第九十八回 秦王が魏斉を要求し、長平で白起が趙卒を坑す(三)

*今回は『東周列国志』第九十八回その三です。
 
三日後、上党太守馮亭の使者が趙に到着しました。趙王が書信を見るとこう書かれています「秦が韓を激しく攻めており、上党が秦に入ることになりました。しかし吏民は秦に附くことを願わず、趙に附くことを願っています。臣は吏民の欲(望み)に違えることができないので、謹んで所轄の十七城を大王に再拝献上いたします。大王はどうかお収めください。」
趙王が喜んで言いました「禹(趙禹)が土地を拡げて財を増やす慶事があると言ったが、今日、それが実現した。」
平陽君趙豹が諫めて言いました「無故(理由がない)の利は禍殃を招くといいます。王は受け入れてはなりません。」
趙王が問いました「人は秦を畏れて趙に懐いているから帰順したのだ。なぜ無故なのだ?」
趙豹が言いました「秦は韓地を蚕食して野王を攻略し、上党の道を断ちました。韓と上党が通じなくなったので、秦は掌に握った物を坐して得る時と同じ状態だと思っています。それが趙によって所有されることになったら、秦が甘んじるはずがありません。秦が力を尽くして耕作したのに趙が収穫を得るようなものです。よって臣は『無故の利』と言ったのです。そもそも馮亭が地を秦に入れず趙に入れようとしているのは、禍を趙に移して韓の困窮を緩めるためです。王はなぜそれを察しないのですか?」
趙王は納得せず、平原君趙勝を招いて意見を求めました。趙勝が言いました「百万の衆を発して人の国を攻め、長い年月をかけても(踰年歴歳)、一城も得られないことがあります。今、一寸の兵(武器)も一斗の糧も費やすことなく十七城を得ることになりました。これ以上の利はありません。この機会を失ってはなりません。」
趙王が言いました「君のこの言は正に寡人の意にかなっている。」
趙王は平原君に兵五万を率いて上党の地を受け取りに行かせました。馮亭には三万戸を封じて華陵君と号させ、今まで通り上党守に任命します。上党に属す県令十七人もそれぞれ三千戸が封じられ、侯爵を世襲することになりました。
しかし馮亭は門を閉ざして泣き、平原君に会おうとしませんでした。平原君が頑なに招くと、馮亭が言いました「私には三つの不義があるので使者に会うわけにはいきません。主のために地を守りながら死ねませんでした。これが一つ目の不義です。主の命がないのに勝手に領地を趙に入れました。これが二つ目の不義です。主の地を売って富貴を得ました。これが三つ目の不義です。」
平原君は感嘆して「彼は忠臣だ」と言い、門前で待ち続けて三日間も去ろうとしませんでした。
馮亭は平原君の誠意に感動してやっと家から出ます。但し、涙が止まることはなく、領地を趙に譲ってから、自分の代わりに別の良守を選ぶように請いました。
平原君が再三撫慰して言いました「君の心事は既に理解した。しかし君が守にならなかったら、吏民の望を慰められない。」
馮亭はやっと上党守の任務を受け入れましたが、封地は辞退しました。
平原君が別れようとした時、馮亭が言いました「上党が趙に帰順したのは、単独では秦に抵抗する力がないからです。公子は趙王に上奏し、秦を防ぐために士卒を大動員して、急いで名将を派遣させてください。」
 
平原君が帰って趙王に報告しました。趙王は酒宴を開いて領地を得たことを祝賀しましたが、出兵の議は後回しにして決定を渋りました。
その間に秦の大将王齕が上党を包囲します。馮亭は二カ月間堅守しましたが、趙の援軍が来ないため、吏民を率いて趙に奔ることにしました。
その頃、趙王がやっと廉頗を上将に任命し、兵二十万で上党を援けるように命じました。
廉頗は長平関で馮亭に遭遇して上党失陥と秦兵が日々迫っていることを知ります。
廉頗は金門山下に営塁を構えました。東西各数十の営塁が、星々が連なっているように並びます。同時に兵一万を割いて馮亭に光狼城を守らせ、兵二万を割いて都尉蓋負と蓋同にそれぞれ東西の二鄣城を守らせました。また裨将趙茄に遠く離れた秦兵を探らせました。
 
趙茄は五千の兵を率いて長平関外の様子を探りました。約二十里離れた場所で秦将司馬梗に遭遇します。司馬梗軍も偵察のために派遣された部隊でした。
趙茄は司馬梗の兵が少ないのを見て戦いを挑みます。両軍が交戦している時、秦の第二哨(偵察部隊)張唐の兵が到着しました。
慌てた趙茄は対応が鈍り、司馬梗の一刀によって斬り殺されました。趙兵は乱殺されます。
廉頗は前哨が破れたと聞き、各営塁に守りを徹底させ、秦軍との交戦を禁止しました。
また、軍士に命じて数丈の穴を掘らせ、水で満たしました。軍中の将兵は何のための穴か理解できませんでした。
 
王齕の大軍が到着しました。金門山から十里離れた場所に営寨を構えます。
まず軍を分けて二つの鄣城を攻撃しました。蓋負と蓋同は出撃して敗れ、二人とも命を落とします。
王齕は勝ちに乗じて光狼城を攻撃しました。司馬梗が勇を奮って真っ先に城壁を登り、大軍が後に続きます。馮亭も破れて金門山の大営に逃げました。廉頗が馮亭を営内に入れます。
秦兵が趙軍本営の攻撃を開始しました。
廉頗は「出陣した者はたとえ勝っても斬る!」と宣言します。
王齕は趙の営塁に入れないため、趙営からわずか五里の場所まで自軍の営寨を移して圧力を加えました。しかし何回挑発しても趙兵は出てきません。
王齕が言いました「廉頗は老将だ。その行軍は持重(慎重)で、動かすことができない。」
偏将王陵が計を述べました「金門山の下に流澗(渓谷)があり、楊谷といいます。秦趙の軍は共にこの澗で水を汲んでいます。趙塁は澗水の南にあり、秦塁は西を占拠しています。水は西から東南に流れているので、この澗を絶って水が東に流れないようにすれば、趙人は汲む水がなくなり、必ず数日も経たずに軍中が混乱します。混乱した敵を撃てば、勝てないはずがありません。」
王齕は納得して軍士に澗水を塞がせました。今(明清時代)に至るまで楊谷は絶水と呼ばれていますが、これが原因です。
しかし廉頗が事前に深坎(深くて大きな穴。ここでは溜め池)を造って余りあるほどの水を蓄えていたため、日常の水には不便しませんでした。
こうして秦と趙が対峙して四カ月が過ぎました。王齕は一戦することもできず、手の打ちようがなくなり、使者を送って秦王に状況を報告しました。
 
秦王が応侯范雎を召して計を問いました。范雎が言いました「廉頗は経験が豊富で(更事久)秦軍の強盛を理解しており、軽率に戦おうとはしません。秦兵の道が遠いので持久できないと判断し、我が軍を疲労させてその隙に乗じようとしているのです。彼が去らなければ趙を降すことはできません。」
秦王が問いました「卿には廉頗を去らせる計があるか?」
范雎は左右の人払いをしてから「廉頗を去らせるには、『反間の計』を使うべきです。このようにして、千金を費やさなければ成功しません」と言って計の説明をしました。
喜んだ秦王は千金を范雎に与えました。范雎は心腹の門客を間道から邯鄲に派遣し、千金を賄賂にして趙王の左右の者にこういう噂を流させました「趙将では馬服君(趙奢)が最良だった。しかしその子趙括の勇は父を越えているという。もし将になったら敵う者はいない。廉頗は年老いて臆病だ。連戦して全て敗れ、趙卒三四万を失った。しかも今、秦兵に逼迫されている。数日を経ずに投降するだろう。」
これ以前に、趙王は趙茄等が殺されて三城をたて続けに失ったと聞き、使者を長平に送って廉頗に出陣を促しました。しかし廉頗は「堅壁」の謀を主張して出撃を拒否します。趙王は廉頗が臆病になっているのではないかと疑いました。
そこに左右の近臣が噂しているのを聞きます。趙王は反間の言を真実だと思い、趙括を招いて問いました「卿はわしのために秦軍を撃てるか?」
趙括が答えました「秦が武安君(白起)を将にするのなら、臣も頭を使う必要があります(尚費臣籌画)。しかし王齕なら語るに足りません。」
趙王が問いました「それはなぜだ?」
趙括が言いました「武安君は度々秦軍の将となり、かつては韓魏を伊闕で破って二十四万を斬首し、その後、魏を攻めて大小六十一城を取りました。南では楚を攻めて鄢郢を攻略し、巫黔を定めました。また再び魏を攻めて芒卯を走らせ、十三万を斬首しました。更には韓を攻め、五城を落として五万を斬首し、趙将賈偃も斬って士卒二万人を河黄河に沈めました。戦えば必ず勝ち、攻めれば必ず攻略し、威名が広く知れ渡っているので、軍士は噂を聞いただけで必ず戦慄します。臣が営塁を構えて対峙したら、勝敗の可能性は半々でしょう。だから頭を使う必要があるのです。しかし王齕は秦将になったばかりで、廉頗の臆病につけいって深入りしただけです。もし臣に遭遇したら、秋葉が風に遇った時と同じで、掃いて捨てる必要もありません。」
趙王は喜んで趙括を上将に任命し、黄金彩帛を下賜しました。符節を持って廉頗と交代するように命じます。更に勁軍(精鋭)二十万を増員することにしました。
勁軍二十万の閲兵を終えた趙括は、車に金帛を積んで家に帰り、母に会いました。
母が言いました「汝の父は臨終の遺命で汝が趙将にならないように戒めました。今日、汝はなぜ辞退しなかったのですか?」
趙括が言いました「辞退したくなかったわけではありません。しかし朝廷中に括に勝る者がいないので、どうしようもないのです。」
すると母は趙王に上書しました「括はいたずらに父の書を読んだだけで通変を知らないので、将の才ではありません。どうか王は彼を派遣しないでください。」
趙王は母を招いて直接話を聞きました。母が言いました「括の父奢が将になった時は、いただいた賞賜は全て軍吏に与え、命を受けた日は軍中で宿泊して家事を問うことがなく、士卒と甘苦を共にしました。また、事がある度に広く衆に意見を求め、一人で決めようとはしませんでした。しかし括は一旦将になると東を向いて軍吏の朝拝を受けており(東を向いて座るのは尊貴な地位を示します)、朝拝に来た軍吏は畏れて仰ぎ見ようともしません。しかも下賜された金帛は全て私家に運んでいます。このような態度が将として相応しいはずがありません。括の父は臨終の際に妾(私)を戒めてこう言いました『括が将になったら必ず趙兵が敗れる。』妾はこの言を謹識(記憶して守ること)しているので、王が別に良将を選ぶことを願うのです。括を用いてはなりません。」
しかし趙王はこう言いました「寡人の意は既に決している。」
母が言いました「王が妾の言を聴かないのなら、もし兵が敗れても、妾の一家が連坐しないことを請います。」
趙王はこれに同意しました。
趙括が軍を率いて邯鄲を発ち、長平を目指して進軍します。
 
 
 
*『東周列国志』第九十八回その四に続きます。

第九十八回 秦王が魏斉を要求し、長平で白起が趙卒を坑す(四)