秦楚時代15 秦二世皇帝(六) 李斯の進言 前208年(1)
今回から秦二世皇帝二年です。六回に分けます。
秦二世皇帝二年
前208年 癸巳
「秦二世皇帝二年(実際は元年)、陳渉の将・周章が軍を西に進めて戲に至ったが、引き返した。燕(韓広)、趙(武臣)、斉(田儋)、魏(魏咎)がそれぞれ自立して王を称し、項氏も呉で挙兵した。」
二日後、沛公が出撃して秦軍を破りました。
沛公は雍歯に豊を守らせました。
泗川守(郡守)・壮(壮は人名)が薛で敗戦して戚に逃走しましたが、沛公の左司馬が捕えて殺しました。
楚将・周章が函谷関を出て曹陽に駐屯しました。
しかし二カ月余経ってから、秦将・章邯の追撃を受けて敗れ、再び澠池まで走りました。
十余日後、章邯が攻撃して周章軍をまた大破します。
周文は自刎し、楚軍は戦いをあきらめました。
楚の将軍・田臧等が互いに相談して言いました「周章(周文)の軍が既に破れたから、秦兵は旦暮にも迫って来る。しかし我々は滎陽城を包囲して降せずにいる。秦兵が至ったら必ず大敗するだろう。少数の兵を残して滎陽を包囲し、精兵を全て動員して秦軍を迎撃するべきだ。ところが今の假王(呉広)は驕慢で兵権(用兵の権謀)を知らないから共に事を計ることができない。彼を誅殺しなければ恐らく我々は失敗するだろう。」
陳王は使者を送って田臧に楚令尹の印を下賜し、上将に任命しました。
田臧は李帰等の諸将に滎陽の包囲を命じ、自らは精兵を率いて西の敖倉で秦軍を迎えました。
ところが楚軍が破れて田臧は戦死します。
章邯は兵を進めて滎陽城下で李帰等を攻撃しました。李帰等も破れて戦死しました。
鄧説と伍逢の両軍は陳に敗走しました。
陳王は鄧説を誅殺しました。
『資治通鑑』胡三省注は伍氏に関して楚国に伍挙、伍奢がいたと書いています。
李斯は恐懼しましたが、爵位俸禄を手離すこともできないため、どうすればいいか判断できなくなりました。そこで二世皇帝の意思におもねってこう上書しました「賢主というのは必ず督責(督は監察。責は刑罰)の術を行えるものです。だから申子(申不害)はこう言いました『天下を有しながら恣睢(ほしいままに振る舞うこと)しなかったら「天下が桎梏(手かせ足かせ)になっている」とみなされる。その理由は他でもない。督責ができず自分の身を顧みて天下の民のために労しているからである。例えば堯や禹がそれである。だから桎梏とみなされるのである(天下を有しているのに好き勝手にできなければ、天下が手かせ足かせになっているのと同じだ。好き勝手に振る舞うためには督責の権を握っていなければならない)。』
申・韓(申不害と韓非子)の明術を修めることができず、督責の道を行って天下を自分の自由にすることもできず、いたずらに苦形労神(身を苦しめて精神を労すること)に努めて百姓のために身を犠牲にしたら、それは黔首(民)の役(奴隷)であり、天下を畜す(養う。統治する)者ではなくなってしまいます。これでは尊貴とはいえません。だから明主で督責の術を行える者は上で独断専行し、権(権勢)が臣下に移らないようにするのです。その後は、仁義の塗(道)を滅ぼし、諫説の辯を絶ち、明らかに恣睢(ほしいままに振る舞うこと)の心を行っても敢えて逆らう者はいなくなります。こうすれば群臣も百姓も自分の過失を償うだけで手いっぱいになり、変事を謀ることはできません。」
二世皇帝は喜んで督責をますます厳しくしました。民からより多くの税を取る者が明吏とされ、多数の人を殺す者が忠臣とみなされます。
その結果、道を歩く者の半数が受刑者になり、死人が毎日市に積み上げられました。
民はますます秦の政治を恐れて乱を願うようになりました。
趙将・李良が常山を平定しました(前年、趙王・武臣が李良に常山攻略を命じました)。
李良が帰還して趙王に報告すると、趙王は再び李良を派遣して太原を攻略するように命じます。
李良は石邑まで来ましたが、秦兵が井陘を塞いでいたため進軍できなくなりました。
秦将が二世皇帝の偽の書を送って李良に投降を呼びかけました。李良は書を得ましたが信用せず、邯鄲に引き返して増兵を請うことにしました。
邯鄲に着く前に、道中で趙王の姉に遭遇しました。趙王の姉は外出して酒を飲んだ帰りで、百余騎を従えています。
離れた場所でそれを見つけた李良は趙王が来たと思い、道の横に伏して謁見しました。
趙王の姉は酔っていたためこの将が誰かわからず、騎兵を送って李良に立つことを許すように伝えただけでした。
李良は元々尊貴な地位にいたため、立ち上がって自分の従官を顧みた時、羞恥の念を抱きました。
従官の一人が言いました「天下が秦に叛しており、能力がある者が先に立っています。そもそも趙王は将軍の下の出です(趙王の出身は将軍より下です)。今、女児でありながら将軍のために車から下りようともしませんでした。後を追って殺すべきです。」
李良は秦の書を得てから趙に背こうという気持ちが生まれていましたが、決断できませんでした。
しかし今回の事件で憤怒したため、人を送って趙王の姉を殺し、兵を率いて邯鄲を襲いました。
邯鄲は何の警戒もしていなかったため、趙王・武臣と邵騷が殺されます。
但し、趙人の多くが張耳と陳余の耳目になっていたため、二人だけは早くに情報を得て脱出できました。
『資治通鑑』胡三省注によると「陳人・秦嘉」は「凌人」の誤りです。秦は姓で、春秋時代の魯国に秦堇父という者がいました。また、東海郡は漢代に置かれた郡なので、「郯郡」が正しいという説があります。しかし胡三省は秦が置いた三十六郡にも郯郡はないと指摘しています。
始皇帝が三十六郡を置いた後に郯郡が増置され、漢代になって東海郡に改名されたのかもしれません。漢代の東海郡の地所は郯県です。
しかし秦嘉は陳王の命を受け入れず、自ら大司馬に立ちます。更に武平君の指揮下に入ることを嫌って軍吏にこう告げました「武平君は年少で兵事を知らない。命を聴く必要はない!」
秦嘉は王命(陳王の命)を偽って武平君・畔を殺してしまいました。
次回に続きます。