東漢時代14 光武帝(十四) 赤眉滅亡 27年(2)

今回は東漢光武帝建武三年の続きです。
 
[] 『後漢書光武帝紀上』と『後漢書劉玄劉盆子列伝(巻十一)』と『資治通鑑』からです。
赤眉の余衆が東の宜陽に向かいました。
これは『資治通鑑』の記述です。前述のとおり、『後漢書光武帝紀上』は「(赤眉の)余衆は南の宜陽に向かった」と書いています。しかし『中国歴史地図集(第二冊)』を見ると、宜陽は湖県の東にあるので、『資治通鑑』が正しいはずです。
 
己亥(恐らく閏正月十二日です。鄧禹が大司徒の官を免じた記述(閏月乙巳・十八日)と前後が入れ替わっています)赤眉の動きを聞いた光武帝が宜陽に行幸しました。
甲辰(十七日)光武帝が自ら六軍を指揮して大いに軍馬を並べました(大軍による陣を構えました。原文「大陳戎馬」)大司馬・呉漢の精卒(精兵)が前に当たり、中軍が次になり、驍騎(勇猛な騎兵)・武衛(戦士)が分かれて左右に陣を布き、充分な準備を整えて赤眉が東に帰る道で待ちかまえます(『資治通鑑』では「厳陳以待之」、『後漢書劉玄劉盆子列伝』では「盛兵以邀其走路」です)
 
赤眉は遠くで東漢の陣容を眺め見ました。突然、東漢の大軍に遭遇したため、驚震してどう対応すべきか分からなくなり、劉恭を派遣して投降を請います。
劉恭が光武帝に劉盆子の言葉を伝えて「盆子(私)が百万の衆を率いて陛下に降ったら、どのように待遇しますか?」と問うと、光武帝は「不死をもって汝(劉盆子)を待遇するだけだ(命を助けてやるだけだ。原文「待汝以不死耳」)」と答えました。
 
丙午(十九日)、樊崇が劉盆子や丞相徐宣以下三十余人を引き連れ、君臣ともに肉袒面縛(「肉袒」は上半身を裸にすること、「面縛」は手を後ろに縛ることで、どちらも投降の姿です)して光武帝に降りました。高皇帝の璽綬(伝国の璽綬)を献上します。
 
後漢書光武帝紀上』が伝国の璽について解説しています。皇帝には六璽があり、全て玉でできていて、螭虎紐(「螭虎」は伝説の異獣で龍の形をしています。「紐」は綬(紐)を結ぶ部分です。螭虎の彫刻がされていました)がついていました。刻文は『皇帝行璽』『皇帝之璽』『皇帝信璽』『天子行璽』『天子之璽』『天子信璽』で、皇帝の文書は武都紫泥(武都で採れる粘土)で封をしました(古代の木簡や竹簡は紐で巻いてから粘土をつけて封をし、その上に印を押しました。これを「封泥」といいます。皇帝の文書は武都紫泥で封をして印璽を押しました)
伝国の璽は秦始皇帝が天下を平定した時に造られました。藍田山の玉を使い、丞相李斯が『受命于天,既寿永昌』という文を書きました。
西漢高祖が霸上に至ると、秦の王子嬰が高祖に献上しました。
王莽が帝位を簒奪した時、元后(王政君)に璽を渡すように要求しました。元后が璽を地面に投げたため、璽の上に彫刻された螭(螭虎)の一角(一部)が欠けてしまいました。
王莽が敗れてから、李松が璽を持って宛の更始帝を訪ねました。更始帝が破れてからは赤眉にわたされ、今回、劉盆子が敗れたので、光武帝に献上されました。
 
光武帝は詔を発して赤眉の君臣を城門校尉に属させました(城門校尉に赤眉投降の処理をさせました)
後漢書光武帝紀上』の注によると、城門校尉は京師の城門屯兵を管理し、秩は比二千石です。
 
光武帝更始帝の七尺の宝剣と玉璧も一つずつ得ました。
また、赤眉の兵甲(武器甲冑)を宜陽城の西に積み重ねたところ、熊耳山と同じ高さになりました。
 
赤眉の衆はまだ十余万人いました。
光武帝は県厨(宜陽県の厨房、厨官)に命じて食事を下賜させます。
赤眉の兵衆は困餧疲労と飢え)がたまっていましたが、十余万人が全て飽飫(満腹)を得られました。
 
明旦(翌朝)光武帝が雒水光武帝は漢を火徳としたため、「洛」から「水」をとって「雒」に改めました)に臨んで大数の兵馬を連ねました。劉盆子の君臣を並べて大軍の陣容を観させます。
光武帝が劉盆子に問いました「自分が死ぬべきだと知っているか(自知当死不)?」
劉盆子が答えました「罪は死に応じるに値します(罪は死に値します。原文「罪当応死」)。しかしなお幸いにも上(陛下)が憐れんで赦すことを願います(猶幸上憐赦之耳)。」
光武帝が笑って言いました「児(汝)は大黠だ(「黠」は聡明かつ狡猾という意味です)。宗室(劉氏)に蚩者(痴者)はいない。」
 
光武帝が樊崇等に言いました「投降したことを後悔しているのではないか(得無悔降乎)?朕はこれから卿を営に帰らせるから、兵を指揮して戦鼓を鳴らし(勒兵鳴鼓)、ここに攻めて来い。勝負を決しよう。服従を強制したくはない(不欲強相服也)。」
徐宣等が叩頭して言いました「臣等は長安東都門を出てから君臣で計議し、聖徳に帰命することにしました。しかし百姓とは成果を共に楽しむことはできても、始めを共に図るのは困難なので(百姓可與楽成,難與図始)、敢えて衆人に告げなかったのです。今日、降ることができたのは、虎口を去って慈母に帰したようなものなので、誠に歓喜しており(誠歓誠喜)、恨むことはありません。」
光武帝が言いました「卿は鉄の中の錚錚(「錚錚」は金属がぶつかる音ですが、ここでは優れた金属を意味します。原文「鉄中錚錚」)、凡人の中の佼佼者(「佼佼者」は優秀な人物という意味です。原文「傭中佼佼者」)というものだ。」
 
光武帝がまた言いました「諸卿は大いに無道を為し、通過した場所全てで老弱を夷滅したり(皆殺しにしたり)社稷に尿をしたり(溺社稷、井竈(井戸や竈)を汚した。しかしそれでも三善がある。城邑を攻め破って天下に周徧(普遍、普及)したが、本故の妻婦を改易しなかった(元からの妻を棄てなかった)。これが一善である。君を立てるのに宗室(劉氏)を用いることができた。これが二善である。余賊が君を立てても、迫急したら皆、その首(主君の首)を持って降り、自らそれを功としたが、諸卿だけは(劉盆子の)安全を保って朕に付いた(完全以付朕)。これが三善である。」
光武帝は赤眉の諸将に命じて妻子と共に雒陽に住ませ、一人当たりに一区の邸宅と二頃の田を下賜することにしました。
 
戊申(二十日)光武帝が宜陽から雒陽に還りました。
光武帝は約束通り樊崇等を妻子と共に雒陽に住ませて田宅を下賜しました。
しかしこの年の夏、樊崇と逢安は謀反して誅殺されました。
 
楊音は長安にいた時、趙王劉良光武帝の叔父。下述)に遇いました。劉良が楊音に対して恩があったため、光武帝は楊音に関内侯の爵位を与えます。
その後、楊音は徐宣と共に郷里に帰り、二人とも最後は家で死にました。
 
光武帝は劉盆子を憐れんで厚い賞賜を与え、趙王の郎中にしました。
趙王は光武帝の叔父劉良ですが、当時の劉良は広陽王です東漢光武帝建武二年26年参照)。『後漢書宗室四王三侯列伝(巻十四)』を見ると、劉良は建武二年(前年)に広陽王になり、五年29年)に趙王に遷されて国に就いています。劉盆子が劉良の広陽王時代に郎中になったのか、建武五年以降に郎中になったのかはわかりません。
 
劉盆子は後に病を患って失明しました。
光武帝は滎陽の均輸官が管轄する地を下賜して市に店舗を開き、終生その税収で生活させました。
均輸は大司農に属す官名で、郡国諸侯の物資を流通させるために置かれました西漢武帝元鼎二年115年参照)
 
劉恭が更始帝の仇に報いるために謝禄を殺しました。その後、自ら獄に繋がれます。
光武帝は劉恭の罪を赦して誅殺しませんでした(赦不誅)
 
[] 『後漢書光武帝紀上』からです。
己酉(二十一日)光武帝が詔を発しました「群盗が縦横して元元(民衆)を賊害し、盆子が尊号を盗んで(竊尊号)天下を乱惑(惑乱)させた。しかし朕が兵を奮って討撃したので、応時に(すぐに)崩解し、十余万の衆が手を束ねて降服し、先帝の璽綬が王府に帰った。これは全て祖宗の霊と士人の力(おかげ)であり、朕がどうしてこれを享受するに足りるだろうか。よって吉日を選んで高廟を祀る。
天下の長子で父の後に当たる者に爵を下賜し、一人一級とする(父の後を継ぐ立場にある者を対象に、各人に一級の爵を下賜する)。」
 
二月己未(初一日)光武帝が高廟を祀って伝国の璽を受けました(原文「受伝国璽」。高廟の祭祀を行ってから正式に璽綬を受け取ったようです。あるいは「受」は「授ける」の意味で、高廟に納めたのかもしれません)
 
 
 
次回に続きます。