西漢時代 賈捐之の進言

西漢元帝初元二年(前47年)元帝が珠厓討伐を考えましたが、賈捐之が反対しました。

西漢時代222 元帝(五) 蕭望之の死 前47年(3)

 
以下、『漢書厳朱吾丘主父徐厳終王賈伝下(巻六十四下)(本文と注釈)からです。
 
元帝初元元年、珠厓が反したため、漢朝廷は兵を発して攻撃しました。しかし諸県が更に背き、年を経ても平定できませんでした。
元帝は有司(官員)と大軍を送ることを議論します。
しかし賈捐之が建議して攻撃に反対しました。

元帝は侍中駙馬都尉楽昌侯王商を送って賈捐之を詰問させました。王商が言いました「珠厓が内属して郡になって久しい。今、背畔(背反)して節に逆らったのに、汝は撃つべきではないと言って蛮夷の乱を助長させ、先帝の功徳を損なった。経義の何を根拠としているのだ?」

 
賈捐之が言いました「臣は幸いにも明盛の朝に遇い、危言(直言)の策(質問)を蒙り、忌諱の患がないので、敢えて死を冒して忠誠を尽くします(敢昧死竭巻巻)
臣が聞いたところ、堯・舜は聖の盛であり、禹は聖域に入りましたが優ではありませんでした堯・舜・禹は聖人ですが、禹は堯・舜には劣りました)。そのため孔子は堯を称えて『偉大だ(大哉)』と言い、『韶(舜の音楽)』を称えて『善を尽くした(尽善)』と言い、禹を称えて『批難すべきことがない(無閒)』と言ったのです。しかしこの三聖の徳をもってしても、地方は数千里を越えませんでした。西は流沙に接し、東は海に入り、朔南(「朔」は北方辺境の地です)に声教が及んで四海に至りました。(人々が)声教を与えられることを欲したらそれを治め、与えられることを欲しなかったら強引に治めはしませんでした。だから君臣に徳があって歌になり、気を含む物(万物。あるいは生物)がそれぞれ便宜を得たのです。

武丁(高宗)と成王は殷(商)周の大仁でしたが、その地は、東は江江国と黄国)を越えず、西は氐羗を越えず、南は蛮荊を越えず、北は朔方を越えませんでした。しかしそのおかげで頌声が並んで作られ、視聴の類(目と耳がある生物)は全てその生を楽しみ、越裳氏が九訳を重ねて(九人の通訳を通して。遠方から来たことを表します)献上しました。これは兵革(戦争)によって至らせられることではありません。しかし衰弱してからは、西周昭王が)南征して還らず、斉桓(斉桓公がその難(王室の難)を救い、孔子がその文を定めました(孔子が『春秋』を編纂し、たとえ夷狄が強大になって王を自称しても、王位を認めず「子」と称しました)

秦の時代になると、兵を興して遠くを攻め、外に対して貪婪で内を空虚にし、地を拡げることに務めてその害を考慮しませんでした。しかしその地は、南は閩越を越えず、北は太原を越えず、しかも天下が潰畔(壊滅離反)しました。禍は二世の末年に至って終わりましたが、『長城の歌(秦の労役を怨む歌)』は今に至っても途絶えていません。
幸いにも聖漢が興隆し、百姓のために命を請い(百姓の命を助け)、天下を平定しました。孝文皇帝の時代に至り、中国がまだ安定していないことを憐れんで、武を休めて文を行った結果、断獄(裁判)は数百に減り、民賦は四十、丁男は三年に一事となりました(通常は一年に百二十銭の賦税を納め、毎年、一定期間の徭役に従事する義務がありましたが、人口が増えたため賦税は四十銭になり、徭役も三年に一度になりました)。当時、千里の馬を献上する者がいましたが、(文帝は)詔を発してこう言いました『鸞旗(皇帝が外出する時、先導する旗)が前におり、属車随行の車)が後ろにいる。吉行(通常の外出)は一日に五十里を進み、師行(行軍)は三十里を進むだけなのに、朕だけ千里の馬に乗って一人で先にどこへ行くのだ。』(文帝は)馬を返して道里の費を与え、また詔を下してこう言いました『朕は献物を受け取らない。よって四方に命じて来献の機会を求めさせないようにする(四方が朝廷に貢物を献上してはならない)。』当時は逸游の楽(音楽)が絶たれ、奇麗の賂(珍しくて豪華な贈物。賄賂)が塞がれ、鄭衛の倡が少なくなりました。後宮で色が盛んになれば(美女が増えたら)賢者が隠居し、佞人が用事(政事を行うこと)したら諍臣が口を閉ざすものですが、文帝はそうしなかったので、謚号を孝文とされ、廟を太宗と称されているのです。
孝武皇帝元狩六年に至ると、太倉の粟が紅腐(腐って赤くなること)して食べられず、都内の銭貫(貨幣を繋ぐ紐)が朽ちて数えられなくなりました(国が豊かになって食糧や貨幣が余ったという意味です)。そこで平城の事匈奴が高帝を包囲した事)を追求し、冒頓以来、匈奴が)しばしば辺境の害となった事を思い出して、兵馬を訓練し(厲兵馬)、富民によって(富民の財を利用して)これを攘服(退けて服従させること)しました。西は諸国と連なって安息に至り、東は碣石を越えて玄菟、楽浪を郡にし、北は匈奴を万里も退けて新たに営塞を築き、南海を制して八郡としました。ところが、天下の断獄(裁判)は万を数え、民賦は数百(銭)になり、塩鉄酒榷(塩鉄酒の専売)の利を作って用度(費用。支出)を助けてもまだ足りませんでした。当時は寇賊が並び立ち、軍旅をしばしば発したため父が前で戦死して子が後ろで戦傷し、女子が亭鄣に上り(堡塁を守り)、孤児が道で号泣し、老母寡婦が街巷で流れる涙を飲みこみながら哀哭し(飲泣巷哭)、死体がないのに遥か離れた死者を祀り(遥設虚祭)、その魂が万里の外にあることを想いました。また、淮南王が虎符を盗んで移し、秘かに名士を雇いました。関東の公孫勇等が偽って使者になりました。これらは全て廓地(領地)が大きすぎて、征伐に休みがなかったことが原因です。
今、天下には関東しかなく(天下を支えているのは関東です)、関東で大きいのは斉・楚しかありませんが、民衆は久しく困窮し、連年流離して自分の城郭から離れ、道路に枕席(枕や蓆)を並べて寝ています。人情において父母より親しいものはなく、夫婦より楽しいものはありません。しかし民が妻を嫁がせて子を売っていても、法で禁じることはできず、義によって止めることもできません。これは社稷の憂です。今、陛下は悁悁(憤怒の様子)の忿(怒り)を忍びず、士衆を駆って大海の中に落とし、幽冥の地で快心させようと欲していますが、これは飢饉を救助して元元(民衆)保全することにはなりません。『詩(小雅・采芑)』にはこうあります『汝等愚かな蛮荊が大国と敵対した(蠢爾蛮荊,大邦為讎)』。これは聖人が起きた後に(異民族が)服し、中国が衰退したら(異民族が)先に畔(叛)し、(異民族が)動いたら国家の難となり、古からこれを患(憂い)として久しくなることを語っています。その(荊蛮の)更に南方にある万里も離れた蛮ならなおさらでしょう(昔から荊蛮が服従しないことが憂いとなっていたのですから、荊蛮よりも離れた地が服従しないのは当然です)

駱越の人は父子が同じ川で浴し、習慣上、鼻を使って飲み(鼻飲)、禽獣と差がないので、元々郡県を置くには足りません。顓顓(専専。単独の意味)として一海の中に孤立しており、霧露がひどくて湿度が高く(霧露気湿)、毒草蟲虵(害虫蛇)や水土の害が多いので、人(漢兵)が虜(敵)を見る前に(または「相手が捕虜になる前に」。原文「人未見虜」)戦士が自死します。また、珠厓だけから珠(真珠)瑇瑁(海亀)が採れるわけでもありません。これを棄てても惜しむには足らず、撃たなくても威を損なうことはありません。その民は魚鼈(魚やすっぽん)のようなものなのに、何を貪る必要があるのですか。

以前の羌との軍事(『資治通鑑』胡三省注によると宣帝神爵元年61年の羌討伐)を窺い見て説明しましょう。(当時は)師を曝して一年も経たず、兵を出して千里も越えませんでしたが、費は四十余万万(億)となり、大司農の銭が尽きてしまったので少府の禁銭(皇帝の費用とする金銭)を使って出費を続けました。一隅(一角)が不善(叛乱)を為しただけで費用がこのようになったのです。師(軍)を労して遠くを攻めたらなおさらであり、士を失っても功は立てられないでしょう。往古に求めても符合せず(往古に前例を探しても見つからず)、当今に施してもやはり不便となります(今実行してもやはり利がありません)。臣の愚見によるなら、冠帯の国(文明国)でなければ、『禹貢』が言及して『春秋』が治めた(記載した)場所でも、皆、とりあえず何も為さなくてもかまいません。珠厓を放棄し、関東を憂いとして救済に専念すること(専用恤関東為憂)を願います。」