第百七回 荊軻が秦庭を騒がし、王翦が李信に代わる(後篇)

*今回は『東周列国志』第百七回後編です。
 
当時の魏では景湣王が既に死に、太子・假が即位して三年が経っていました。
秦が燕を攻めた時から、魏王・假は大梁の城を増築しており、内外に深い溝(濠)を巡らせて守備を固めていました。また、斉と結ぶために使者を送って斉王に利害を説き、こう伝えました「魏と斉は唇歯の関係にある国です。唇が亡べば歯が寒くなります。魏が亡べば禍は必ず斉に及びます。同心協力し、互いに救援することを願います。」
斉では君王后が死んでから弟の后勝が相国として政治を行っていました。后勝は今まで秦から大量の黄金を受け取っていたため、斉王に力説して言いました「秦が斉を裏切ることはありません。今もし魏と合従したら、逆に必ず秦の怒りに触れることになります。」
斉王・建はこの言葉に惑わされて魏の申し出を断りました。
 
王賁は連戦連勝して大梁を包囲しました。
ちょうど雨が続いたため、王賁は油(油を塗った幕が張られた車)に乗って川の流れを調べました。その結果、黄河が城の西北に流れており、汴河も栄陽を水源にして城西を経由していると知りました。王賁は軍士に命じて城の西北に渠(水路)を築かせ、二河の水を引き入れることにしました。但し、渠の下流に隄(堤)を造って水を溜めます。
軍士は雨の中で作業を続け、王賁が自ら蓋(傘)を持って監督しました。
渠が完成してからも雨は十日に渡って降り続け、水かさが膨張しました。そこで王賁は隄を決壊させて大梁城の溝(濠)に水を流しました。城内外の溝から水が溢れ、城内が浸水します。三日間で数か所が崩壊しました(原文「頽壊者数処」。恐らく城壁の数か所が倒壊したという意味です)
その隙に乗じて秦兵が城に入ります。
魏王・假は群臣と協議して降表を書こうとした時に、王賁に捕えられました。囚車に載せられて宮属と一緒に咸陽に送られましたが、途中で病死します。
王賁は魏の地をことごとく占領して三川郡を置きました。また、野王の地を収めて衛君・角を庶人に落としました。
魏は晋献公の世に畢万が封を受けて始まりました。畢万が芒季を生み、芒季が武子・犨を生み、魏犨が晋文公の覇業を援けました。魏犨から四代後に桓子・侈に至り、范氏、中行氏、智氏を滅ぼしました。魏侈は文侯・斯を生み、韓・趙と共に晋国を三分しました。そこから七代継承して王假に至り、国が滅びました。前後二百年になります。
これは秦王政二十二年の事です。
 
 
この年、秦王が尉繚の策を用いて再び楚討伐を謀りました。秦王が李信に問いました「将軍は伐楚の役でどれくらいの兵を用いれば足りると思うか?」
李信が言いました「二十万人を越えることはありません。」
秦王は老将・王翦も招いて同じ質問をしました。王翦が言いました「信は二十万人で楚を攻めれば必ず勝てると考えていますが、臣の愚見によるなら、六十万人いなければ勝てません。」
秦王は「老人とは臆病になるものだ。李将軍の壮勇には敵わない」と考え、王翦を用いず李信を大将に任命しました。蒙武を副将とし、兵二十万を与えて楚を討伐させます。
 
李信は平輿を攻め、蒙武は寝邱を攻めました。
若くて驍勇(勇猛)な李信は一鼓して平輿城を攻略し、更に西進して申城も落とします。そこで使者に書を持たせて蒙武に送り、城父で合流するように約束しました。兵を合わせて邾城を攻めるつもりです。
 
楚国では李園が春申君・黄歇を殺して幽王・捍を立てました。捍は黄歇と李氏の間にできた子です。
幽王は即位して十年で死に、子がいませんでした。この時、李園も既に死んでいます。群臣は宗人の公子・猶を擁立しました。これを哀王といいます。ところが哀王が即位して二カ月で庶兄の負芻が哀王を襲って殺し、自立して王になりました。
負芻が即位して三年目に秦兵が楚地の奥深くまで進攻してきました。負芻は項燕を大将に任命し、兵二十余万を率いて水陸から並進させます。
項燕は李信の兵が申城を出たと聞き、自ら大軍を率いて西陵で迎え撃ちました。副将・屈定に命じて魯台山周辺の七カ所に埋伏させます。
李信が勇に頼って前進し、項燕に遭遇しました。双方が衝突して激しい戦いを繰りひろげている時、七路の伏兵が一斉に現れます。李信は抵抗できず、大敗して逃走しました。
項燕は三日三晩休まず追撃して都尉七人を殺しました。秦の軍士で死んだ者は数え切れません。
李信は残兵を率いて冥阨まで退き、守りを固めましたが、項燕に攻められてまた破れました。李信は城を棄てて遁走します。
項燕は平輿まで追って故地を全て回復しました。
蒙武はまだ城父に入る前でしたが、李信の敗戦を聞いて趙界まで退き、使者を咸陽に送って急を告げました。
 
敗報を聞いた秦王は激怒して李信の官邑を全て削り、自ら車に乗って頻陽の王翦を訪ねました。
秦王が言いました「将軍は李信が二十万人で楚を攻めても必ず敗れると予想した。果たして、今回本当に秦軍を辱めることになってしまった。将軍は病を患っているが、寡人のために無理にでも立ち上がり、兵を指揮して一行してくれないか?」
王翦は再拝して謝り、こう言いました「老臣は罷病悖乱疲労と疾病に苦しみ、精神を安定できないこと)しており、心力ともに衰えました。大王は別に賢将を選んで任命してください。」
秦王が言いました「今回の出征は将軍でなければならない。将軍は辞退しないでくれ。」
王翦が言いました「大王がどうしても臣を用いるというのなら、六十万人でなければなりません。」
秦王が言いました「古の大国は三軍、次国は二軍、小国は一軍を擁したが、軍を全て動員しなくても不足することはなかったと聞いている。五霸の威は諸侯を凌いだが、彼等の軍制でも国の兵は千乗を越えなかった。一乗を七十五人としたら、十万の兵数にも及ばない。今回、将軍は必ず六十万を用いると言っているが、今まで前例がないことだ。」
王翦が言いました「古は決戦の日を約束して陣を構え、陣を背にして戦い、歩伐(行軍。行動)に常法(規律)がありました。武をもたらしても重ねて傷つけず(負傷した者を更に攻撃することはなく)、相手の罪を宣言しても領地を兼併することはなく、干戈(戦)の中にいても礼讓の意があったのです。だから帝王の用兵は衆(多数)を用いることがなく、斉恒公が内政を整えて得た勝兵(戦力になる兵)も三万人を越えず、しかも交代で用いたのです(一度に全軍を動員することはありませんでした)。しかし今は列国の兵が争い、強者が弱者を虐げ、衆(多数)が寡(少数)に暴を加え、人に遇ったら殺し、地に遇ったら攻略し、首級の報告はしばしば数万に及び、城を包囲すればしばしば数年にも及びます。農夫も皆、戈刃を操り、童稚も冊籍(兵の名簿)に載せられているので、これは当然の形勢です。たとえ少数の兵だけを用いたいと思っても実現できません。それに、楚国は東南の広大な地を占めており、一度号令を出したら百万の衆がそろいます。臣は六十万と言いましたが、それでもまだ対等な戦いができないことを恐れています。どうしてこれ以上減らせるのでしょう。」
秦王が嘆息して言いました「将軍のように軍において豊富な経験が無かったら(老於兵)、ここまで見通すことはできないだろう。寡人は将軍の意見に従おう。」
秦王は後車に王翦を乗せて入朝し、即日、大将に任命して六十万の兵を授けました。今まで通り蒙武が副将になります。
 
出発に臨んで秦王が自ら壩上まで送り、餞別の宴を開きました。
王翦が巵(杯)を持って秦王のために寿を祝い、こう言いました「大王がこの一杯を飲んでから、臣には請願することがあります。」
秦王が一息で飲み干して問いました「将軍は何を言いたいのだ?」
王翦は袖の中から一巻の書簡を出しました。開いて見ると咸陽にある数カ所の美田・美宅が書かれています。王翦が秦王に言いました「これらを臣の家に与えることに同意してください。」
秦王が問いました「将軍が功を成して帰ってきたら、寡人は将軍と富貴を共にするつもりだ。なぜ貧困を憂いるのだ?」
王翦が言いました「臣は老いました。たとえ大王が封侯によって臣を労っても、風中の蝋燭と同じです。光はいつまで輝いていられるでしょう。それよりも、臣の目が及ぶうちに多数の美田・美宅を与えられて、子孫の業にしたいのです。そうすれば世世(代々)大王の恩を受けることができます。」
秦王は大笑いして同意しました。
王翦は函谷関に至ってからもまた使者を送って数か所の園池を求めました。
蒙武が王翦に言いました「老将軍の請乞(請願)は多すぎませんか?」
王翦が秘かに言いました「秦王は性が強厲(剛強・残虐)で疑い深い。今回、精甲六十万をわしに授けたが、これは国を空にしてわしに託したのだ。わしが子孫の業のために何回も田宅や園池を求めるのは、秦王の心を安んじるためである(褒賞が目的であるという姿を見せれば、大軍を率いても謀反を疑われることはない)。」
蒙武が言いました「私は老将軍の高見に及びません。」
王翦の楚討伐はどうなるか、続きは次回です。

第百八回 六国を兼併して輿図を統一し、始皇を号して郡県を建立する(前篇)