秦楚時代21 秦二世皇帝(十二) 項羽の簒権 前207年(1)
今回から秦二世皇帝三年です。六回に分けます。
秦二世皇帝三年
前207年 甲午
冬十月、斉将・田都が田栄の指示に背き、楚を助けて趙を救いに行きました。
『史記・秦楚之際月表』によると、秦二世皇帝二年(前年)九月、項羽が田栄に趙救援の兵を出すように要求しましたが、田栄は楚が田假を殺さないため出兵を拒否しました。項羽はこの一件があって田栄を怨むようになります。
『資治通鑑』胡三省注によると、秦は衛を滅ぼしてから東郡を置きました。尉は郡尉です。成武は衛の楚丘です。
『史記・高祖本紀』は「楚軍(劉邦軍)が兵を出して王離を撃ち、大破した」としており、『秦楚之際月表』には「東郡尉と王離軍を成武南で攻め破った」とありますが、秦将・王離は鉅鹿を包囲しているはずです。あるいは、同姓同名の将がいたのかもしれません。
趙救援に向かっていた楚の宋義が軍を率いて安陽に至りました。そこで四十六日に渡って行軍を止めます。
項羽が言いました「秦軍が趙王を鉅鹿で包囲しており、趙王が危急を告げていると聞きました。急いで兵を率いて河を渡り、楚が外から撃ち、趙が内応するべきです。そうすれば必ず秦軍を破ることができます。」
宋義が言いました「それは違う。牛を刺す蝱(アブ)を撃つ時、蟣蝨(しらみ)を殺してはならないものだ(原文「夫搏牛之蝱,不可以破蟣蝨」。蝱は秦、蟣蝨は章邯の喩えです。大物を倒す時、小物に対して全力を尽くす必要はないという意味です)。今、秦は趙を攻めており、戦に勝ったとしても兵が疲労するから、我々はその疲弊に乗じることができる。もし秦が勝てなかったら、我々は兵を率いて戦鼓を敲き、西に向かえばいい。こうすれば必ず秦を占領できる。だからまず秦と趙を戦わせるべきだ。甲冑を身に着けて武器を持つこと(原文「被堅執鋭」。これは『史記・項羽本紀』と『資治通鑑』の記述で、『漢書・陳勝項籍伝』では「夫撃軽鋭」。鋭敏な士卒を撃つこと)においては、義(私)は公に及ばない。しかし坐して策を練ること(原文「坐運籌策」。『史記・項羽本紀』『資治通鑑』『漢書・陳勝項籍伝』とも同じ)においては、公は義に及ばない。」
宋義は軍中にこう命じました「虎のように猛(勇猛)で、羊のように狠(凶悪。羊は草を食べ始めると食べ尽くすまで止まらないため、「狠」とされたようです)で、狼のように貪(貪婪)で、剛情なうえ指示を聞かない者(項羽を指します)は全て斬る!」
宋義は子の宋襄を斉の相にするため、斉に派遣することにしました。自ら無塩まで送って盛大な酒宴を開きます。
当時は寒いうえに大雨も降り、士卒は飢え凍えていました。
項羽が言いました「力を合わせて秦を攻めようというのに、久しく留まって進もうとしない。今年は飢饉のため民が貧しく、士卒は半菽(これは『資治通鑑』の記述で『漢書・陳勝項籍伝』が元になっています。「菽」は豆です。『資治通鑑』胡三省注によると、野菜の半分に豆を混ぜた食事です。『史記・項羽本紀』では「芋菽」となっており、芋や豆という意味です)を食べ、軍中には食糧がない。それなのに(宋義は)飲酒高会(盛大な酒宴)を開いている。兵を率いて河を渡ろうとせず、趙で食糧を得てから力を合わせて秦を攻めようともしない。『疲弊に乗じる』と言っているが、強大な秦が新造(新興)の趙を攻めたら、趙を攻略するのは明らかだ。趙が占領されて秦がますます強くなったら、どうして疲弊に乗じることができるのだ。そもそも国兵(楚兵)は破れたばかりで王(楚王)は安心して座ってもいられない。境内の兵力を全て集めて将軍に専属させのだ。国家の安危はこの一挙にかかってる。それなのに今、(宋義は)士卒を慈しまず、私事(自分の子を斉相にすること)に力を入れている。彼は社稷の臣ではない。」
諸将は皆、項羽に畏服していたため、異議を唱える者なく、そろってこう言いました「初めに楚を立てたのは将軍の家です。今、将軍が乱を誅しました。」
こうして項羽が假上将軍に立てられました。「假」というのは懐王の正式な命がないからです。
項羽は人を送って宋義の子を追わせ、斉に入って殺しました。
また、桓楚を派遣して懐王に報告し、正式な任命を請いました。
懐王は項羽を上将軍にしました。
劉邦は剛武侯の軍四千余人を奪って吸収しました。
その後、魏将・皇欣、武満の軍と連合して秦軍を攻め、破りました。
この出来事は『資治通鑑』と『漢書・高帝紀』に記述がありますが、『史記』の『高祖本紀』は彭越と合流してからの事としています。その場合は春二月以降になります(後述します)。しかし『秦楚之際月表』には秦二世皇帝三年十二月に「(沛公が)栗に至って皇欣と武満の軍を得た。秦軍と戦って破った」とあります。恐らく『史記・高祖本紀』の誤りです。
次回に続きます。