秦楚時代33 西楚覇王(七) 劉邦東進 前206年(7)

今回で西楚覇王元年、漢王元年が終わります。
 
[十四(続き)] 『史記高祖本紀』にはもう一人の韓信が登場します。通常は大将になった韓信と分けるため、韓王信と呼ばれています。
まず『史記韓信盧綰列伝(巻九十三)』から韓王信について紹介します。
韓王信は戦国時代の韓襄王の孽孫(庶出の孫)で、身長が八尺五寸もありました。
項梁が楚王の後代に当たる懐王を立てた時、燕、斉、趙、魏も王を立てましたが、韓だけは韓王の後嗣を立てていませんでした。そこで韓の諸公子の一人である横陽君成を韓王に立てて韓の故地を平定しようとしました。
やがて項梁が定陶で敗死すると、韓王成は懐王の下に奔りました。
沛公劉邦が兵を率いて陽城を攻めた時、張良を韓の司徒にして韓の故地を帰服させました。韓信(韓王・信)劉邦に属します。劉邦韓信を韓将とし、韓の兵を率いて従わせました。韓信は沛公と共に武関に入ります。
沛公が漢王になると、韓信も漢王に従って漢中に入りました。
韓信が漢王に言いました「項王は諸将を近い地の王にしましたが、王劉邦だけは遠いこの地に封じられました。これは左遷です。士卒は皆、山東の人なので、跂して(つま先立ちになって)帰郷を望んでいます。その鋒(鋭気、勢い)は東進を欲しているので、天下を争うことができます。」
漢王は兵を東に返して三秦を平定してから韓信を韓王に立てるという約束をしました。
 
次は韓王信の言葉を『高祖本紀』から引用します。
劉邦が南鄭に向かってから、諸将や士卒の多くが道中で逃亡しました。士卒は皆、東に帰ることを願って歌を歌います。
韓信(韓王信)が漢王に言いました「項羽は諸将で功がある者を王にしましたが、王劉邦だけは南鄭に住むことになりました。これは遷(左遷。流刑)と同じです。軍吏士卒は皆、山東の人なので、日夜跂して帰郷を望んでいます。その鋒に乗じて利用すれば大功を立てることもできます。天下が定まったら人々は皆、安寧になってしまうので、二度と用いることができません。東進の策を決断して天下の権を争うべきです。」
漢書帝紀』はこれを大将軍韓信の言葉としていますが、恐らく誤りです。
 
史記高祖本紀』はここで当時の関東の状況をまとめて書いています(既に述べた内容です)
項羽は関を出て東に帰ってから義帝に人を送ってこう伝えました「古の帝は地方千里しかなく、必ず上游に住んだものです。」
項羽は使者を送って義帝を長沙の郴県に遷させ、遷都を催促しました。義帝の群臣が離反し始めます。
そこで項羽は秘かに衡山王と臨江王に命じて義帝を撃たせ、江南で殺してしまいました(翌年)
項羽は田栄を怨んでいたため斉将田都を斉王に立てました。田栄は怒って自ら斉王に立ち、田都を殺して楚に背きました。
また、田栄は彭越に将軍の印を与えて梁地で楚に背かせました。楚は蕭公角に命じて彭越を攻撃させましたが、彭越が大勝しました。
陳余は王に立てられなかったため項羽を怨んでいました。夏説を送って田栄を説得し、兵を求めて張耳を撃ちます。
(以下翌年)斉は陳余に兵を与えて常山王張耳を撃破しました。張耳は逃亡して漢に帰順します。
陳余は趙王歇を代から迎えて再び趙王に立てました。趙王は陳余を代王に立てます。
項羽は激怒して北の斉を攻撃しました。
 
[十五] 『史記・高祖本紀』と『資治通鑑』からです。
八月(『漢書帝紀』は「五月」としていますが、恐らく誤りです)、漢王劉邦が兵を率いて故道(地名)を出ました。雍を襲撃します。
雍王章邯は漢軍を陳倉で迎撃しましたが、雍兵が敗れて撤退しました。
章邯は好畤(地名)で止まって再戦しましたが、また敗れて廃丘に奔ります。
漢王は雍地を平定して東の咸陽に至り、別の兵(『索隠』によると樊噲が指揮しています)を出して廃丘で雍王を包囲しました。同時に諸将を派遣して隴西、北地、上郡といった秦の地を攻略させます。
塞王司馬欣と翟王董翳は投降し、漢王は渭南、河上、上郡を支配下に入れました。

劉邦東進の地図です。『中国歴代戦争史』を元にしました。
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漢王は将軍薛歐と王吸を武関から出して王陵と一緒に太公劉邦の父)呂后劉邦の妻)を迎えさせました。
それを聞いた項王項羽は兵を発して陽夏で阻止しました。
資治通鑑』は薛歐と王吸が武関から出て陽夏で楚軍に阻まれたのを「八月」に書いていますが、『漢書帝紀』では「九月」になっています。『史記高祖本紀』は時間を明らかにしていません。
 
王陵は沛の人です。数千人を集めて南陽におり、この時、兵を率いて漢に帰順しました。
項王は王陵の母を捕えて軍中に置きました。王陵の使者が項羽の軍中に至ると、項羽は王陵の母を東に向いて座らせ(東を向く位置は上座になります。王陵の母に敬意を示しています)、王陵を招くために使者を説得させようとしました。
しかし王陵の母は自ら使者を送り出し、泣いてこう言いました「老妾(私)のために陵に言葉を伝えてください。善く漢王に仕えなさい。漢王は長者なので、最後は天下を得ることができます。老妾のために二心を抱いてはなりません。妾は死をもって使者を送ります。」
王陵の母は剣に伏せて死にました。
怒った項王は王陵の母を亨(釜茹で)に処しました。
 
[十六] 『史記項羽本紀』と『資治通鑑』からです。
漢の劉邦が兵を還して三秦を平定し、関中を全て支配下に置きました。東方では斉や趙が楚に叛しています。
劉邦の東進を知った項羽は激怒しました。
そこで項羽はかつて呉令(県令)だった鄭昌を韓王に立てて漢軍を防がせました。
 
史記項羽本紀』と『漢書陳勝項籍伝』はここで「項羽が蕭公角等に命じて彭越を撃たせたが、彭越が蕭公角等を破った」と書いています。『資治通鑑』は七月の事としています。
 
[十七] 『史記項羽本紀』と『資治通鑑』からです。
漢が張良を使って項王項羽に書を送りました「漢王は失職したので(本来の封職を得られなかったので)関中を得たいと欲したのです。もし約束が守られるのなら停止します。東に進むつもりはありません。」
更に書信を送って斉と梁が項羽に反した事を述べ、こう伝えました「斉が趙と共に楚を滅ぼそうとしています。」
項王は西進の意思を棄てて北の斉に兵を向けました。
 
史記項羽本紀』と『漢書陳勝項籍伝』はここで「項羽が九江王黥布の兵を徴集したが、黥布は病と称して赴かず、将に数千人を率いさせて派遣しただけだった。項王はここから黥布を怨むようになった」と書いていますが、黥布は翌年に項羽の命令で義帝を殺害します。項羽と黥布の関係が悪化するのは更に後のことだと思われます。
 
[十八] 『資治通鑑』からです。
燕王韓広は遼東に向かおうとしませんでした。
項羽によって燕王に立てられた臧荼が韓広を襲って殺し、領地を兼併しました。
 
[十九] 『資治通鑑』からです。
この年、漢王劉邦が沛人で内史の周苛を御史大夫に任命しました。
資治通鑑』胡三省注によると、御史大夫は秦代の官で、位は上卿に値します。
 
[二十] 『資治通鑑』からです。
項王(項羽)が義帝に人を送って早く江南に遷るように催促しました。
義帝の群臣や左右の者達が徐々に離れていきました。
 
 
 
次回に続きます。

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