西漢時代 淮南王の上書(後)

淮南王・劉安の上書を紹介しています。

西漢時代 淮南王の上書(前)

 

「南方の地形に詳しくない者は多くが越は人が多くて兵が強いから辺城に難を為せる(漢の辺境を侵略できる)と思っています。淮南が国を全て擁していた時(淮南王国が分割される前)、多くの者が辺吏(辺境の官吏)に任命されました。臣が個人的に聞いたところ、(越の風土は)中国と全く異なります。高山が境となっており、人迹(人跡)は途絶え、車道が通っていません。これは天地が外内(中国の外と内)を隔てているのです。越から中国に入るには、必ず領水を下らなければなりません。領水の山は峭峻(峻厳)で、漂石が舟を打って破壊するので、大船で食糧を運んで下ることはできません。越人が変(変事。中国への侵略)を欲するなら、まず必ず餘干(豫章郡の県名)の境内に田を開墾し、食糧を蓄えてから進入し、木材を伐って造船します。辺城の守候が慎重に警備し、越人が侵入して材木を斬ったら全て收捕(逮捕)して積聚(蓄え)を焼き捨てれば、百の越がいたとしても辺城をどうすることもできません。そもそも越人は力が弱く能力もないので(綿力薄材)、陸戦はできず、車騎や弓弩の装備もありません。それなのに(越に)入れないのは、険阻な地形によって守られており、しかも中国の人はその水土に耐えられない(適応できない)からです。臣が聞いたところでは、越の甲卒は数十万を下りませんが、その地に入るには、五倍の兵があってやっと足ります。車を挽いて食糧を運ぶ者はその中に含まれません。南方は暑湿なので、夏が近づけば癉熱(発熱する病の一種)が流行り、野外に暴露されて水上で生活したら、蝮(毒をもった虫)が現れ、疾疢(疾病)が多数発生します。兵が刃(兵器)を血で染める前に、病死する者は十分の二三に上るでしょう。たとえ越国を占領して彼等を虜にしても、損失を償うには足りません。

臣が道路の言(噂話)を聞いたところ、閩越王の弟甲が王を弑殺し、甲もこれが原因で誅殺されたため、民は属する場所がないとのことです(統治者がいないようです)。陛下が帰順を欲するのなら、中国の内地に住ませて重臣に臨存(慰問)させ、施徳垂賞(徳を施して恩賞を与えること)によって招致するべきです。そうすれば彼等は必ず老幼の者を抱きかかえて(携幼扶老)聖徳に帰順するでしょう。もし陛下にとって彼等を用いる場所がなかったら、彼等の途絶えた世(閩越王の世系)を継続させ、彼等の亡国を存続させ、彼等の王侯を建てることで越を養えば、彼等は必ず委質(忠誠を誓うこと)して藩臣となり、世世代々貢職(貢物)を供えるでしょう。陛下が方寸(一寸四方)の印と一丈二尺の組(綬)を使って方外を鎮撫すれば、一卒を労せず、一戟を壊すこともなく、威と徳を並行させることができます。

今、兵を用いてその地に入れたら、彼等は必ず震恐し、有司(漢の官員)が彼等の屠滅を欲していると思って、雉(鶏)や兔のように逃走し、険阻な山林に入ってしまうでしょう。(漢軍が)離れて去ったら、彼等は再び集結します。(漢軍が)留まってその地を守ったら、長い年月が経過して(歴歳経年)士卒は疲労困憊し、食糧も欠乏し、民は兵事に苦しみ、盗賊が必ず起こります。臣は長老がこう語るのを聞きました。秦の時代、尉(郡都尉)屠睢(屠が氏、睢が名です。『資治通鑑』胡三省注は屠姓として春秋時代晋の屠岸賈、屠蒯の名を挙げています)に越を撃たせ、更に監(郡の監御史)(禄は名。姓不明)に渠を穿って道を通じさせました。しかし越人が逃走して深山林叢(森林)に入ってしまったため、攻めることができません。軍を駐留させて空地を守りましたが、曠日(日が経つこと)が久しくなり、士卒は疲労倦怠しました。そこに越が撃って出たため、秦兵は大敗し、適戍(辺境守備のために動員された囚人や賎民)によって備えることにしたのです。当時は外内(内外)が騒乱動揺し、人々は皆生活を維持できず、逃亡する者が相次ぎ、群れを為して盗賊となりました。こうして山東の難(乱)が始まったのです。兵(戦)とは凶事です。一方に急(危急)があれば四面が全て立ち上がります(または「四方が驚いて動揺します」。原文「皆聳」)。臣は変故(変乱)の生(出現。発生)と姦邪の作(発生。隆起)がここから始まるのではないかと恐れています。

臣はこう聞いています。『天子の兵には征伐はあっても戦争はない(天子之兵有征而無戦)』。これは敢えて(天子と強弱を)較べる者はいないという意味です。もし越人が徼幸(幸運)を蒙って執事(政治を行う者。漢の朝廷)の顔行(前を進む者。先鋒部隊)に逆らうように促し、廝輿の卒(「廝」は薪を刈る者。「輿」は車を御す者。あわせて賎役の人。身分が低い士卒)の中に一人でも不備に乗じて(隙に乗じて)帰る者がいたら(天子が兵を出したために越を戦争に誘うことになり、越人が漢の先鋒部隊を迎撃して一人でも無事に帰ることになったら。本来、天子と争おうという者はいないはずなのに、越が天子の軍を迎撃することになり、しかも越軍を殲滅できなかったら)、たとえ越王の首を得たとしても、臣は心中で大漢のために羞恥を抱きます。陛下は四海を境としており、そこに属す生民(人民)は全てが臣妾(奴婢)です。徳恵を降してそれらを覆露(覆って潤すこと)し、生活を安定させて本業を楽しませれば(安生楽業)、沢(恩恵)は万世を覆い、それは子孫に伝えられ、無窮に施され、天下の安泰は泰山の四方を縄で繋いだように堅固になります。夷狄の地は一日の娯楽にも使えないのに、どうして汗馬の労を煩わせる必要があるのでしょう。『詩(大雅常武)』にはこうあります『王の信が満たされたから、徐方(東方の異民族)が帰順した(王猶允塞,徐方既来)。』これは王道が甚大なので遠方が心服したことを言っているのです。臣(劉安)は、将吏が十万の帥を率いて行うことが一使の任に過ぎないのではないかと心中で心配しています(大軍を動員しなくても一人の使者を派遣すれば越を鎮撫できるはずです)。」