西漢時代 天人三策 対策二(後)

漢書董仲舒(巻五十六)』から董仲舒の「天人三策」を紹介しています。

西漢時代83 武帝(二) 董仲舒 前140年(1)

 
今回は董仲舒の二回目の対策(回答)の続きです。
 
今、陛下は天下を併有しており、海内で率服(帰服)しない者はいません。陛下は広く観察見聞し、群下の知を極め(吸収し)、天下の美を尽くし(全て手に入れ)、至徳(最高の徳)が昭然(照らし輝くこと)として方外(国外)にまで及んでいます。夜郎西南夷の国)、康居(西域の国)は万里の外にありますが、徳を悦んで誼(義)に帰しました。これは太平がもたらしたことです。それなのに功(恩徳)が百姓に加えられていないのは、王心を加えていないからではありませんか(王の注意が民に至っていないからではありませんか)曾子はこう言いました「自分が聞いたことを尊重すれば高明になる(尊其所聞則高明矣)。自分が知ったことを行えば光大となる(行其所知則光大矣)。高明光大は他でもない、意(注意)を加えるかどうにかかっている(高明光大不在於它,在乎加之意而已)。」陛下が聞いたことを採用し、内(国内)において誠心誠意実行することを願います。そうすれば三王(夏西周の開国の王)とも違いがなくなるでしょう。
陛下は自ら藉田を耕して農業を優先し、朝早く起きて(夙寤晨興)万民のために憂い心労しており、往古を考えて賢才を求めることに務めています。これは堯舜の用心(心遣い)と同じです。しかしまだ(賢才を)得られないのは、普段から士を奨励していないからです。普段から士を養っていないのに賢才を求めようとするのは、玉に彫刻をほどこさないのに文采(模様)を求めるようなものです。
士を養うのに重要なものは、太学以上のものはありません。太学とは賢士が関とする場所(生まれる場所。必ず通る場所)であり、教化の本原(源)でもあります。今、一郡一国の衆を対象にしながら、(郡国によっては)(賢良文学の士を推挙する詔書に応じる者がいないのは、王道が去って絶えてしまっているからです。臣は陛下が太学を興し、明師を置くことで、天下の士を養い、しばしば考問(試験)してその材(才能)を発揮させることを願います。そうすれば英俊を得られるでしょう。今の郡守、県令は民の師帥(教師見本)であり、承流(伝統の継承)・宣化(宣伝教化)をしていますが、師帥が不賢だったら主徳(皇帝の徳)が宣揚されず、恩沢が伝わりません。今の吏(官吏)は下に対する教訓(教育)をせず、あるいは主上(皇帝)の法を実行せず、百姓に対して暴虐で、姦と結んで市(利)を為しており、その結果、貧窮孤弱の者が冤苦失職しており(冤罪に苦しんで居場所を失っており)、甚だしく陛下の意から外れています。そのため陰陽が錯繆(錯乱)し、氛気(悪気)が充塞し、群生で成長するものは少なく、黎民(万民)は救いがなくなっています。全て長吏が不明なので(賢明ではないので)、このような状態に陥っているのです。
長吏の多くは郎中、中郎から出ています。二千石の官吏の子弟が郎吏に選ばれる時は、富訾(豊かな財産)に頼っているのであって、賢才であるとは限りません。それに、古における功績とは、官を任されてからその能力が職責に応じていたかどうか(任官称職)で上下が決められたのであり、日を重ねて久しいこと(積日累久)が基準になったのではありません。だから小材(小才)は日を重ねても小官から離れられず、賢材(賢才)は久しくなくても輔佐(帝王の補佐。大臣)になるのに妨げがなかったのです。そのため有司(官員)は力と知能を使い尽くし、その業を治めることに務めて功を目指したのです。しかし今はそうではありません。日が重なれば尊貴な地位を取り、久しく続ければ高官に至ります。だから廉恥が入り乱れ、賢と不肖が不明瞭で、真(真の賢人)を得られないのです。臣の愚計によるなら、諸列侯、郡守、二千石にそれぞれ吏民の中から賢者を選ばせ、歳(年)に各二人を納めさせて(皇宮の)宿衛にします。こうして大臣(諸列侯、郡守、二千石等、賢者を推挙した者)の能力を観察し、賢者を納めたら賞を与え、不肖の者を納めたら罰を与えます。このようにすれば、諸侯も二千石の官吏も皆、心を尽くして賢才を求めるようになるので、天下の士を得て、彼等に官を与えて用いることができます。天下の賢人を遍く得られたら、三王の盛も容易に為すことができ、堯舜の名にも及ぶことができます。日月(任官してからの長さ)を功にするのではなく、実際に賢能かどうか試験することを上策とし、材(才能)を量って官を授け、徳を記録して位を定めれば、廉恥が路を分けて賢と不肖が居場所を異ならせます。
陛下が恩恵を加えて臣の罪に対して寛大であり、文(文吏の法)を恐れないように命じて切磋探求させたので、臣は愚見を尽くさないわけにはいきませんでした。
 
 
 
次回に続きます。