東漢時代8 光武帝(八) 糟糠の妻 26年(3)

今回も東漢光武帝建武二年の続きです。
 
[] 『資治通鑑』からです。
更始政権の鮑永と馮衍は更始帝劉玄が確かに死亡したと知り、喪を発して東漢の儲大伯等を釈放しました(儲大伯は前年に捕えられていました)
鮑永等は印綬に封をして献上し、全ての兵を解散させ、幅巾(頭巾)を被って河内光武帝行幸している脩武県)を訪ねます。
資治通鑑』胡三省注によると、戦国時代、趙魏一帯では頭巾を「承露」といい、庶人から軍旅(軍人)に及ぶまで皆、頭巾を被っていました。東漢末になると、王公や卿士の多くが王服(冠を被ります)を身につけず、頭巾を雅と考えました。そのため、袁紹や崔鈞等は将帥になっても縑巾(絹製の頭巾)を使いました。
 
鮑永が帰順した時の事を『後漢書申屠剛鮑永郅惲列伝(巻二十九)』はこう書いています。
「当時、光武帝は懐を攻略できていなかったため、鮑永にこう言った『私は懐を攻めて三日になるが、兵(敵兵)が降らない。関東は卿を畏服しているから、(卿なら)故人(旧知)として自ら城下に行き、彼等を諭せるはずだ。』
光武帝は鮑永を諫議大夫に任命して懐に派遣した。
鮑永が懐の城下に至って更始政権の河内太守を説得すると、懐は城門を開いて投降した。
光武帝は大いに喜んで鮑永に洛陽商里の邸宅を下賜したが、鮑永は固く辞退して受け取らなかった。」
 
この記述について『資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)はこう書いています「光武帝は洛陽を都にする前からしばしば懐を行幸しており、懐宮で高祖を祀ったこともある。また、更始政権の河内太守が懐を占拠したという記述もないし、『光武本紀』にも懐攻撃の一節は書かれてない。(中略)懐を降したという記述は史書の誤りである。」
 
本文に戻ります。
光武帝が鮑永に会って問いました「卿の衆はどこに居る?」
鮑永は席から離れて叩頭し、こう答えました「臣は更始に仕えても全うさせることができませんでした。その衆によって富貴を望むことに対して誠に慚愧したので(誠慙以其衆幸富貴)、全て解散させました(故悉罷之)。」
光武帝は「卿の言は大きい(偉大だ。崇高だ。原文「卿言大」)」と言いましたが、心中では喜びませんでした。
 
暫くして鮑永は功を立てて重用されるようになりました。
後漢書桓譚馮衍列伝上』によると、光武帝は馮衍等がすぐに至らなかったことを怨みましたが、鮑永は功を立てて贖罪したため任用されるようになりました。
後漢書申屠剛鮑永郅惲列伝』に鮑永の功績が書かれています。
当時、董憲の裨將が魯に駐軍し、百姓を侵害していました。そこで光武帝は鮑永を魯郡太守に任命しました。
鮑永は魯郡に至ってから董憲を討伐して大勝します。董憲の衆数千人が鮑永に投降しました。
しかし別帥の彭豊、虞休、皮常等だけはそれぞれ千余人を率いて将軍と称し、降ろうとしませんでした。
(略)鮑永は衆人を集めて郷射の礼を修め(射術を競う大会を開き)、彭豊等も共に観視(見物)するように誘いました。その機に捕えるつもりです。
一方の彭豊等も鮑永を害しようと欲していたため、兵器を隠し持って参加し、牛酒で労饗(慰労)しました。
それを察した鮑永は自らの手で彭豊等を格殺(撃殺)して党与の者を逮捕しました。
光武帝は鮑永の策略を嘉して関内侯に封じ、揚州牧に昇格させました。
 
本文に戻ります。
鮑永は光武帝に重用されましたが、馮衍は(積極的に仕官しなかったため)用いられませんでした。
鮑永が馮衍に言いました「昔、高祖は季布の罪を賞し、丁固(丁公)の功を誅した(高祖は罪がある季布を賞して功がある丁公を誅殺した。西漢高帝五年202年参照)。今、明主に遭遇したのに、何を憂いているのか(以前、帝に抵抗したが、心配する必要はない。なぜ帝に仕えないのだ)。」
馮衍が言いました「(『資治通鑑』胡三省注によると、以下の寓話は陳軫が秦王に語った話で、『戦国策』からの引用です)ある人が隣人の妻を誘ったところ(人有挑其鄰人之妻者)、長者(年長の婦人)は罵り、少者(若い婦人)は報いた(誘いに応じた)。後にその夫が死ぬと、(隣人の妻を誘った男は)長者を娶った。ある人が彼にこう言った『(あなたが選んだのは)あなたを罵った者ではありませんか?』(その男は)こう答えた『人の家にいるのなら私に報いることを欲するが、私の家にいるのなら人を罵ることを欲する(在人欲其報我,在我欲其罵人也)。』
天命は知るのが難しいが、人の道とは守るのが容易なものだ(夫天命難知人道易守)。守道の臣(道義を守る臣)がどうして死亡を患いるだろう(自分は旧主のために帝に対抗した守道の臣なので、死ぬことも恐れない。よって現状を憂いることもない)。」
 
[十一] 『後漢書光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。
大司空王梁がしばしば光武帝の詔命に逆らいました。
 
後漢書朱景王杜馬劉傅堅馬列伝(巻二十二)』によると、王梁は大司馬呉漢等と共に檀郷兵を攻撃しました。この時、光武帝の詔があり、軍事は一括して大司馬に属すことになっていましたが、王梁は勝手に野王の兵を動員しました。
王梁が詔敕に従わないため、光武帝は所在していた県で止まるように命じましたが、王梁はまた自分の判断で進軍しました(以便宜進軍)
 
王梁が詔に従わないため、怒った光武帝尚書宗広を派遣し、符節を持って軍中で王梁を斬るように命じました。
しかし宗広は檻車で王梁を京師に送ります。
王梁が京師に到着すると、光武帝はその罪を赦し、中郎将に任命して北の箕関を守らせました(大司空の職は罷免されました)
 
[十二] 『後漢書光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。
壬子(十九日)光武帝が太中大夫京兆の人宋弘を大司空に任命しました。王梁の代わりです。
 
宋弘が沛国(『資治通鑑』胡三省注によると、光武帝によって沛郡は沛国に改められました)の人桓譚を推挙しました。
桓譚は議郎給事中に任命されます。
 
光武帝は桓譚に琴を弾かせ、繁声(複雑な音楽。または中身がない軽薄な音楽。下に「鄭声」とあるので、ここでは淫蕩な音楽を指すようです。「鄭声」は周代鄭国の歌で、男女の関係を歌った歌詞が多く、知識人からは淫蕩な音楽とされていました)を愛しました。
宋弘はそれを聞いて不快になります。
ある日、宋弘は桓譚が宮内から出た機会を伺い、身なりを朝服に正して府上(大司空府)に坐り、官吏を派遣して桓譚を招きました。桓譚が来ると席も与えず譴責し、「自分で改めることができるか?それとも法によって相(大臣)に検挙させるか?」と問いました。
桓譚は頓首して謝罪しましす。
宋弘は久しくしてやっと桓譚を去らせました。
 
後に光武帝が群臣を集めて大きな宴会を開き、桓譚に琴を弾かせました。
桓譚は宋弘を見て常度(常態。普段の様子)を失います。
光武帝が怪しんで理由を問うと、宋弘が席を離れて冠を脱ぎ、謝罪してこう言いました「臣が桓譚を推薦したのは忠正によって主を導くことができると望んだからです。それなのに朝廷を鄭声に耽悦させているのは臣の罪です。」
光武帝は様相を改めて謝りました。
 
湖陽公主光武帝の姉・劉黄)の夫が死んだため、光武帝は公主と一緒に朝臣について議論し、秘かに公主の心中を窺いました。
公主が言いました「宋公宋弘)の威容徳器は群臣で及ぶ者がいません。」
光武帝が言いました「これを図ってみよう(宋公との婚姻を進めてみよう。原文「方且図之」)。」
後に宋弘が光武帝に招かれました。
光武帝は公主を屛風の後ろに坐らせてから、宋弘に問いました「諺にはこうある『貴くなったら(友人との)交わりを換え、富を得たら妻を換える(貴易交,富易妻)。』これは人情ではないか?」
宋弘はこう答えました「臣は『貧賎の知人は忘れることができず、糟糠の妻は堂(正堂)から下げない(貧賎之知不可忘,糟糠之妻不下堂)』と聞いています。」
光武帝は後ろを向いて公主に「事はうまくいかなかった(事不諧矣)」と言いました。
 
この故事から「糟糠の妻」という言葉が生まれました。
「糟糠」は「酒かすや米ぬか」のことで、粗末な食事です。「堂から下げない」というのは「座敷から下ろさない」という意味で、「正妻の座を奪わないこと」を指します。
「糟糠の妻」とは「貧しい頃に苦労を共にしてきた妻」という意味で使われています。
 
[十三] 『後漢書光武帝紀上』からです。
光武帝が驃騎大将軍景丹に征虜将軍祭遵等二将軍を率いて弘農賊を撃たせました。
東漢軍が弘農賊を破ります。
これを機に祭遵を派遣して蛮中賊(蛮中は地名です)張満を包囲させました。
 
資治通鑑』はこれを九月に書いています(再述します)
 
 
 
次回に続きます。

東漢時代9 光武帝(九) 彭寵謀反 26年(4)