春秋時代 城濮の戦い

紀元前632年、中原の覇権を競う二大国晋と楚が衝突しました。城濮の戦いです。

春秋時代68 東周襄王(二十八) 城濮の戦い 前632年(2)

 
両軍の布陣を簡単にまとめました。
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会戦の詳細は『春秋左氏伝』に書かれていますが、古文の解釈によって異なる説が存在します。
以下、『春秋左氏伝』(僖公二十八年)の原文です。

「胥臣蒙馬以虎皮,先犯陳、蔡。陳、蔡奔,楚右師潰。狐毛設二旆而退之。欒枝使輿曳柴而偽遁,楚師馳之。原軫、郤溱以中軍公族横撃之。狐毛、狐偃以上軍夾攻子西,楚左師潰。楚師敗績。子玉收其卒而止,故不敗。

 

本編では楊伯峻の『春秋左伝注』を元に訳しました。少し詳しく説明します。

まず晋の下軍の佐胥臣が馬に虎皮を被せ、陳と蔡の陣を攻撃しました。陳蔡両軍は奔走し、楚の右師が混乱します。それを見て狐毛が上軍から二隊を派遣して楚の右師を掃討させました。楚の右師は退却します。

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ここまでが第一段階で、原文の「胥臣蒙馬以虎皮,先犯陳、蔡。陳、蔡奔,楚右師潰。狐毛設二旆而退之」にあたります。

「狐毛設二旆而退之」の「設二旆」を『春秋左伝注』は「二部隊を設けた」と解釈しています。「旆」には「前軍(先鋒部隊)」という意味があるためです。その後の「退之」は、この二部隊が楚の右師を退けたという意味になります。

 

次に晋の下軍の将欒枝が車に柴を牽かせて撤退する姿を見せました。柴を牽かせたのは砂塵を舞いあがらせて軍が動いているように見せるためです。欒枝の撤退を信じた楚の左師(子西)が追撃を始めました。

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原文の「欒枝使輿曳柴而偽遁,楚師馳之」です。

『春秋左伝注』は欒枝を追撃した楚師を左師としています。この後に晋軍の反撃を受けて左師が壊滅するからです。

 

最後は晋の先軫と郤溱が中軍の公族大夫を率いて側面から楚軍を急襲し、上軍の狐毛と狐偃もそれぞれ兵を率いて子西を挟撃しました。楚の左師も壊滅します。

楚の中軍を率いる子玉はすぐに兵をまとめて体制を整えたため、全滅を免れました。
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原文の「原軫、郤溱以中軍公族横撃之。狐毛、狐偃以上軍夾攻子西,楚左師潰。楚師敗績。子玉收其卒而止,故不敗」にあたります。
 

中華民国(台湾)の『中国歴代戦争史(第一冊)』は異なる解釈をしています。

まず晋の下軍の佐胥臣が馬に虎皮を被せ、陳と蔡の陣を攻撃しました。陳蔡両軍は驚愕して壊滅します。

同時に欒枝が車に柴を牽かせて駆けまわり、砂塵を舞わせました。ちょうど冬から春に移り変わる頃で、東北の風が楚軍に向かって強く吹いています。砂塵を受けた楚の右師は周りが見えなくなり、陳蔡軍に続いて壊滅しました。

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ここまでが第一段階です。原文では「胥臣蒙馬以虎皮,先犯陳、蔡。陳、蔡奔,楚右師潰。狐毛設二旆而退之。欒枝使輿曳柴而偽遁,楚師馳之」となっていますが、「狐毛設二旆而退之。欒枝使輿曳柴而偽遁,楚師馳之」の部分から「欒枝使輿曳柴而偽遁」を抜き出して「狐毛設二旆而退之」の前に置いています。

 

次に晋の上軍を率いる狐毛が二本の大将旗を設けました。『中国歴代戦争史』は「旆」を大将旗と解釈しています。

狐毛は楚軍と接触すると、偽って退却しました。

楚の子玉は晋の大将が右軍におり、敗退したと判断しました。そこで、右師の壊滅は意に介さず、左師に晋の上軍を追撃させました。

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これが第二段階です。上述の通り、原文は「狐毛設二旆而退之。欒枝使輿曳柴而偽遁,楚師馳之」となっていますが、『中国歴代戦争史』は「欒枝使輿曳柴而偽遁」を前に置いて「狐毛設二旆而退之。楚師馳之」を一つにしています。

 

最後は楚の左師が晋の中軍に襲われます。同時に狐毛も軍を返して反撃しました。楚の左師は晋の中軍と上軍に挟撃されて壊滅します。

子玉は左右両翼が破れたのを見て中軍の前進を止めるように命じました。そのおかげで敗戦を免れます。

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以上が第三段階で、原文の「原軫、郤溱以中軍公族横撃之。狐毛、狐偃以上軍夾攻子西,楚左師潰。楚師敗績。子玉收其卒而止,故不敗」にあたります。

 

 
『春秋左氏伝』(僖公二十八年)には、城濮の戦いにおいて、「晋の中軍が沢で大風に遭い、前軍の左旃(左の大旗)を失った」という記述があります。これが原因で司馬・祁瞞が処刑されます。
恐らく楚の左師を襲撃した時の事だと思いますが、『東周列国志』は楚の中軍が晋の中軍を攻撃したとしており、上述の二説とは異なる展開となっています。
訳文はこちらをご参照ください。

第四十回 先軫が子玉を激し、晋楚が城濮で戦う(後編)