秦楚時代16 秦二世皇帝(七) 陳勝の死 前208年(2)

秦二世皇帝二年の続きです。
 
[] 『資治通鑑』と『史記陳渉世家』からです。
秦二世皇帝が長史司馬欣と都尉董翳を増派して章邯を援けさせました。
章邯は秦の上将として東討中です。
資治通鑑』胡三省注によると飂叔安の裔子董父がうまく龍を操ったため、帝舜が嘉して董という姓を下賜しました。
 
章邯は伍逢を破ってから陳を攻めて柱国(上柱国)の房君蔡賜を殺しました。
更に進撃して陳の西で張賀軍と戦います。
陳王陳勝(陳渉)自ら出陣して戦を監督しましたが、敗戦して張賀は戦死しました。
 
臘月(十二月)、陳王が汝陰に向かい、引き返して下城父(地名)に至った時、御者の荘賈に殺されました。荘賈は秦に降ります。
この時、陳(楚都)も秦に降ったようです。
陳渉が殺されたのは挙兵してわずか六カ月後の事でした。
 
陳渉が王になったばかりの頃、貧しかった時の旧友知人が頼って来ました。妻の父もその中にいます。陳王は普通の賓客に対する礼で対応し、長揖するだけで拝しませんでした。
妻の父が怒って言いました「乱にたよって王号を僭称し長者に対して傲慢でいる。久しくいられるはずがない!」
妻の父は挨拶もせず去りました。陳王が跪いて謝罪しても妻の父は相手にしませんでした。
 
かつて一緒に雇われて農耕をしていた者が陳都に来ました。宮門を叩いて「わしは渉に会いたい」と言います。
既に王位に即いた陳勝に対して、字の「渉」と呼ぶのは不敬なことでした。そのため、宮門令は客を縛ろうとします。
客が繰り返し自分が陳勝の知人であることを説明したため、逮捕はされませんでしたが、宮門令は取り次ぎもしませんでした。
後に陳王が外出した時、客が道を遮って「渉!」と呼びかけました。
それを聞いた陳王は客を招いて車に載せ、共に王宮に帰ります。
入宮して殿屋や帷帳を見た客が言いました「夥頤(感嘆の言葉)!渉は王となって沈沈としている(広大な宮殿の奥深くに住んでいる)!」
客は宮内を自由に出入りして周りの者に陳王の往時を語りました。
ある人が陳王に言いました「あの客は愚かで無知なので妄言を専らにしており、あなたの威を軽くしています(あなたの威信を傷つけています)
陳王は客を斬りました。
この事件があってから旧知の者は自ら去っていき、陳王の周りに親しい者がいなくなりました。
 
陳王は朱防を中正に、胡武を司過に任命して群臣の過失を監察させました。
諸将が各地を攻略して目的地に至っても、陳王の令に従っていなかったら全て逮捕されて罪が裁かれます。苛察(苛酷)が忠とみなされ、朱防や胡武が気に入らない者がいたら司法の官吏に渡すことなく、すぐに自ら刑を行いました。
しかし陳王は二人を信用したため、諸将は陳王に親附せず、最後は失敗を招きました。
 
かつて陳王の涓人(近侍)だった将軍呂臣が蒼頭軍を組織しました。蒼頭というのは青い頭巾をしているという意味です。新陽で挙兵して陳を攻め、城を落として荘賈を殺しました。
再び陳を楚都とし、陳王を碭(地名)に埋葬して隠王という諡号を送りました。
 
陳勝は死にましたが、陳勝が立てたり派遣した王侯将相によって秦は滅亡することになります。
西漢高祖の時代になって陳勝の冢()を守るために三十家が碭に置かれました。
漢書陳勝項籍伝』によると、王莽の時代西漢滅亡後)まで陳勝の祭祀が続いていたようです。

陳勝勢力衰退の地図です。『中国歴代戦争史』を元にしました。
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[] 『資治通鑑』と『史記・陳渉世家』からです。
以前、陳王が銍人宋留に南陽を平定して武関から進攻するように命じました。
宗留は南陽を攻略しましたが、陳王が死んだという報告を受けました。南陽が再び秦の統治下に置かれます。
宋留は武関に入ることができず、東の新蔡まで引き還した時、秦軍に遭遇したため軍を挙げて秦に降りました。
秦軍は宋留を咸陽に送り、二世皇帝は宗留を車裂に処して見せしめにしました。
 
[] 『史記高祖本紀』と『資治通鑑』からです。
沛公劉邦が亢父に引き返して方與に至った時、魏の周巿が方與を攻めに来たことは既に書きました。
陳王陳勝は周巿に魏地の攻略を命じていました(これは『高祖本紀』の記述です。既に魏王咎が即位しているので、周巿に命を降したのは魏王かもしれません)
巿は兵を率いて豊、沛の地を攻略に行き、人を送って豊を守る雍歯にこう伝えました「豊はかつて梁(魏)が遷された地だ(『集解』によると魏の最後の王假は秦に滅ぼされてから東の豊に遷されました)。今、魏の地で既に平定された地は数十城になる。歯(雍歯)が魏に降れば、魏は歯を侯にして豊を守らせよう。もし降らなかったら、豊を屠す(皆殺しにする)ことになる。
 
雍歯は以前から沛公劉邦に属していることが不満だったため、魏の誘いを受けると豊を挙げて魏に降りました。
 
沛公が兵を率いて豊を攻めましたが勝てませんでした。
沛公は病を患ったため(あるいは「沛公はこれを悩み」。『史記・高祖本紀』の原文は「沛公病」。『資治通鑑』と『漢書・高帝紀』は「沛公病」を省略しています)、沛に還りました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
趙の張耳と陳余が散兵を集めました。数万の兵を得ます。
二人が李良を攻撃し、李良は敗走して秦将章邯に帰順しました。
 
ある客が張耳と陳余に言いました「両君は羇旅(外地の人)なので、趙人を帰心させたいと思っても、二人だけでは困難です。趙の後代を立てて誼(義)によって補佐すれば成功できるでしょう。
二人は趙歇を捜し出しました。
趙歇は『史記張耳陳余列伝(巻八十九)』の注(集解)に「趙之苗裔(趙王の子孫)」と書かれているだけで、出生ははっきりしません。
 
春正月、張耳と陳余が趙歇を趙王に立てました。信都が拠点になります。
 
[十一] 『資治通鑑』と『史記・陳渉世家』からです。
東陽の甯君と秦嘉は陳王の軍が破れたと聞いて景駒を楚王に立てました。
資治通鑑』胡三省注によると甯君は甯が姓氏で号して甯君と称していました。名はわかりません。衛国の卿に甯氏がおり、晋国にも甯嬴という者がいました。どちらも邑を姓氏にしました。
史記項羽本紀』の注釈(集解)をみると、景駒は「楚族」とあるので、楚の公族に関係するのかもしれません。
 
史記・秦楚之際月表』によると、端月(正月)に秦嘉が景駒を楚王に立て、二月に秦嘉が上将軍になりました。
 
資治通鑑』と『史記・陳渉世家』に戻ります。
甯君と秦嘉は兵を率いて方與に向かい、定陶で秦軍を撃とうとしました。
そこで公孫慶を斉に送り、協力して共に進攻するように求めます。
しかし斉王田儋はこう言いました「陳王は戦に敗れて死生もわからないと聞いた。楚はなぜ請わずに(斉に意見を求めずに)王を立てたのだ!」
公孫慶が言いました「斉も楚に請わずに(意見を求めずに)自ら王に立ちました。楚がなぜ斉に請うてから王を立てなければならないのですか。そもそも楚が首事したのです(先に挙兵しました)。楚が天下に号令するのは当然のことです。」
田儋は公孫慶を殺しました。
 
秦の左右校(左右校尉)が再び陳を攻めて攻略しました。
呂将軍(呂臣)は逃走しましたが、散兵を集めて番盗黥布と合流します。
呂臣と黥布は秦の左右校を攻めて青波で破り、改めて陳を楚都にしました。
 
黥布は六(地名)の人で、姓は英氏ですが法に触れて黥刑に処されたため黥布といいます。
資治通鑑』胡三省注によると英氏は偃姓から生まれました。皋陶の後代が英(地名)に封じられたため、それを氏にしました。
 
黥布は刑徒として驪山に送られました。
驪山の徒は数十万人おり、黥布はその中で徒衆の長や豪桀と交わりました。やがて曹耦(同類。仲間)を率いて逃亡し、江中で群盗になります。
番陽令(県令)呉芮は江湖の間で民心を得ており、番君と号していました。黥布は数千人に膨れ上がった徒衆を率いて呉芮に会いに行きます。呉芮は娘を黥布に嫁がせて秦軍を攻撃させました。そのため黥布は「番盗」と呼ばれるようになりました。
 
[十二] 『史記高祖本紀』と『資治通鑑』からです。
沛公劉邦は魏に背いた雍歯と豊の子弟を怨んでいました。
沛公は東陽甯君と秦嘉が楚王(『高祖本紀』では「假王」)景駒を立てて留(地名)に居ると聞き、会いに行って帰順することにしました。
 
この時、張良も若者百余人を集めて景駒に帰順しようとしましたが、道中で沛公に遭遇し、沛公に従うことにしました。沛公は張良を厩将(『資治通鑑』胡三省注によると恐らく馬を管理する官)に任命しました。
張良はしばしば『太公兵法』を引用して沛公に策を献じました。沛公は張良を気に入って常にその策を用いるようになります。
張良は他の者にも『太公兵法』を引用して策を語りましたが、誰も理解できませんでした。
張良が言いました「沛公は天から授けられた人材だ(沛公の才は天から授けられたものだ。原文「沛公殆天授」)!」
張良は沛公の下に留まり、他に移ることがなくなりました。
 
張良始皇帝二十九年(前218年)始皇帝暗殺を謀った人物です。暗殺事件から劉邦に出会うまでの張良について『史記・留侯張良世家(巻五十五)』に記述があるので、別の場所で紹介します。

秦楚時代 張良と老父

 
沛公と張良が共に景駒に会いに行きました。豊を攻めるために兵を請います。
当時、秦将章邯は陳王の軍を追撃しており、別将の司馬𡰥(人名)を北進させて楚地を平定しようとしていました。相県(沛郡の治所)を屠(皆殺し)して碭に至ります。
 
東陽の甯君と沛公は兵を率いて西に向かい、蕭県西で秦軍と戦いましたが、利がなかったため引き返しました。兵を収めて留(地名)に集まります。
 
二月、沛公等が碭を攻めて三日で攻略しました。
碭の兵を集めて五六千人を得ます。今までの兵と併せて九千人になります。
 
三月、沛公等が下邑を攻めて攻略しました。
その後、兵を還して豊を攻めましたが下せませんでした。
 
 
 
次回に続きます。