西漢時代 淮南王の上書(前)

西漢武帝建元六年(前135年)、漢が閩越を討伐しました。

西漢時代89 武帝(八) 閩越遠征 前135年(1)

 
この時、淮南王劉安が出征に反対して上書しました。『資治通鑑』を元に上書の内容を紹介します。二回に分けます。
 
「陛下が天下に臨み、徳を布いて恵を施しているので、天下は攝然(安然。安寧無事)となり、人々はその生に安んじ(人々は自分の生業に専心しており)、没身(終生。一生)において兵革(戦争)に遭うことはないと思っています。しかし今、有司(官員)が兵を挙げて越を誅そうとしていると聞き、臣(劉安)は秘かに陛下のために重んじています(重視しています。心配しています)
越は方外(世外。異域)の地であり、剪髪文身(髪が短く体に刺青をしていること。『資治通鑑』胡三省注によると、越人はしばしば水中にいたので、髪を短くしていました。また、自分の身を守るために刺青をして龍の子に似せていました)の民です。冠帯の国(中原)の法度で治めることはできません。三代(夏西周の盛があっても胡越が正朔(中原の暦)を受けなかったのは(中原の統治下に入らなかったのは)、三代の強(国勢)が彼等を服従させられなかったからではなく、威が彼等を制御できなかったからでもありません。住むことができない地(不居之地)と統治することができない民(不牧之民)に対して、中国(中原)を煩わせる必要はない(中原が胡越のために兵を動かす必要はない)と考えたのです。漢が天下を定めてからの七十二年間も、越人が互いに攻撃し合ったことは数え切れないほどあります。しかし天子が兵を挙げてその地に入ることはありませんでした。
臣が聞くに、越には城郭邑里がなく、渓谷の間や篁竹(竹藪)の中に住んでおり、水闘に習熟し、舟を使うのが得意で、地は深昧(深暗。草木が茂っていることを指します)なうえ水険が多いので、中国の人がその勢阻(地勢険阻)を知らず中に入ったら、百人いても一人に対抗できません。その地を得たとしても郡県にはできず、攻めても暴取(迅速に奪うこと)できません。地図の上でその山川要塞を調べたら数寸の距離に過ぎませんが、実際には数百千里も離れており、険阻や林叢は(地図上に)描き尽くすことができないので、(地図を)見るだけなら容易に思えますが、実際の行動は極めて困難です。天下は宗廟の霊に頼り、方内(国内)が大寧となり、戴白の老(白髪が生えた老人)は兵革(武器。戦争)を見ず、民は夫婦で守り合い、父子で保ち合っています。これは陛下の徳のおかげです。越人は藩臣を名乗っていますが、貢酎の奉(貢物。貢は土産の物。酎は宗廟の祭祀で使う酒。但し、ここでの「酎」は実際の酒ではなく、祭祀を助けるために諸侯王が提供する金(酎金)を指します)を大内(都内)に運ぶことがなく、一卒の奉(一兵の徭役)を上(朝廷)に提供することもありません。それなのに彼等が互いに攻撃し合ったからといって、陛下が兵を発して救ったら、逆に中国をもって蛮夷の地で疲労させることになります(蛮夷のために中原の人を疲労させることになります)。そもそも越人は愚戇(愚昧)軽薄なので、盟約に背いて反覆(繰り返し裏切ること)しており、天子の法度を用いないのは一日のことではありません。彼等が一度詔を奉じなくなったからといって、兵を挙げて誅したら、今後、兵革が止む時が無くなるのではないかと恐れます。
最近、数年にわたって不作が続いており(間者数年歳比不登)、民は売爵爵位を売ること)、贅子(『資治通鑑』胡三省注によると、淮南では子を売って人の奴婢にすることを「贅子」といいました。子を質に出して三年経っても買い戻せなかったら正式に奴婢になります。一説では、「贅子」は婦人の家に婿入りさせる意味ともいいます)によって衣食をつないでいます。陛下の徳沢(恩徳)がこれを振救(救済)しているので、溝壑で死ぬ(「溝壑」は本来「渓谷」を指しますが、ここでは「野垂れ死」の意味です)ことはありませんが、四年(建元四年。二年前)は不登(不作)で五年(前年)には蝗害があり、民生(民の生活。生業)はまだ回復していません。今、兵を発して数千里を進ませたら、(動員された兵は)衣糧を携帯して越地に入り、轎(車)を肩に担いで山嶺を越え、舟を牽いて水に入り、数百千里を行軍しなければなりません。深林叢竹(森林竹林)に挟まれ、水道を(船で)上下したら巨石にぶつかり、林中には蝮蛇、猛獣が数多くいます。夏月(四月から六月)の暑い時は、嘔泄霍乱の病が相次いで襲い、兵を施して刃を接する前に(戦争が始まる前に)、間違いなく死傷者が多数に上ります。
以前、南海王が反した時、陛下の先臣(淮南厲王劉長)が将軍間忌(人名)に兵を指揮させて撃たせました。その結果、(南海王が)軍を挙げて降ったので上淦(淦水上流)に住ませましたが、後にまた反しました。ちょうど天(天候。気候)が暑く雨が多い季節に当たり、楼船の卒(水軍の将兵は水上に住んで撃棹(舟を漕ぐこと)していたため(長い間水上で生活していたため)、戦う前に疾病によって過半数の者が死んでしまいました。そのため、親老(老齢の両親)が涕泣し、孤子(幼少の孤児)が啼号し(泣き叫び)、家庭が崩壊して財産がなくなり(破家散業)、千里の外に屍を迎えに行って(既に肉が朽ちているので)骸骨を包んで帰りました。悲哀の気は数年にわたって止まず、長老は今に至ってもそれを覚えています。その地に入ってもいないのに、このような禍をもたらしたのです。陛下の徳は天地と等しく、明(英明)は日月と同じで、恩が禽獣にも至り、沢(恵)が草木にも及び、一人でも飢寒が原因で天年(天寿)を全うできずに死んだら、そのために心に悽愴(悲傷)を抱いています。ところが今は、方内(国内)狗吠の警(危険を警告する犬の鳴き声)もないのに、陛下の甲卒を死亡させ、(死体を)中原(原野)に暴露し、山谷を汚そうとしています。これが原因で、辺境の民は(城門を)早く閉じて遅く開き、朝にはその日の夜を迎えられないのではないかと憂いるようになります。臣(劉安)は秘かに陛下のためにこれを重んじています(重視しています。心配しています)。」
 
 
次回に続きます。

西漢時代 淮南王の上書(後)