第九十八回 秦王が魏斉を要求し、長平で白起が趙卒を坑す(二)

*今回は『東周列国志』第九十八回その二です。
 
趙王は魏斉を捕らえることができず、相国の虞卿も逃走したため、二人が一緒に去ったと判断しました。向かうのは韓か魏のはずです。四方に飛騎を送って追跡させました。
使者が魏の郊外に来た時、初めて魏斉が自刎したと知りました。
趙の使者は魏王に話をして魏斉の頭を要求しました。秦に頭を送って平原君と交換するためです。しかし信陵君が魏斉の殯殮(棺に納めること。葬儀)を命じたばかりでした。信陵君は死体の引き渡しに反対します。
使者が言いました「平原君とあなたは一体です。平原が魏斉を愛したのとあなたが魏斉を愛したのは同じ心です(平原君とあなたは一心です)。魏斉がまだ生きているのなら、臣は敢えて何も言いません。しかし惜しいことに死んでしまいました。無知の骨(知覚がない死体)のために平原君を長く秦虜とさせて、あなたは安らかでいられますか?」
信陵君はやむなく首を匣(箱)に入れて封をしてから、趙の使者に渡しました。死体は郊外に埋葬されます。
 
虞卿は相印を棄ててから世情に対して感慨し、再び官職に就くことなく、白雲山中に隠居しました。時事を風刺する書を著して楽しみとします。この書を『虞氏春秋』といいます。
 
魏斉の首を得た趙王は昼夜を駆けて秦都咸陽に届けました。秦王は首を范雎に与えます。范雎は頭(頭蓋骨)に漆を塗って溺器(便器)とし、こう言いました「汝は賓客を酔わせて私に尿をかけさせた。今後、九泉の下でしばしば汝に私の尿を飲ませてやろう。」
秦王は礼を用いて平原君を趙に帰らせました。趙は平原君を相国に任命し、虞卿の職位に代わらせました。
 
范雎が秦王に言いました「臣は下賎な布衣の身でありながら、幸いにも大王の理解を得て位は卿相となり、しかも臣のために切歯の仇に報いていただきました。これ以上の恩はありません。しかし臣は鄭安平がいなければ魏において延命することはできず、王稽がいなければ秦に進められることもありませんでした。大王が臣の爵秩を削って二臣に加え、臣の徳に報いる心を成就させていただければ、臣は死んでも後悔しません。」
秦王が言いました「丞相が言わなかったら寡人は忘れるところだった。」
王稽は河東守に、鄭安平は偏将軍に任命されました。
 
秦は范雎の謀を用いてまず韓魏を攻撃し、斉楚には使者を送って友好を約束することにしました。
范雎が秦王に言いました「私は斉の君王后が賢人で智略もあると聞きました。使者を送って試してみるべきです。」
秦王は使者に命じて玉連環(複数の玉で作った鎖。または玉の知恵の輪)を君王后に献上させ、こう伝えました「斉国でこの環を解ける者がいたら、寡人は下風を拝そう(「願拝下風」。負けを認めよう)。」
君王后は近臣に命じて金鎚を持って来させると、すぐに環を叩き割りました。
君王后が使者に言いました「秦王にお伝えください。老婦が既にこの環を解きました。」
使者が帰って報告しました。
范雎が言いました「君王后はやはり女の中の傑人です(女中之傑)。侵犯してはなりません。」
秦は斉と盟を結び、互いに侵犯しないことを約束しました。斉国は安息な日々を送るようになります。
 
 
楚太子熊完は人質として秦に入りました。秦は十六年間も国内に留めています。
秦の使者が楚と友好を約束したため、楚の使者朱英が秦の使者と一緒に咸陽に入り、秦王を聘問しました。朱英は楚王の病が重く、恐らく回復できないという話をします。
太傅黄歇が熊完に言いました「王の病が篤いのに太子は秦に留められています。万一、不諱(国君の死)があったら、太子が榻前にいないので、諸公子の中から必ず代わりに立つ者が出るはずです。そうなったら、楚国は太子のものではなくなってしまいます。臣が太子のために応侯に謁見して帰国を請いましょう。」
太子は同意して「わかった(善)」と言いました。
黄歇が相府を訪ねて范雎に問いました「相君は楚王が病だと知っていますか?」
范雎が答えました「使者が話すのを聞いた。」
黄歇が言いました「楚の太子は秦にいて久しくなるので、秦の将相で親しく交わっていない者はいません。もし楚王が薨じて太子が立ったら、必ず謹んで秦に仕えます。今、相君が太子を楚に帰らせれば、太子の相君に対する感謝は無窮のものとなります。逆にもし秦に留めて帰らせなかったら、楚は他の公子を立てるので、秦にいる太子は咸陽の一布衣(一平民)に過ぎなくなります。しかも楚人は太子を帰国させなかった秦に警戒し、後日、必ず秦に委質(信を守って仕えること)しなくなります。一布衣を留めて万乗の友好を絶つのは、臣が思うに良計ではありません。」
范雎が頷いて言いました「君の言う通りだ。」
黄歇の言葉が秦王に伝えられました。
秦王が言いました「太子傅黄歇を先に帰らせて疾(病状)を問わせよ。本当に病が篤いようなら、改めて楚に太子を迎えに来させよう。」
黄歇は太子が一緒に帰れないと知り、秘かに太子と相談して言いました「秦王が太子を留めて帰らせないのは、懐王の故事を繰り返して、危急に乗じて割地を要求したいからです。幸いにも楚が使者を送って太子を迎えに来たら、秦の計にはまってしまいます。しかしもし迎えに来なかったら、太子は終生、秦虜となってしまいます。」
太子が跪いて問いました「太傅の考えは如何ですか?」
黄歇が言いました「臣の愚見に従うのなら、微服(平民の服)を着て逃げるべきです。今、楚の使者が報聘に来て帰るところです。この機を失ってはなりません。後の事は、臣が留まって命をかけて対処します。」
太子が泣いて言いました「もし事が成功したら、太傅と共に楚国を治めることにしよう。」
 
黄歇が秘かに朱英に会って計謀を述べました。朱英は協力を約束します。
太子熊完は微服に着替えて御者になり、楚の使者朱英のために手綱を取って函谷関を出ました。それを知る者は誰もいません。
黄歇は旅舍を守っています。秦王が楚王の病状を確認するために黄歇を帰国させようとすると、黄歇はこう言いました「太子が病を患い世話をする者がいません。病が少し良くなったら、朝廷に別れを告げに行きます。」
半月が経ちました。黄歇は太子が関を出て既に久しくなると判断し、秦王に謁見を求めて叩首謝罪しました「臣歇は楚王が一旦にして不諱となった時、太子が即位できず、秦君に仕えられなくなることを恐れ、勝手に帰国させました。太子は既に関を出たはずです。歇は国君を欺く罪を犯したので、斧鑕(刑具)に伏させてください。」
秦王が激怒して言いました「楚人はそのように詐(偽り)が多いのか!」
秦王は左右の者に叱咤して黄歇を捕らえさせ、処刑しようとしました。
しかし丞相范雎が諫めて言いました「黄歇を殺しても太子は取り戻せず、いたずらに楚の歓を絶つことになります。その忠を嘉して帰らせるべきです。楚王が死ねば太子が必ず位を継ぎます。太子が位を継いだら歇が必ず相になります。楚の君臣が共に秦の徳に感謝すれば、必ず秦に仕えるようになります。」
納得した秦王は黄歇に厚く賞賜を与えて楚に帰らせました。
 
黄歇が帰国して三か月後、楚頃襄王が死にました。太子熊完が即位します。これを考烈王といいます。
太傅黄歇が相国となり、淮北の地十二県を封じられて春申君と号しました。
しかし黄歇はこう言いました「淮北の地は斉と接しているので、郡(王の直轄地)を置いて城の守りの便宜を計るべきです。臣は遠い江東に封じられることを願います。」
考烈王は黄歇を旧呉の地に改封しました。黄歇は闔閭の故城を修築して都邑とします。城内に河川を通して四方に巡らせ(四縦五横)、太湖に繋げました。破楚門を昌門に改名します。
当時、孟嘗君は死んでいましたが、趙には平原君、魏には信陵君がいて士を養う気風が旺盛でした。黄歇も二人を慕って賓客を集め、食客は常に数千人に上りました。
 
平原君趙勝が春申君の家に使者を送ったことがありました。春申君は使者を上舍に住ませます。趙の使者は楚人に対して玳瑁(海亀)の簪や珠玉で装飾された刀剣の鞘を自慢しました。ところが春申君の客三千余人が紹介された時、全ての上客が明珠の靴を履いていたため、趙の使者は大いに恥じ入りました。
春申君は賓客の謀を用いて北の鄒魯の地を兼併しました。また賢士荀卿を蘭陵令に任命して政法を正し、兵士を修練しました。楚国が再び強盛になります。
 
 
楚と結んだ秦昭襄王は大将王齕に韓を攻撃させました。渭水から食糧を運んで東の河洛黄河洛水)に入れ、前線の秦軍に供給します。
秦軍は野王城を攻略し、上党と韓の道を途絶えさせました。
上党の守臣馮亭が吏民と謀って言いました「秦が野王を占拠したため、上党は韓が所有できなくなった。我々は秦に降るよりも趙に降ろう。秦は趙が土地を得たことを怒って必ず兵を趙に移す。趙が兵を受けたら必ず韓と親しくする。韓と趙が患を共にしたら、秦を防ぐことができる。」
馮亭は使者に書信と上党の地図を持たせて趙孝成王に届けさせました。趙孝成王四年、周赧王五十三年の事です。
 
ある夜、趙王が夢を見ました。趙王は偏(左右の色が違う服)を着ています。龍が天から降りて来ました。王が龍に乗ると、龍はすぐに飛び去りましたが、天に至る前に王が落ちてしまいました。落ちた場所には両側に金と玉の二つの山があり、光輝が趙王の目を奪いました。
目を覚ました趙王は大夫趙禹を招いて夢の話をしました。趙禹が言いました「偏衣(偏は『合』を意味します。龍に乗って天に昇ったのは『升騰』の象です。地に落ちたのは地を得るという意味です。金や玉が山になっていたのは、貨財が充溢するからです。大王は近々必ずと地を拡げて財を増やす慶事があるでしょう。この夢は大吉です。」
喜んだ趙王は筮史敢を招いて再び占わせました。しかし敢はこう言いました「偏衣は『残(不完全。損失)』を意味します。龍に乗って天に昇ったのに至らずに落ちたのは、事の多くが途中で変化し、名があるだけで実がないという意味です。金や玉が山を成したのは、観るだけで使えないという意味です。この夢は不吉です。王は慎重にするべきです。」
趙王の心は既に趙禹の言に惑わされていたため、筮史の警告を心に留めませんでした。
 
 
 
*『東周列国志』第九十八回その三に続きます。