第百七回 荊軻が秦庭を騒がし、王翦が李信に代わる(中篇)
*今回は『東周列国志』第百七回中編です。
秦の法では、殿上で王に仕える群臣は尺寸の兵器も持ってはならず、郎中や宿衛の官は兵戈を持っていましたが、全て殿下に並んでおり、宣召(王の招き)がなければ勝手に入殿するわけにはいきませんでした。
秦王が佩している宝剣は「鹿盧」といい、長さが八尺もあります。剣を抜いて荊軻を撃とうとしましたが、剣が長すぎるため鞘に引っかかって抜けません。小内侍の趙高が急いで叫びました「大王はなぜ剣を背負って抜かないのですか!」
秦王は悟って剣を背の後ろに押しました。前が短くなって容易に剣が抜けます(原文「前辺便短容易抜出」。剣を背にまわして上に抜きながら鞘を下に落としたのだと思われます。「前が短くなる」というのは、恐らく、背にまわすと鞘が落ちる距離(後ろ。下)が長くなるという意味です)。
秦王の勇力は元々荊軻にも劣っていません。しかも匕首は一尺余しかないため近くのものしか刺せませんが、剣は長さが八尺もあるので遠くのものでも攻撃できます。剣を手にした秦王は胆を大きくし、前に進み出て荊軻を斬りました。荊軻は左股を斬られて、左側の銅柱の傍に倒れます。
荊軻は柱に寄りかかって笑い、秦王を向いてあぐらをかいて罵りました「汝は幸いだった。わしは曹沬の故事を真似して、汝を生かしたまま、汝が諸侯を侵して奪った地を還させようとしたが、測らずも成功できず、汝の幸(幸運)によって逃げられてしまった。これは天(天命)だろう。但し、汝は自国の強い力に頼って諸侯を吞併しているが、享国(国を享受すること。在位年数。または国の寿命)が長久であるはずがない。」
左右の者が争って群がり、荊軻を殺しました。
秦舞陽は殿下で荊軻が動いたのを見て前に進み出ようとしましたが、郎中等の衆人に撃殺されました。秦王政二十年の事です。
荊軻は長い間、燕の太子・丹によって何不自由なく養われ、ついに秦に入りましたが、惜しいことに一事も成せず、しかも自分の身を害しただけでなく、田光、樊於期、秦舞陽の三人も巻き添えにしてその性命を害し、後に燕丹父子の生命も断つことになりました。
秦王は目が眩んで心が落ち着かず、長い間坐って呆然としていました。神色(精神と顔色)がやっと少しずつ落ち着き始めます。
秦王が倒れている荊軻を見ると、荊軻の両目は丸く開かれており、まるで生きているかのように怒気を放っていました。恐れた秦王は荊軻と秦舞陽の死体と樊於期の首を運び出させ、全て市中で焼き捨てるように命じました。燕国の従者は皆首を斬られて数か所の国門に懸けられます。
秦王は車を準備して内宮に帰りました。宮中の后妃が異変を聞いて問安(安否を訊ねること)のために集まります。秦王は人心を落ち着かせて祝賀するために酒宴を開きました。
胡姫という女がいました。元は趙王の宮人でしたが、秦王が趙を破ってから選ばれて秦の後宮に入りました。琴を得意としたため寵愛を受けて妃の位に列しています。
秦王は憂鬱を解くため、胡姫に琴を弾かせました。
胡姫が琴を奏でて歌いました「羅縠の単衣は裂いて破ることができます。八尺の屏風は跳んで超えることができます。鹿盧の剣は背負って抜くことができます。凶狡な彼を笑いましょう。身を亡くして国を滅ぼしました(羅縠単衣兮可裂而絶,八尺屏風兮可超而越,鹿盧之剣兮可負而抜,嗤彼凶狡兮身亡国滅)。」
秦王は胡姫の機転を愛して繒綺(絹織物)を一篋(一箱)下賜し、その夜は胡姫の宮に泊まって歓びを尽くしました。これがきっかけで、後に胡姫は子を生みます。その子を胡亥といい、秦の二世皇帝となります。
翌朝、秦王が朝廷で論功行賞を行いました。首功は夏無且で、黄金二百鎰が下賜されます。秦王が言いました「無且はわしを愛している。薬囊を荊軻に投げつけた。」
次に小内侍・趙高を呼んでこう言いました「『剣を背負って抜け』というのは、汝がわしに教えたことだ。」
趙高には黄金百鎰が下賜されます。
殿下の郎中等で秦舞陽を撃殺した者にも賞賜が与えられます。
但し、蒙驁はこれ以前に病死しており、その子・蒙武は裨将となっていましたが、この一件に関与していなかったため、特別に赦されました(蒙嘉は蒙驁の一族のようですが、具体的な関係はわかりません)。
燕の太子・丹も憤りを抑えられず、兵を総動員して易水の西で迎撃します。しかし燕軍が大敗し、夏扶も宋意も戦死しました。太子・丹は薊城に奔り、鞠武は殺されます。
王翦は王賁の兵と合流して薊を包囲し、十月に城を落としました。
燕王・喜が太子・丹に言いました「今日、国が破れて家が亡ぶことになったのは、全て汝のせいだ。」
太子・丹が言いました「韓と趙の滅亡も丹(私)に罪があるのですか(私が動かなくても秦は攻めてきたはずです)。今、城中の精兵はまだ二万もいます。遼東は山を背にして河が前を阻んでいるので、固守するには足ります。父王は速やかに遼東に行くべきです。」
燕王・喜はやむなく車に乗って東門から出て行きました。
太子・丹も全ての精兵を指揮して自ら後ろを断ち、燕王を守って東行します。
燕王は遼東まで退いて守りを堅め、平壤を都にしました。
秦王は「太子・丹の仇を寡人は忘れられない。しかし王翦は確かに老している(疲労している。または、年老いている)」と言って将軍・李信を派遣し、王翦の代わりに兵を指揮させました。李信が燕王父子を追撃します。
王翦は咸陽に呼び戻されて厚い賞賜が与えられました。
王翦は病を理由に朝廷を退き、頻陽で隠居しました。
燕王は李信の兵が来たと聞き、使者を代王・嘉に送って援軍を求めました。代王・嘉は燕王に書を送ってこう答えました「秦が激しく燕を攻めるのは、太子・丹を怨んでいるからです。王が丹を殺して秦に謝ることができれば、秦の怒りは必ず解けて、燕の社稷も血食(祭祀)を得られます。」
李信は首山に駐軍し、使者に書を持たせて燕に送りました。使者が太子・丹の罪を読み上げると、燕王・喜は大いに懼れ、計を練ると偽って太子・丹を誘い出し、酒に酔わせて縊殺してからその首を斬りました。
燕王・喜は太子を殺してから慟哭しました。すると、夏五月なのに突然、天が大雪を降らせ、平地に二尺五寸も積もりました。厳冬のような寒冷が襲います。人々は太子・丹の怨気によるものだと噂しました。
燕王は太子・丹の首を函(箱)に入れ、謝罪の書と一緒に李信の軍中に送りました。
李信はすぐ秦王に使者を送ってこう報告しました「五月なのに大雪が降り、軍人が寒冷に苦しんで病も多発しています。暫く班師(撤兵)する許可を請います。」
秦王が尉繚に意見を求めると、尉繚はこう言いました「燕は遼に棲んでおり、趙は代に棲んでいます。これは游魂(浮遊した魂)と同じなので、間もなく自ら四散します。今日の計はまず魏を下し、次に荊楚に及ぶべきです。二国を平定できたら、燕も代も労することなく下せます。」
秦王は「善し」と言って詔を発し、李信に撤兵を命じました。
代わりに王賁を大将に任命し、十万の兵を率いて函谷関から魏を攻撃させました。
*『東周列国志』第百七回後編に続きます。