西漢時代 天人三策 対策二(前)

漢書董仲舒(巻五十六)』から董仲舒の「天人三策」を紹介しています。

西漢時代83 武帝(二) 董仲舒 前140年(1)

 
今回は董仲舒の二回目の対策(回答)の前半です。
 
董仲舒が答えました(対曰)
臣は堯が命(天命)を受けてから、天下のことを憂いとし、天子の位に即いたこと楽(楽しみ。喜び)とはしなかったと聞いています。だから乱臣を誅逐し、務めて賢聖を求め、舜、禹、稷、(偰)、咎繇(皋陶)を得ることができたのです。衆聖が徳を助け、賢能が職を補佐したので、教化が大いに行われ、天下が和洽(和睦)し、万民が皆、仁に安んじて義を楽しみ(安仁楽誼)、それぞれ居るべき場所を得て、動作(行動)は礼に応じ、落ち着いて常に道を守るようになったのです(従容中道)孔子が「(天命を受けて)王になった者がいたら、必ず一世(三十年)の後に仁政が行われる(如有王者,必世而後仁)」と言ったのは、これ(堯ようなの政治)を指すのです。
堯の在位は七十載(年)に及んだので、位から退いて虞舜に譲りました。堯が崩じてから、天下は堯の子丹朱に帰さず舜に帰したので、舜は避けることができないと知り、天子の位に即きました。禹を相に任命し、堯を輔佐した者に頼って統業(帝業)を受け継いだので、垂拱無為(手をこまねいて何もしないこと)でも天下が治まったのです。孔子が「『韶(舜を称える歌)』は美を尽くしており、また善を尽くしている(最も美しくて素晴らしい。「韶尽美矣,又尽善矣」)」と言ったのは、これ(舜のような政治)を指すのです。
殷紂の時代になると天に逆らって万物に暴虐になり、賢知の者を殺戮して百姓を残賊(殺害)しました。だから伯夷や太公は当世の賢者でしたが、隠居して臣にならなかったのです。職責を守る人は全て奔走逃亡し、河海に入りました。天下が昏乱し、万民が不安になったので、天下は殷を去って周に従いました。文王は天に順じて民を治め(順天理物)、賢聖を師用(尊重して用いること)しました。そのおかげで閎夭、大顛、散宜生等が再び朝廷に集まったのです。愛を兆民(万民)に施したので、天下が(周に)帰しました。だから(隠居していた)太公が海浜で身を起こして三公の職に就いたのです。当時は紂がまだ上におり、尊卑が昏乱して百姓が散亡していました。だから文王は悼痛(悲しんで心を痛めること)して(民を)安んじたいと願い、日が傾く頃まで食事をする暇もなかったのです。
孔子は『春秋』を編纂し、まず王を正してから万事に繋げ、素王の文孔子の考え。素王は帝王の地位にいなくても帝王と同格の徳行を持つ者で、特に孔子を指します)を示しました。このように見ると、帝王の条理は一貫して共通しています。労逸が異なるのはめぐり遇った時代が異なるからです。孔子が「『武(武王を称える歌)』は美を尽くしているがまだ善を尽くしていない(美しいが最善ではない。武王は善政を行ったが舜には劣る。「武尽美矣,未尽善也」)」と言ったのは、これ(文王・武王のような政治)を指すのです。
臣が聞いたところでは、文采(模様)玄黄(黒と黄色)の飾りを制度にするのは、尊卑を明らかにして貴賎に違いを作ることで(人々に)徳を持たせるように勧めることが目的です。だから『春秋』が命を受けてまず制定したのは(『春秋』において、命を受けた者がまず制定するべきことは)、改正朔(暦を改めること)と易服色(服の色を改めること)であり、これらのことを通して天(天意)に応じようとしたのです。よって、宮室旌旗の制度とは、法(法度。法則)があって完成したのです。孔子はこう言いました「奢(奢侈)ならば不遜(礼を越えること)となり、倹ならば簡陋(みすぼらしいこと)となる(奢則不遜,倹則固)。」倹とは聖人による中制(最も適切な制度)ではないのです(奢侈になるべきではありませんが、簡陋な倹でいるのも間違いです)。臣が聞くに、良玉不瑑(良玉は彫刻しない)というのは、資質が潤美で刻瑑(彫刻)の必要がないからです。これは達巷党(地名)の人(項橐を指します。七歳で孔子の師になったといわれています)が学ばなくても自分で知ることができたのと同じです。しかし通常の玉を彫刻しなかったら文章(模様)ができません。同じように、君子も学ばなかったらその徳を完成できないのです(だから文が必要なのです)
臣が聞いたところでは、聖王が天下を治める時、若者には学問を習慣にさせ(少則習之学)、長じたら職位を与えてその才能を確認した(長則材諸位)といいます。爵禄を与えることでその徳を養い、刑罰を使うことでその悪を威圧します。だから民は礼誼(礼義)に明るくなり、上の者を犯すことを恥とするようになるのです。武王が大誼大義を行って残賊を平定し、周公が礼楽を作って文(文飾。模様)としたので(礼楽の制度を作って大義を補助したので)、成康(成王と康王)の隆(隆盛時代)に至って囹圄(監獄)が四十余年も空虚になりました。これは教化の漸(浸透)と仁誼(仁義)の流(伝播)によるものであって、肌膚を傷つけたこと(刑法)の効果だけではありません。しかし秦に至ったら異なりました。申・商(申不害と商鞅の法を学び、韓非の説を行い、帝王の道を憎み、貪狼(狼のように貪婪なこと)を俗とし、文徳によって下を教訓することがなくなりました。誅名(表面だけを視て善悪を判断すること)して実情を察しなかったため、善を為す者も(刑から)逃れられるとは限らず、悪(罪)を犯した者も刑を受けるとは限りませんでした。そのため百官がそろって虚辞を飾り、事実を顧みず、外(表面)には国君に仕える礼がありながら、内では上に背く心を持ち、虚偽によって欺瞞を飾り(造偽飾詐)、利を追うことを恥としなくなりました。また、(残酷)の吏を好んで用い、賦斂(賦税)には限度がなく、民の財力を使い果たしたので、百姓は散亡して耕織の業に就くことができず、群盗が並び立つようになりました。その結果、刑者が甚だしく増えて死者が互いに望みましたが、姦(犯罪)が止むことはありませんでした。これは俗化(習俗教化)がそうさせたのです。
孔子が「政令によって民を導き、刑によって民をまとめたら、民は刑から逃れようとするだけで(悪行に対して)恥を知ることはない(導之以政,斉之以刑,民免而無恥)」と言ったのは、これ(刑法に頼った秦のような政治)を指すのです。
 
 
 
次回に続きます。