東漢時代2 光武帝(二) 朱鮪の帰順 25年(1)
乙酉 25年
同じ月に赤眉も劉盆子を天子に立てました。
秋七月辛未(初五日)、前将軍・鄧禹を大司徒に任命しました。
丁丑(十一日)、野王令・王梁を大司空に任命しました。
壬午(十六日)、大将軍・呉漢を大司馬に、偏将軍・景丹を驃騎大将軍に、大将軍・耿弇を建威大将軍に、偏将軍・蓋延を虎牙大将軍に、偏将軍・朱祐(朱祜)を建義大将軍に、中堅将軍・杜茂を大将軍に任命しました。
当時、宗室の劉茂が自ら「厭新将軍」と号していましたが、衆を率いて東漢に降ったため、中山王に封じられました。
耿弇に彊弩将軍・陳俊を率いて五社津に駐軍させ、滎陽以東に備えました。
また、呉漢に朱祐(朱祜)と廷尉・岑彭、執金吾・賈復、揚化将軍・堅鐔等十一将軍を率いて洛陽で朱鮪を包囲させました。
その後、光武帝は河陽に進みました。
以上は更始時代に詳述した内容です。
以前、宛の人・卓茂(卓が氏です)は寬仁恭愛・恬蕩楽道なうえ(「恬蕩」は平然としておだやかなこと、心が広くてゆったりしていることです。「楽道」は道を楽しむこと、聖人の道義を守ることです)、雅実(方正実直)で飾ることなく(不為華貌)、行動は清濁の間(中庸)にあり、束髪(冠礼前の年齢)から白首(白頭。老齢)に至るまで、人と争い競ったことがなかったため、郷党の故旧(知人。旧知)はたとえ行能(品行能力)が卓茂と異なっても、皆、喜んで愛慕しました(皆愛慕欣欣焉)。
西漢哀帝と平帝の時代に密令(密県の令。『後漢書・光武帝紀上』では「高密令」としていますが、『後漢書・卓魯魏劉列伝(巻二十五)』では「密令」となっており、『資治通鑑』は列伝に従っています。胡三省注によると、密県はかつての鄶国と密国の地です)になり、民を我が子のようにみなしました。善(善事。善行)を挙げて(称揚して)民を教化し、口に悪言がなかったため、吏民が卓茂を親愛して欺くのが忍びなくなりました(卓茂を欺けなくなりました)。
ある時、卓茂の管轄下に属す亭長を訴えた民がいました。訴えの内容は、民が贈った米肉を亭長が受け取ったというものです。
卓茂が問いました「亭長は汝から(米肉を)求めたのか(為從汝求乎)?汝が(亭長に)頼み事をしたから(亭長が礼物を)受け取ったのか(為汝有事囑之而受乎)?普段から恩意があるから(汝が亭長に礼物を)贈ったのか(将平居自以恩意遺之乎)?」
民が言いました「(私が)贈りに行ったのです(往遺之耳)。」
卓茂が問いました「物を贈ったから受け取ったのに、なぜそれを言うのだ(訴えるのだ)?」
民が言いました「私が聞くには(竊聞)、賢明な君は民に吏を畏れさせず、吏に民から(財物。礼物を)取らせないといいます。今、私は吏を畏れているので、(礼物を)贈りました。そして吏は最後にはそれを受け取ったので、これを言いに(訴えに)来たのです。」
卓茂が言いました「汝は敝民(悪い民)である。人が群れになって生活しても、乱れることなく禽獣と異なるのは、仁愛礼義があり、互いに尊重して仕えることを知っているからである(知相敬事)。汝だけはそれを修めることを欲しないが、高く飛んで遠くに走り、人間(人の世)からいなくなることができるというのか。(禁止しているのは)吏が威力に乗じて強く請求してはならないということだけだ。亭長は元々善吏なので、歳時(年ごと、または季節ごと))に(礼物を)贈るのは礼である。」
民が問いました「そのようであるのなら、律はなぜ禁じているのですか?」
卓茂が笑って言いました「律は大法を設け、礼は人情に順じるものだ。今、私が礼によって汝に教れば、汝は間違いなく怨悪を持つことがない。しかし律によって汝を治めたら(裁いたら)、汝はどこに手足を置く場所があるのだ(手足を置く場所がないというのは、緊張や恐怖のためどうすればいいか分からないという意味です。原文「何所措其手足乎」)。この一門の中で(原文「一門之内」。恐らく「この官府の中」でという意味です)、(刑法を用いるとしたら、罪が)小さい者は論じ(罪を裁き)、大きい者は殺すことができる。とりあえず帰ってこれを念じてみよ(考えてみよ)。」
そのため河南郡が守令を置きました。
この「守令」は県令の政務を代行する者です。『資治通鑑』胡三省注によると、卓茂は正式な県令ですが、郡が「守令」を置いて卓茂と並居させました。
卓茂は郡が置いた守令を嫌うことなく、今まで通り自由に政事を治めました。
その結果、数年後には教化が大行し(行き届き)、道に物が落ちていても拾って着服する者がなくなりました(道不拾遺)。
卓茂は後に京部丞に昇進しました。
卓茂が去ることになったため、密の人々は老少そろって涙を流し、卓茂の後について送り出しました。
王莽が居摂すると、卓茂は病を理由に官を免じて帰郷しました。
本年、光武帝が即位してすぐに卓茂を求め尋ねました。
卓茂はこの時七十余歳でした。
東漢軍の諸将が洛陽を数カ月にわたって包囲しましたが、更始軍の朱鮪が堅守したため攻略できませんでした。
『後漢書・馮岑賈列伝(巻第十七)』によると、岑彭は大司馬・朱鮪の校尉になり、後に淮陽都尉を経て潁川太守に任命されましたが、劉茂が挙兵して潁川を攻略したため(玄漢劉玄更始三年・25年参照)、潁川に着任できなくなり、麾下数百人を率いて河内太守で邑人(同郷)の韓歆を頼りました。
本文に戻ります。
朱鮪が城壁の上におり、岑彭が城壁の下で成敗(利害)について述べました。
朱鮪が言いました「大司徒(劉縯)が害された時、鮪(私)はその謀に関わった。また、更始に蕭王を派遣して北伐させるべきではないと諫言した。誠に自分の罪が深いことを知っているから、投降はできない(不敢降)。」
岑彭が帰って光武帝に詳しく話すと、光武帝はこう言いました「大事を挙げる者は小怨を憎まないものだ(挙大事者不忌小怨)。朱鮪が今もし投降したら、官爵を保つことができるのだ。誅罰するはずがない(況誅罰乎)。河水がここにあり、わしは食言(妄言。約束を破ること)しない(河水に誓って約束しよう。原文「河水在此吾不食言」)。」
岑彭が再び城下に行って朱鮪に告げました。
朱鮪は城壁の上から縄を下して「必ず信があるのなら(必信)、これを使って登れるはずだ(可乗此上)」と言いました。
岑彭は縄に向かって進み、城壁を登ろうとします。
朱鮪はその誠意を見て投降に同意しました。
辛卯(二十六日)、朱鮪が両手を後ろに縛って(面縛)岑彭と共に河陽に行きました。
光武帝は朱鮪の縄を解いてから接見します。
その後、また岑彭に命じて夜の間に朱鮪を城に帰らせました。
翌朝、朱鮪が蘇茂等と共に全ての衆を率いて城を出て、光武帝に投降しました。
光武帝は朱鮪を平狄将軍に任命し、扶溝侯に封じました。後には少府を勤め、封爵が代々継承されます。
将軍・蕭広が兵士の横暴をほしいままにさせていたため、杜詩が敕曉(戒めて諭すこと)しましたが、蕭広は改めませんでした。
ここから洛陽が都に定められます。
『後漢書』の注によると、南宮と北宮の距離は七里あり、その間に大屋・複道(「大屋」は大きな建造物、「複道」は上下二層の楼閣です)が造られ、三本の道が通っていました。天子が中道を進み、左右の道は従官が使います。十歩ごとに一衛がいました。
「却非殿」は宮閣(宮殿)の名です。
次回に続きます。