秦楚時代10 秦二世皇帝(一) 粛清 前209年(1)

今回から秦二世皇帝の時代です。『史記秦始皇本紀』『項羽本紀』『高祖本紀』と『資治通鑑』を主要な史料とします。
 
秦二世皇帝
秦二世皇帝は名を胡亥といい、始皇帝の少子です。『史記高祖本紀』の注釈(索隠)によると、趙高は二世皇帝のために十七人の兄を殺しました。胡亥は始皇帝の第十八子になります。
 
まずは秦二世皇帝元年です。五回に分けます。
 
秦二世皇帝元年
209年 壬辰
史記秦始皇本紀』によると二世皇帝が即位した時の年齢は二十一歳ですが、『秦始皇本紀』の後ろに付記された秦史では十二歳となっています。
 
[] 『史記六国年表』と『資治通鑑』からです。
冬十月(歳首)戊寅(初十日)、罪人に対して大赦しました。
 
[] 『史記・秦始皇本紀』からです。
趙高を郎中令に任命し、政治を任せました。『集解』によると郎中令は秦の官で、宮殿の門戸を掌握します。
 
[] 『史記・六国年表』の記述です。
十一月、兔園を築きました。
 
[] 『秦始皇本紀』からです。
二世皇帝が詔を下しました。始皇帝の寝廟における犧牲と山川百祀の礼を増やすため、群臣に始皇廟を尊崇する方法を議論させます。
群臣が皆頓首して言いました「古は天子に七廟、諸侯に五廟、大夫に三廟があり、万世経っても軼毀(破毀)しないものでした。今、始皇には極廟があり、四海の内(天下)が皆貢職(貢物)を献上しています。既に犧牲を増やしており、礼が完備しているので、これ以上加えることはできません。先王廟はあるいは西雍(『正義』によると咸陽西の地名。または雍西県)にあり、あるいは咸陽にあります。天子の儀によるなら、自ら酌(杯)を奉じて始皇廟を祀るべきです。また、襄公以下(襄公は含まないようです)の廟を軼毀して七廟だけを置き、群臣が礼によって祠を進めることで始皇廟を帝(秦の皇帝)の祖廟として尊ぶべきです(七廟には襄公廟と始皇帝廟が含まれます。始皇帝は祖廟に置かれるので太祖、襄公は恐らく始祖になります。他の五廟はわかりません)。皇帝(二世皇帝)は今後も始皇帝と同じく)『朕』と称するべきです。
 
[] 『秦始皇本紀』と『資治通鑑』からです。
二世皇帝が趙高と謀って言いました「朕は年が少なく(若く)、即位したばかりなので、黔首(民)がまだ帰心していない。先帝は郡県を巡行して強盛を示し、海内を威服させた。今、晏然(安定。何もしない様子)としたまま巡行しなかったら軟弱を示すことになる。これでは天下を臣畜(家畜のように服従させること)できない。
 
春、二世皇帝が東部の郡県を巡行し、李斯が従いました。
碣石に至ってから海に沿って南下し、会稽に入ります。そこで始皇帝が立てた石碑に文字を刻みました。従っていた大臣の名も石碑の傍に残して先帝の成功盛徳を明らかにします。
刻文の内容はこうです。
「皇帝(二世皇帝)が言った『金石刻辞は全て始皇帝が為した。今、(二世が)皇帝の号を継承したが金石刻辞は始皇帝と称していない始皇帝が彫刻した時も「皇帝」と書きました。秦始皇帝三十七年210年参照)。久遠の時(長い時が経ってから)、後嗣が為した物と変わりがなくなってしまい、始皇帝の)成功盛徳を称すことができなくなる。』丞相臣(李斯)、臣去疾(馮去疾)御史大夫徳が死を冒して言った『詔書(二世皇帝の言葉)を全て石碑に刻み、明確にさせてください。死を冒して請います。』(二世皇帝が)制して言った『可』(原文「皇帝曰金石刻尽始皇帝所為也。今襲号而金石刻辞称。始皇帝,其於久遠也,如後嗣為之者,不称成功盛徳。」丞相臣斯、臣去疾、御史大夫臣徳昧死言『臣請具刻詔書刻石,因明白矣。臣昧死請。』制曰『可』)。」
こうして始皇帝が立てた石碑と二世皇帝以降の石碑が後世になっても区別できるようにしました。
 
二世皇帝は遼東に至ってから帰路に就きました。
 
[] 『秦始皇本紀』からです。
二世皇帝は趙高の意見を採用して法令を明らかにしました。
二世皇帝が趙高と謀って言いました「大臣が服さず官吏の勢力も強いから、諸公子が必ずわしと争うだろう。どうすればいい?」
趙高が言いました「臣もその事についてかねてから話したいと思っていましたが、話せませんでした。先帝の大臣は皆、天下における累世(代々)の名貴人であり、積功労世(代々の功績)が久しく継承されています。高(私)は元々小賎でしたが、陛下の幸によって抜擢され、上位に置かれて宮中の事を主管するようになりました。これに対して大臣は鞅鞅(不満な様子)としており、表面上は臣に従っていますが心中は不服です。今回、上(陛下)は外出されました。この機会に郡県の守尉で疑いない罪がある者を追及し、誅殺するべきです。上は天下に威を振るわせ、下は上(陛下)が生平(日頃から)不可とする者を除くことができます。今は文を標榜するのではなく武力によって決断する時です。陛下が時に従って躊躇しないことを願います。そうすれば群臣は謀を及ぼす暇もなくなります。明主は余民(遺民。亡国の民)を収容し、賎者を貴くさせ、貧者を富ませ、遠い者を近くするものです。その結果、上下が集まって国が安定します。」
二世皇帝は「善し」と言って同意しました。
趙高の進言がきっかけで大臣や諸公子の誅殺が始まりました。罪過に連座して近侍の臣や三郎といった小官にまで刑が及び、一度目をつけられたら誰も助かりませんでした。
「三郎」は『索隠』によると中郎、外郎、散郎を指します。『正義』は議郎、中郎、散郎、または郎中、車郎、戸郎という説を紹介しています。
 
六公子が杜で死刑に処され、公子将閭の兄弟三人も内宮に繋がれました。三人は囚われたまま最後まで判決が残されます。
二世皇帝が使者を送って将閭にこう伝えました「公子は不臣であり、罪は死に値する。吏(官吏)が法を執行するであろう。
将閭が言いました「闕廷(宮廷)の礼において、私は賓賛典礼儀式を掌る官)に従わなかったことはなく、廊廟の位において、私は節を失ったことがなく、命を受けて応対する際にも、私は辞を失ったことがない(失言したことがない)。それなにのなぜ不臣だというのだ?罪を聞いてから死なせてほしい。
使者が言いました「臣が相談に乗ることはできません。書詔書を奉じて事を行うだけです。」
将閭は空を仰いで「天」と三回叫び、「私は無罪だ!」と言いました。
兄弟三人が涙を流し、剣を抜いて自殺します。
この事件は宗室を震撼させました。
 
二世皇帝は群臣で諫言する者は全て誹謗とみなしました。大吏(大官。大臣)は俸禄を得るために阿諛追従するようになります。
黔首(民)も二世皇帝の政治に恐慌しました。
 
以上の内容は『秦始皇本紀』を元にしました。巡行中の出来事となっています。しかし『資治通鑑』は『史記李斯列伝(巻八十七)』を元にしており、咸陽に帰還後の事としています(再述します)
 
以下、『資治通鑑』からです。一部上述の内容と重なります。
夏四月、二世皇帝が咸陽に到着しました。
二世皇帝が趙高に言いました「人生が世間にあるのは、六驥(六頭の駿馬)を駆けさせて決隙(隙間)を越えるのと同じだ。わしは既に天下に君臨した。耳目が好む事をことごとく享受し、心志が楽しむことを極め尽くして我が年寿(寿命)を終えたいと思うが如何だ?」
趙高が言いました「それは賢主ができることであり、昏乱の主が禁じることです。とはいえ、まだそうできない事情がいくつかあります。それを臣に説明させてください。沙丘の謀扶蘇を廃して胡亥を擁立した陰謀)は諸公子と大臣が皆疑いを抱いています。しかも諸公子は全て帝の兄であり、大臣も先帝が置いた者ばかりです。今、陛下は即位したばかりで、彼等の属意(意向)は怏怏として(不満な様子)皆不服なので、変事が起きる恐れがあります。臣は戦戦栗栗(戦戦兢兢)としており、良い終わりを得られないのではないかと恐れています。陛下はどうしてそのような楽(享楽)を得られるでしょう。
二世皇帝が問いました「それではどうすればいい?」
趙高が言いました「陛下は厳法と刻刑(苛酷な刑罰)を用い、罪がある者には連座させ、大臣や宗室を誅滅するべきです。その後、遺民を集めて抜擢し、貧者を富ませ、賎者を貴くさせます。先帝の故臣(旧臣)を全て除いて陛下が親信する者に置き換えれば、陰徳(秘かに抱く恩徳)が陛下に帰し、害を除いて姦謀を塞ぐことができ、群臣においては潤沢厚徳(厚い恩徳)を蒙らない者はいなくなり、陛下は枕を高くし、志をほしいままにして享楽を得られます(肆志寵楽)。これ以上の計はありません。」
二世皇帝は納得してすぐに法律を改めました。ますます苛酷で厳しくなります。大臣や諸公子で罪を犯した者は全て趙高の鞠治(審問処罰)を受けました。
こうして公子十二人が咸陽市で僇死し(殺戮され)、十公主が杜(県)(体を裂く死刑)に処せられました。財物は全て県官に入ります。連座して捕まった者も数え切れないほどいました。
資治通鑑』胡三省注によると、漢代は天子を「県官」と呼びました。秦代は郡県とも中央に属します。ここでいう県官は「公家(皇族。国家)」を意味するようです。
 
公子将閭の兄弟三人が内宮に捕えられましたが、刑が定まらず最後まで判決が残されました(上述の内容です)
二世皇帝が使者を送って将閭にこう伝えました「公子は不臣であり、罪は死に値する。吏(官吏)が法を執行するであろう。」
将閭が言いました「闕廷(宮廷)の礼において、私は賓賛典礼儀式を掌る官)に従わなかったことがなく、廊廟の位において、私は節を失ったことがなく、命を受けて応対する際には、私は辞を失ったことがない(失言したことがない)。それなにのなぜ不臣だというのだ?罪を聞いてから死なせてほしい。」
使者が言いました「臣が相談に乗ることはできません。書詔書を奉じて事を行うだけです。」
将閭は空を仰いで「天」と三回叫び、「私は無罪だ!」と言いました。
兄弟三人は涙を流し、剣を抜いて自殺します。
この事件は宗室を震撼させました。
 
公子高が出奔しようとしましたが、家族が逮捕されるのを恐れたためこう上書しました「先帝が無恙(変わりがない。存命)の時、臣は宮門に入ったら食を賜り、出たら輿に乗り、御府(内府)の衣も臣が賜り、中厩の宝馬も臣が賜りました。臣は(先帝の)死に従うべきでしたがそれができず、人の子として不孝であり、人の臣として不忠でした。不孝不忠の者は世に立つ名がありません。臣は従死を請い、驪山の足(麓)に埋葬されることを願います。上(陛下)の哀憐があれば幸いです。」
上書を読んだ二世皇帝は大喜びし、趙高に見せて言いました「これは急(困窮して道がなくなること)というものではないか?」
趙高が言いました「人臣は死を憂いて暇がありません。どうして謀をする余裕があるでしょう(道に窮して謀ったのではありません。死を憂いて余裕がない状態なので、元々死んで当然だったのです)。」
二世皇帝は公子高の上書に同意し、銭十万を下賜して厚葬させました。
 
 
 
次回に続きます。