秦楚時代3 秦始皇帝(三) 封禅 前220~219年

今回は秦始皇帝二十七年と二十八年です。
 
始皇帝二十七年
220年 辛巳
 
[] 『史記秦始皇本紀』と『資治通鑑』からです。
始皇帝が隴西、北地を巡遊し、雞頭山に至って還る途中、回中(回中宮を通りました。
 
[] 『史記秦始皇本紀』と『資治通鑑』からです。
信宮を渭水南に築きましたが、完成してから極廟に改名しました。極廟というのは天極中宮天極星)を模した宮廟だったからです。
極廟から驪山(酈山)に道を通し、甘泉宮(別名、雲陽宮。林光宮)前殿を築きました。甬道(屋根がある通路)によって咸陽に繋げられます。
更に咸陽から天下に馳道(天子が車馬を駆けさせる道。大通り)を造りました。
資治通鑑』胡三省注によると、馳道は天下各地に及び、東は燕斉、南は呉楚に至り、江湖や海に臨みました。道幅は五十歩もあり、金属の椎(槌)で打ち固められた道の両側には青松が植えられました。
 
史記・六国年表』は翌年始皇帝二十八年)に「馳道を治める」「太極廟を為す(造る)」と書いています。
 
[] 『史記秦始皇本紀』によると、この年、全国民に爵一級を下賜しました。
史記・六国年表』をみると翌年に「賜戸三十爵一級(三十戸に爵位一級を下賜する)」という記述があります。
 
 
 
始皇帝二十八年
219年 壬午
 
[] 始皇帝が東部の郡県を巡行し、鄒県の嶧山に登りました。そこで石碑を立てて功業を讃頌します。
始皇帝は魯の儒生七十人を集めて泰山(岱宗)の下に至り、封禅について議論させました。
封禅というのは泰山で天を祀る「封」と、梁父(地名)で地を祀る「禅」からなり、優れた功徳を持つ帝王が行う儀式とされていました。
諸儒の中である者が言いました「古の封禅は蒲草で車輪を覆いました。山の土石や草木を痛めることを嫌ったからです。また、地を掃いて祭を行い、席には葅稭(茅や藁で編んだ物)が使われました。」
諸儒はそれぞれ異なる意見を述べました。始皇帝はこれらの意見を採用するのが困難だと考え、儒生を退けることにしました。
始皇帝は車道を開いて太山(泰山)の陽(南)から頂上に登り、石碑を立てて徳を称賛しました。
その後、陰道(山北の道)から下りて梁父で禅の儀式を行いました。
封禅の儀礼は雍城で太祝が上帝を祀る時と同じ儀礼が使われましたが、詳しい内容は全て封藏されたため、記録が残されませんでした。
 
以上は『資治通鑑』の記述です。『史記秦始皇本紀』は若干異なります。
始皇帝が東部の郡県を巡行し、鄒県の嶧山に登って石碑を立てました。魯の諸儒生と討議して秦の徳を讃頌する文書を刻みます(あるいは、儒生と議論したのは下述する泰山の石碑の内容かもしれません)。また、封禅して山川を望祭(山川を望んで行う祭祀)する事を議論しました。
その後、泰山に登りました。『正義』によると泰山は岱宗ともいい、東嶽に当たります。
泰山に石碑を立ててから封(土を盛ること)を行い、祠祀(祭祀)を行いました(これが封の儀式です)
山を下りる時、暴風雨に襲われたため、樹の下で休みました。始皇帝はこの樹を五大夫に封じました。
 
この部分は『史記封禅書』では異なる内容になっています。
始皇帝が泰山に登る時、坂の途中で暴風雨に遭ったため、大樹の下で休んだ。諸儒生は始皇帝に退けられて封事の礼に参加できなかったため、始皇帝が風雨に遭ったと聞いて譏(誹謗嘲笑)した。」
始皇帝儒者を退けたことは『封禅書』に書かれており、『資治通鑑』も採用していますが、『秦始皇本紀』にはありません。また、『秦始皇本紀』では泰山を下りる時に暴風雨に遭っていますが、『封禅書』では山に登る時の事となっています。
 
『秦始皇本紀』にもどります。
梁父で禅(祭祀を行う地の草木を除いて平に整えること。以前は「墠」と書きました)を行い、祭祀をしてその地に立っていた石に文章を刻みました(これが禅の儀式です)
文章の内容はこうです(訳は省略します)
「皇帝臨位,作制明法,臣下脩飭。
廿有六年,初并天下,罔不賓服。
親巡遠方黎民,登茲泰山,周覧東極。
従臣思迹,本原事業,祗誦功徳。
治道運行,諸産得宜,皆有法式。
大義休明,垂于後世,順承勿革。
皇帝躬聖,既平天下,不懈於治。
夙興夜寐,建設長利,専隆教誨
訓経宣達,遠近畢理,咸承聖志。
貴賎分明,男女礼順,慎遵職事。
昭隔内外,靡不清浄,施于後嗣。
化及無窮,遵奉遺詔,永承重戒。
 
[] 『資治通鑑』からです。
始皇帝は東に向かって海上で遊行し、名山や大川、八神の礼祀(祭祀)を行いました。
資治通鑑』胡三省注に八神の説明があります。一つめは「天主」で天斉淵(泉の名)の水を祀りました。二つめは「地主」で太山(泰山)と梁父を祀りました。三つめは「兵主」で蚩尤(軍神)を祀りました。四つめは「陰主」で三山(『漢書郊祀志上(卷二十五上)』の注によると下述する「三神山」。蓬萊、方丈、瀛洲。『史記封禅書(巻二十八)』の注では海上の三神山ではなく「参山」)を祀りました。五つめは「陽主」で之罘山を祀りました。六つめは「月主」で之莱山を祀りました。七つめは「日主」で成山を祀りました。八つめは「四時主」で琅邪を祀りました。
八神は斉国において太公呂尚以来祀られていたともいいます。
 
始皇帝は南の琅邪(山)に登って大いに楽しみ、三か月間逗留しました。琅邪台が造られます。ここでも石碑を立てて徳を称賛し、始皇帝が意(天意)を得たことを明らかにしました。
 
以上、始皇帝の東行について、『秦始皇本紀』から少し詳しく書きます。
封禅を終えた始皇帝勃海に沿って東に向かい、黄県、(または「陲」)を越えて成山の頂上に至り、之罘(山)に登りました。石碑を立てて秦の徳を讃頌してから去ります。
南に向かって琅邪に登り、大いに楽しんで三カ月間逗留しました。
黔首(民)三万戸を琅邪台(越王句践が建てたとされる台)の下に遷して十二年間の賦税徭役を免除しました。
琅邪台が改めて修築されました。
その後、石碑に文書を刻んで秦の徳を讃頌し、始皇帝が意を得たことを明らかにしました。文書の内容はこうです(訳は省略します)
「維二十八年,皇帝作始。端平法度,万物之紀。
以明人事,合同父子。聖智仁義,顕白道理。
東撫東土,以省卒士。事已大畢,乃臨于海。
皇帝之功,勤労本事。上農除末,黔首是富。
普天之下,摶心揖志。器械一量,同書文字。
日月所照,舟輿所載。皆終其命,莫不得意。
応時動事,是維皇帝。匡飭異俗,陵水経地。
憂恤黔首,朝夕不懈。除疑定法,咸知所辟。
方伯分職,諸治経易。挙錯必当,莫不如画。
皇帝之明,臨察四方。尊卑貴賎,不踰次行。
姦邪不容,皆務貞良。細大尽力,莫敢怠荒。
遠邇辟隠,専務粛荘。端直敦忠,事業有常。
皇帝之徳,存定四極。誅乱除害,興利致福。
節事以時,諸産繁殖。黔首安寧,不用兵革。
六親相保,終無宼賊。驩欣奉教,尽知法式。
六合之内,皇帝之土。西渉流沙,南尽北戸。
東有東海,北過大夏。人迹所至,無不臣者。
功蓋五帝,沢及牛馬。莫不受徳,各安其宇。
維秦王兼有天下,立名為皇帝,乃撫東土,至于琅邪。
列侯武城侯王離、列侯通武侯王賁、倫侯建成侯趙亥、倫侯昌武侯成、倫侯武信侯馮毋擇、丞相隗林、丞相王綰、卿李斯、卿王戊、五大夫趙嬰、五大夫楊樛従,與議於海上。曰「古之帝者,地不過千里,諸侯各守其封域,或朝或否,相侵暴乱,残伐不止,猶刻金石,以自為紀。古之五帝三王,知教不同,法度不明,假威鬼神,以欺遠方,実不称名,故不久長。其身未歿,諸侯倍叛,法令不行。今皇帝并一海内,以為郡県,天下和平。昭明宗廟,体道行徳,尊号大成。群臣相與誦皇帝功徳,刻于金石,以為表経。
 
文中の武城侯王離、通武侯王賁、建成侯趙亥、昌武侯成、武信侯馮毋擇、丞相隗林、丞相王綰、卿李斯、卿王戊、五大夫趙嬰、五大夫楊樛の十一人は始皇帝に従って功徳を議したので、石碑に名を連ねられました。
「倫侯」というのは列侯に次ぐ爵位で封邑がありません。
 
[] 『秦始皇本紀』と『資治通鑑』からです。
かつて燕人の宋毋忌、羨門子高といった徒が仙道や形解銷化の術(屍を残して成仙する術。形解は尸解ともいい、肉体を残して仙人になること。銷化もほぼ同じ意味)を得たと称しました。
燕や斉の地では、迂怪(神怪)の士が争って二人の仙術を学び、互いに伝授するようになりました。
斉威王、宣王や燕昭王は彼等の言を信じ、人を海に送って蓬萊、方丈、瀛洲を探させました。この三神山は勃海の中にあり、人の世とはあまり遠く離れていません。しかし三神山に近づこうとすると風が吹いて船をおい払いました。
かつて三山に至った者がおり、諸仙人や不死の薬が存在したのを目撃したといわれています。
 
始皇帝海上で巡遊した時、斉人の徐巿といった方士達が次々に上書して三神山について述べました。
資治通鑑』胡三省注によると、嬴姓で分封された者に徐氏があります。皋陶の子伯益が禹を補佐して功を立てたため、その子若木が徐に封じられました。その子孫が国名の徐を氏にしました。
 
巿は斎戒してから童男童女を率いて三神山を探す許可を求めました。
始皇帝がこれに同意したため、徐巿は童男童女数千人を率いて海に入りました。しかし船が海に出てから大風に遭って離散したため、徐巿は引き還して「到達することはできませんでしたが、遥か遠くから眺め見ることはできました」と報告しました。
 
巿は秦始皇帝三十七年(前210年)に再登場します。また、『史記淮南衡山列伝(巻百十八)』でも平原広沢という場所に行ったと書かれていますが、「徐巿」ではなく「徐福」という名になっています。
 
[] 『秦始皇本紀』と『資治通鑑』からです。
始皇帝は帰還の途中で彭城を通りました。
そこで斎戒禱祠(祭祀)し、泗水に沈んだといわれている周鼎を得ようとしました(東周顕王四十二年327年参照)
始皇帝は鼎を探すために千人を水中に潜らせましたが、見つかりませんでした。
 
始皇帝は西南に向かって淮水を渡り、衡山、南郡に向かいました。
長江を舟で進んで湘山に至り祭祀を行いましたが、大風に遭って渡れなくなりました。
始皇帝が博士に問いました「湘君とは何の神だ?」
博士というのは儒学の官で、古今の事物に精通しています。
博士が答えました「聞くところによると、堯の女で舜の妻です。ここに葬られているそうです。」
舜は蒼梧(地名)で死に、舜の二妃は長江と湘水の間で死んでその地に埋葬されました。
博士の答えを聞いた始皇帝は激怒し、刑徒三千人を派遣して湘山の樹木を全て伐り倒させました。湘山の地が剥き出しになって赤くなります。
始皇帝は南郡から武関を経由して咸陽に帰りました。
 
[] 『史記・六国年表』は本年(秦始皇帝二十八年)に「阿房宮を為す(築く)」と書いていますが、『秦始皇本紀』では始皇帝三十五年に阿房宮の建築について書いています。
また、『六国年表』は本年に「馳道を治める」「太極廟を為す(造る)」と書いていますが、どちらも前年に書きました。
『六国年表』には本年に「賜戸三十爵一級(三十戸に爵位一級を下賜する)」という記述もあります。『秦始皇本紀』には前年に「全国民に爵一級を下賜した」とあります。
 
 
 
次回に続きます。