西漢時代 王嘉の上書

西漢哀帝建平三年(前4年)、王嘉が丞相になりました。

西漢時代294 哀帝(九) 東平王事件 前4年

 
当時は政治が苛急(厳酷)で、郡国の守相の変動が激しかったため、王嘉が上書しました。以下、『資治通鑑』からです。

「臣が聞くに、聖王の功は人を得ることにある(人を得られるかどうかにかかっている)といいます。孔子はこう言いました『才を得るのは難しい。その通りではないか(「材難,不其然與」。『論語』の言葉です)。』だから世を継いで諸侯に立った時、(祖父や父に)似ていれば賢才とするのです(「継世立諸侯,象賢也」。『礼記郊特牲』の言葉です。完全な賢人を得るのは難しいので、祖父や父に似ていれば賢才とみなしました)。たとえ賢を尽くすことができなくても(完全な賢才でなくても)、天子が(諸侯のために)臣を選び、命卿を立ててこれを輔佐させました(「命卿」は天子の命を受けた卿です。以下、『資治通鑑』胡三省注からです。大国には三卿がおり、全て天子に任命されました。次国にも三卿がおり、二卿が天子に任命され、一卿は国君に任命されました。小国には二卿がおり、どちらも国君に任命されました。春秋時代になると、例えば晋国に六卿がおり、中軍の帥が正卿になりました。国君が先に任命してから周の天子に報告します。斉の高氏、国氏や魯の三桓は全て世卿世襲の卿)でした。漢代の王国では傅、相、中尉が天子に任命されました。古の命卿と同じです)(諸侯は)その国において累世(代々)尊重され、その後に士民が衆附(大勢が帰服すること)したのです。これは教化が行われて治功(治政の功業)が立っていたからです。

今の郡守は古の諸侯より(権勢が)重く(『資治通鑑』胡三省注によると、周初の爵位は五等あり、公侯の地は方百里、伯は七十里、子男は五十里でした。後に斉、晋、秦、楚等の国が土地を兼併したため、諸侯が治める地が拡大していきました。漢の郡守は治める地が千里にわたり、十数城を連ねたので、周初の諸侯よりも大きな権勢を持っていました)、以前は賢材(賢才)を致選(極選。厳選)していましたが、賢材は得難いので、用いられる者(任用できる者。原文「可用者」)を抜擢し、囚徒の中から起用することもありました。昔、魏尚は事に坐して(牢に)繋がれましたが、文帝が馮唐の言に感じたため、使者に符節を持たせて派遣し、その罪を赦して雲中太守に任命しました(文帝十四年166年参照)。その結果、匈奴がこれ(魏尚)を嫌いました。武帝は徒中(囚徒の中)から韓安国を抜擢して梁内史に任命し、その結果、骨肉(皇族)が安定しました(『資治通鑑』胡三省注によると、韓安国は罪を犯しましたが、梁の内史が不足していたため、漢朝廷が使者を送って韓安国を梁内史に任命し、徒中から二千石に起用しました。景帝時代の事で、「武帝」としているのは誤りです。その後、韓安国は罪を犯した梁孝王(劉武)を諫めて改心させました。景帝中二年148年参照)。張敞は京兆尹となりましたが、罪があったため罷免されることになりました。すると黠吏(狡猾な官吏)がそれを知って張敞を犯しました(張敞の指示を聞きませんでした)。張敞がこれ(黠吏)を逮捕して殺すと、その家が冤罪を訴えます。(朝廷の)使者が覆獄(再審)し、張敞が人を賊殺(殺害)したことを弾劾して逮捕を請う上奏をしましたが、(天子は上奏文を群臣に)下さず、(張敞は)免官されました。亡命して十数日後に、宣帝は張敞を召して冀州刺史に任命し(宣帝甘露元年53年参照)、ついにその能力を得ました(卒獲其用)。前世(先帝)はこの三人を個人的に愛していたのではありません(非私此三人)。公家にとって益がある材器(才能器量)を貪ったのです(欲しがったのです)

孝文の時代、吏(官吏)で官にいる者は、あるいは長く子孫に及びました。倉氏、庫氏は倉庫の吏の後代です(代々官位を継いだので、官名が氏になりました)。二千石の長吏も官に安んじて職を楽しむようになり、上下が互いに望んで(原文「相望」。恐らく「上下が互いに奨励し合う」「上に向かうように努力しあう」という意味です)、苟且(目先だけを考えること)の意がありませんでした。しかし後に少しずつ変化し、公卿以下の交代が激しくなって(伝相促急)、しかもしばしば政事が改更(改変)されました。司隸や部刺史(『資治通鑑』胡三省注によると、司隸は三輔と三河、弘農を管理し、その他の郡国は州部刺史が管理しました)の挙劾(検挙弾劾)は苛細(苛酷で細かいこと)になり、陰私(私事)を発揚し、吏のある者は官にいて数カ月で退けられ、旧官を送って新官を迎える人が道路で交錯しました。中材(中才)の者は身を屈して世に追従することで安全を求め(苟容求全)、下材の者は危機感を抱いて自分を顧み(懐危内顧)、一切を自分だけのために計る者(一切営私者)が多くなりました。

二千石(郡守国相)はますます軽賎になり、吏民が慢易(軽視)しています。ある者はその(二千石の官員の)微過(些細な過失)をつかんだだけで、拡大して罪を成立させ、司隸や刺史に語ったり、あるいは上書告発しています。衆庶(民衆)(二千石の官員が)容易に危うくなることを知り、少しでも失意があれば(郡守国相に少しでも不満があれば)すぐに離畔(離反)の心を抱いています。以前、山陽の亡徒蘇令等が縦横しましたが(成帝永始三年14年参照)、吏士が難に臨んでも伏節死義(節に伏して義のために死ぬこと)の者がいませんでした。これは守相の威権がかねてから奪われていたからです。孝成皇帝はこれを悔いて詔書を下し、二千石は故縦(故意に罪人を逃がすこと)を罪とみなさないことにし、使者を派遣して金を下賜し、その意(心)を厚く慰めました。誠に、国家に急があったら二千石によって処理され(取辦於二千石)、二千石が尊重されて(その地位を)危うくするのが難しければ、下の者を使うことができると判断したのです。

孝宣皇帝は民を善く治める吏を愛したので、弾劾する章(上奏文)があっても事(罪。事件)を中に留め(群臣に下さず)、赦大赦があってから一切を解決しました。故事(前例)では、尚書はめったに章(官吏を弾劾する上奏文)を下しませんでした。(章を下したら)百姓を煩擾(混乱。動揺)させることになり、証(立証)(審査)(逮捕)(処罰)を行って、あるいは獄中で死ぬ者もいるので、章文には必ず『敢えてこれを告げる(敢告之)』という字を書いてから下しました(讒言誣告を防ぐために慎重にしました)

陛下が賢才を選ぶことに留神(留意)し、善を記憶して過(罪)を忘れ、臣子を容忍(許容)し、官員が完備かどうかで譴責しないこと(官員に完全無欠を求めないこと。原文「勿責以備」)を願います。二千石、部刺史、三輔県令で材(才能)があって職を任せられる者でも、人の情として過差(過失)を犯さないということはできません。闊略(寛大、寛容でいること)とした態度を示して、尽力している者の励みとするべきです。これは今の急務であり、国家の利でもあります。以前、蘇令が発した時、大夫を送って状況を逐問(訊問)しようとしましたが、当時の大夫を見ると、使者となれる者がいませんでした。そこで厔令尹逢を諫大夫に任命して派遣したのです。今、諸大夫で材能(才能)がある者は甚だ少なくなっています。よって成就できる者をあらかじめ畜養(育成)するべきです。そうすれば士が難に赴いても命を惜しまなくなります(不愛其死)。事に臨んでから慌てて求めても、それは朝廷を明らかにする方法ではありません(原文「非所以明朝廷也」。『資治通鑑』胡三省注によると、朝廷とは人材が集まる場所です。「朝廷を明らかにする」というのは、朝廷に人材がいることを示すという意味で、事が起きてから慌てて人を求めたら、朝廷に人材がいないことを示してしまいます)。」

 
資治通鑑』胡三省注は「王嘉のこの上書は誠に当時の病を言い当てている」と評しています。