東漢時代20 光武帝(二十) 公孫述と隗囂 28年(3)
岑彭が秦豊を攻撃して三年になり、斬首した数は九万余級に上りました。
秦豊の残った兵は千人しかおらず、食糧もほとんど尽きています。
そこで朱祜等に命じて岑彭と代わって黎丘を包囲させ、岑彭と傅俊には南の田戎を撃たせました。
公孫述が数十万人の兵を集め、食糧を漢中に蓄え、更に十層の楼船を建造し、天下の牧守の印章を多数彫刻しました。
その後、将軍・李育、程烏(『資治通鑑』では「程烏」、『後漢書・光武帝紀上』『馮岑賈列伝』では「程焉」です)を派遣し、数万の衆を率いて出撃させました。陳倉に駐屯して呂鮪と合流し、三輔を攻略しようとします。
李育と程烏は漢中に奔ります。
馮異は引き返して呂鮪を撃破しました。営堡から多数の者が投降します。
当時、隗囂も兵を送って馮異を助け、功績がありました。
使者を送って光武帝に状況を報告します。
「(あなたの)徳義に慕楽(喜んで敬慕すること)して結納を思う(交流を願う)。昔、文王は三分したが、なお殷に服事した(西周文王は天下の三分の二を得たが、それでも商殷に仕えた)。駑馬・鈆刀(「駑馬」は駄馬、「鈆刀」は鈍い刀です。併せて凡庸な人を指します)だけでは無理に維持することができないが、しばしば伯楽一顧の価を被ることができた(「伯楽一顧の価」は元々名人の評価によって価値が上がるという故事ですが、他者から認められて良い評価を得るという意味になりました。故事の内容は下述します。ここでは、伯楽は隗囂を指します。光武帝が隗囂に認められて協力を得られたという意味で使われています)。また、蒼蠅が飛んでも数歩に過ぎないが、驥尾(駿馬)に託せば絶群(群を抜くこと)となることができる(蒼蠅は光武帝、驥尾は隗囂です)。(我々は)盗賊に隔てられており、声問(音信)が頻繁にできない。しかし将軍は款款(誠懇、忠実)を持って危難を救い(操執款款扶傾救危)、南は公孫の兵を拒み、北は羌・胡の乱を防ぎ、そのおかげで馮異が西征して、数千百人で三輔を躑躅(巡行)することができた。将軍の助けがなかったら、咸陽は既に他人の禽(獲物)となっていたはずだ。今、関東では寇賊が所々で屯聚しており、志が広遠に務めているので(関東の盗賊が広遠を求める志を抱いているので)、多くの余裕がなく(多所不暇)、成都で観兵して子陽(公孫述)と角力(力較べ)することができない。もしも子陽が漢中、三輔に至ったら、将軍の兵馬に頼って鼓旗を相当させる(対抗する)ことを願う。そのようになったら(儻肯如言)、天の福を蒙り、智士が功を計算し、地を割く秋(時)となる(隗囂が公孫述と対峙すれば、公孫述を破ることができるので、功績を計って論功行賞し、封侯することになる)。管仲はこう言った『私を生んだのは父母だが、私を成就させたのは鮑子である(生我者父母,成我者鮑子)。』今後は手書で互いに情報を伝え、傍人(周りの人)の解構(離間)の言を用いる必要はない。」
文中の「伯楽一顧の価」について『資治通鑑』胡三省注が『戦国策』の記述を紹介しています。
戦国時代、蘇代が淳于髠に言いました「駿馬を売っている者がいたが、三旦(三日)続けて市に立っても、市の人でそれを知る者はいなかった。そこでその人は伯楽(馬相を看る名人です)に会いに行き、こう言った『臣には駿馬があり、売りたいと欲していますが、三旦続けて市に立っても、市の人で(駿馬の)話をする者がいませんでした。子(あなた)が(馬の)周りを歩いて観察し、去ってからまた顧みることを願います。臣は一朝の価(一日の収入)を献上させていただきます。』伯楽が言われた通りにすると(馬の周りを歩いて観察し、去ってからまた顧みると)、一旦で価値が十倍になった。」
本文に戻ります。
後に公孫述がしばしば秘かに将を送りましたが、隗囂はいつも馮異と連合して共に撃退しました。
そこで公孫述は使者を派遣して隗囂に大司空と扶安王(『資治通鑑』胡三省注によると、「扶安」は「扶助して安らかにする」という意味です)の印綬を授けましたが、隗囂は使者を斬り、兵を出して公孫述を撃ちました。
そのため蜀兵は二度と北に出なくなりました。
東方では泰山の豪傑の多くが張歩と連合していました。
そこで呉漢は強弩大将軍・陳俊を推挙して泰山太守の官に就かせ、張歩の兵を撃破しました。
こうして泰山が平定されました。
次回に続きます。