秦楚時代33 西楚覇王(七) 劉邦東進 前206年(7)
今回で西楚覇王元年、漢王元年が終わります。
韓王・信は戦国時代の韓襄王の孽孫(庶出の孫)で、身長が八尺五寸もありました。
項梁が楚王の後代に当たる懐王を立てた時、燕、斉、趙、魏も王を立てましたが、韓だけは韓王の後嗣を立てていませんでした。そこで韓の諸公子の一人である横陽君・成を韓王に立てて韓の故地を平定しようとしました。
やがて項梁が定陶で敗死すると、韓王・成は懐王の下に奔りました。
沛公・劉邦が兵を率いて陽城を攻めた時、張良を韓の司徒にして韓の故地を帰服させました。韓信(韓王・信)も劉邦に属します。劉邦は韓信を韓将とし、韓の兵を率いて従わせました。韓信は沛公と共に武関に入ります。
沛公が漢王になると、韓信も漢王に従って漢中に入りました。
韓信が漢王に言いました「項王は諸将を近い地の王にしましたが、王(劉邦)だけは遠いこの地に封じられました。これは左遷です。士卒は皆、山東の人なので、跂して(つま先立ちになって)帰郷を望んでいます。その鋒(鋭気、勢い)は東進を欲しているので、天下を争うことができます。」
漢王は兵を東に返して三秦を平定してから韓信を韓王に立てるという約束をしました。
次は韓王・信の言葉を『高祖本紀』から引用します。
劉邦が南鄭に向かってから、諸将や士卒の多くが道中で逃亡しました。士卒は皆、東に帰ることを願って歌を歌います。
韓信(韓王・信)が漢王に言いました「項羽は諸将で功がある者を王にしましたが、王(劉邦)だけは南鄭に住むことになりました。これは遷(左遷。流刑)と同じです。軍吏士卒は皆、山東の人なので、日夜跂して帰郷を望んでいます。その鋒に乗じて利用すれば大功を立てることもできます。天下が定まったら人々は皆、安寧になってしまうので、二度と用いることができません。東進の策を決断して天下の権を争うべきです。」
項羽は関を出て東に帰ってから義帝に人を送ってこう伝えました「古の帝は地方千里しかなく、必ず上游に住んだものです。」
項羽は使者を送って義帝を長沙の郴県に遷させ、遷都を催促しました。義帝の群臣が離反し始めます。
また、田栄は彭越に将軍の印を与えて梁地で楚に背かせました。楚は蕭公角に命じて彭越を攻撃させましたが、彭越が大勝しました。
陳余は王に立てられなかったため項羽を怨んでいました。夏説を送って田栄を説得し、兵を求めて張耳を撃ちます。
(以下翌年)斉は陳余に兵を与えて常山王・張耳を撃破しました。張耳は逃亡して漢に帰順します。
陳余は趙王・歇を代から迎えて再び趙王に立てました。趙王は陳余を代王に立てます。
項羽は激怒して北の斉を攻撃しました。
雍王・章邯は漢軍を陳倉で迎撃しましたが、雍兵が敗れて撤退しました。
章邯は好畤(地名)で止まって再戦しましたが、また敗れて廃丘に奔ります。
漢王は雍地を平定して東の咸陽に至り、別の兵(『索隠』によると樊噲が指揮しています)を出して廃丘で雍王を包囲しました。同時に諸将を派遣して隴西、北地、上郡といった秦の地を攻略させます。
劉邦東進の地図です。『中国歴代戦争史』を元にしました。
王陵は沛の人です。数千人を集めて南陽におり、この時、兵を率いて漢に帰順しました。
項王は王陵の母を捕えて軍中に置きました。王陵の使者が項羽の軍中に至ると、項羽は王陵の母を東に向いて座らせ(東を向く位置は上座になります。王陵の母に敬意を示しています)、王陵を招くために使者を説得させようとしました。
しかし王陵の母は自ら使者を送り出し、泣いてこう言いました「老妾(私)のために陵に言葉を伝えてください。善く漢王に仕えなさい。漢王は長者なので、最後は天下を得ることができます。老妾のために二心を抱いてはなりません。妾は死をもって使者を送ります。」
王陵の母は剣に伏せて死にました。
怒った項王は王陵の母を亨(釜茹で)に処しました。
更に書信を送って斉と梁が項羽に反した事を述べ、こう伝えました「斉が趙と共に楚を滅ぼそうとしています。」
項王は西進の意思を棄てて北の斉に兵を向けました。
『史記・項羽本紀』と『漢書・陳勝項籍伝』はここで「項羽が九江王・黥布の兵を徴集したが、黥布は病と称して赴かず、将に数千人を率いさせて派遣しただけだった。項王はここから黥布を怨むようになった」と書いていますが、黥布は翌年に項羽の命令で義帝を殺害します。項羽と黥布の関係が悪化するのは更に後のことだと思われます。
燕王・韓広は遼東に向かおうとしませんでした。
項羽によって燕王に立てられた臧荼が韓広を襲って殺し、領地を兼併しました。
義帝の群臣や左右の者達が徐々に離れていきました。
次回に続きます。