでした。
更に翌日、秦王が華陽、高陵、涇陽の三君を関外に追放し、太后を深宮に置いて政事に関与することを禁止しました。
范雎が丞相となり、応城を封じられて応侯と号します。
秦人は張禄が丞相になったと思っており、それが范雎だと知っている者は鄭安平しかいませんでした。但し、范雎が堅く口止めしていたため、鄭安平も誰にも洩らしていません。
秦昭襄王四十一年、周赧王四十九年の事です。
 
 
当時、魏昭王が死んで子の安釐王が即位していました。秦王が新たに丞相張禄の謀を用いて魏国を攻撃しようとしていると聞き、急いで群臣を集めて計議しました。
信陵君無忌が言いました「秦が魏に兵を加えなくなって数年になります。今、理由もないのに師を興すのは、我が国が対抗できないと思って侮っているからに違いありません。厳兵固圉(営塁を構えて国境を守ること)して待機するべきです。」
相国魏斉が言いました「それは違います。秦は強くて魏は弱いので、戦っても幸はありません。丞相張禄は魏人だと聞きました。香火の情(祖先や故郷を想う心)があるはずです。使者を派遣して厚幣を贈り、まず張相と通じて、その後、秦王に謁見し、質を納めることを条件に講和を求めれば、万全を保てるはずです。」
安釐王は即位したばかりで戦伐の経験がなかったため、魏斉の策を採用しました。中大夫須賈を秦に派遣します。
 
命を受けた須賈は咸陽に入り、館駅に泊まりました。
それを知った范雎が喜んで言いました「須賈がここに来た。私が仇に報いる時だ。」
范雎は鮮衣(華やかな服)を脱いで寒酸落魄(失意して貧しそうな様子)の姿になり、秘かに府門を出て館駅に行きました。ゆっくり中に入って須賈に謁見します。
范雎を一目見た須賈は驚いてこう言いました「范叔に変わりはないか?汝は魏相に打ち殺されたと思っていた。どうやってここまで生き延びてきたのだ?」
范雎が言いました「あの時、私の屍首は郊外に棄てられました。翌朝、やっと目が醒めた時、ちょうど賈客(商人)が傍を通り、呻吟の声を聞いて、私を憐れんで助けたのです。とりあえずなんとか一命を取り止めましたが、家には帰れず、間関(間道)から秦国に来ました。測らずもここで大夫にお会いできました。」
須賈が問いました「范叔は秦で遊説するつもりか?」
范雎が言いました「某(私)は昔日に魏国で罪を得てここまで亡命して来ました。生きているだけで幸いです。政事に関して口を開くつもりはありません。」
須賈が問いました「范叔は秦でどうやって生活しているのだ?」
范雎が言いました「傭(使用人)になって餬口をしのいでいます。」
須賈は思わず哀憐の心を動かされ、傍に留めて席を与えました。酒食を準備してもてなします。
季節は冬です。范雎は服が破れており、寒さに震えていました。須賈が嘆息して言いました「范叔はそのように凍えているのか。」
須賈は部下に命じて綈袍(厚地の絹の袍)を持って来させ、范雎に着せました。
范雎が言いました「大夫の衣を某(私)が着るわけにはいきません。」
須賈が言いました「故人(旧知)が過度に謙遜する必要はない。」
范雎は袍を着てから再三再四感謝しました。
 
 
 
*『東周列国志』第九十七回その四に続きます。