東漢時代25 光武帝(二十五) 劉紆の死 29年(5)

今回も東漢光武帝建武五年の続きです。
 
[二十] 『後漢書光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。
秋七月丁丑(初四日)光武帝が沛を行幸し、高原廟(正廟以外に建てられた高帝の廟)を祀りました。
また、詔を発して西京西漢の園陵(皇帝陵)を修復させました。
 
[二十一] 『後漢書光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。
光武帝が董憲を討つために更に湖陵に進みました。
董憲と劉紆は数万人の兵を総動員して昌慮に駐屯します。
同時に董憲が五校の余賊を招いて誘いました。五校は董憲を援けて建陽を守り、東漢軍に備えます(『中国歴史地図集(第二冊)』によると、建陽は昌慮の南に位置します)
 
光武帝が蕃に至りました。董憲から百余里離れています(『中国歴史地図集(第二冊)』によると、蕃県は昌慮の西北に位置します)
諸将が進軍を請いましたが、光武帝は同意しませんでした。五校の食糧が欠乏していると知り、暫くしたら退くことになると判断したため、それぞれに営壁を堅めて敵の疲弊を待つように命じます。
やがて、光武帝が予期した通り、五校が撤兵しました。
光武帝は自ら戦陣に臨んで四面から昌慮の董憲を攻撃し、三日後に大勝しました。佼彊がその衆を率いて投降します。
蘇茂は張歩を頼って奔り、劉紆、董憲と龐萌は逃走して郯を守りました。
 
八月己酉(初六日)光武帝が郯に行幸しました。
呉漢を留めて郯城の劉紆、董憲等を攻撃させ、車駕光武帝は移動して彭城と下邳を攻略します。
 
呉漢が郯を落とすと、董憲と龐萌はまた逃走して胊を守りました。
劉紆は帰すべき場所が分からなくなり、軍士の高扈に斬られました。高扈は東漢に降ります。
後漢書光武帝紀上』は「呉漢が郯を抜いて劉紆を獲た(獲劉紆)」と書いていますが、この「獲た」は「首を獲た」という意味です。
 
呉漢が兵を進めて胊で董憲、龐萌を包囲しました。
 
[二十二] 『後漢書光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。
冬十月、光武帝が引き還して魯を行幸しました。
資治通鑑』胡三省注によると、魯国は徐州に属していましたが、光武帝豫州に改めました。
 
光武帝が大司空・宋弘に命じて孔子を祀らせました。
 
[二十三] 『後漢書光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。
張歩は耿弇が近づいていると聞いて大将軍費邑(『資治通鑑』胡三省注によると、袁宏の『後漢紀』では「済南王費邑」としています。『資治通鑑』は『後漢書耿弇列伝(巻十九)』に従っています)を歴下に駐軍させ、別の兵を祝阿に駐屯させました。更に泰山、鍾城(または「鐘城」)にも数十の営塁を連ねて待機しました。
 
耿弇は河を渡ってから先に祝阿を撃ちました。朝から城を攻めて正午になる前に(日未中)攻略します。この時、わざと包囲の一角を開き、城内の衆兵が鍾城に逃走できるようにしました。
鍾城の人々は祝阿が既に潰滅したと聞いて大いに恐懼し、城を空にして逃亡しました(空壁亡去)
 
費邑は弟の費敢に兵を分けて巨里を守らせました。
資治通鑑』胡三省注によると、巨里は聚の名で、一名を「巨合城」といいます。
 
耿弇は兵を進めてまず巨里を脅かしました。軍中に速やかに攻城の道具を準備するように厳命し、諸部(全軍)に対して三日後に総力を挙げて巨里城を攻撃すると宣敕(宣告。命令を告げること)します。
同時に秘かに捕虜(生口)の警備を緩めて逃亡できるようにしました。捕虜は費邑の陣に逃げ帰って耿弇が宣言した攻城の期日を報告します。
 
当日、費邑が自ら精兵三万余人を率いて巨里の救援に向かいました。
耿弇が喜んで諸将に言いました「わしが攻具を修めたのは(攻城の道具を準備したのは)誘致したかったからだ。野兵を撃たず、城をどうしようというのだ(城外に兵が出て来たのだからこれを撃つべきだ。原文「野兵不撃,何以城為」)。」
耿弇は三千人を分けて巨里を包囲させると、自らは精兵を率いて岡の阪を上り、高地を利用して合戦しました。費邑軍を大破し、陣に臨んで費邑を斬ります。
その後、費邑の首級を回収して巨里の城中に見せました。城中が兇懼(恐懼)し、費敢は全ての衆を率いて張歩の下に逃げ帰りました。
 
耿弇は費敢が蓄えた物資を奪い、兵を放ってまだ投降していない者を攻撃させました。
耿弇の兵が四十余営を降して済南を平定します。
 
当時、張歩は劇を都にしていました。
張歩は弟の張藍に精兵二万を率いて西安(『資治通鑑』胡三省注によると、斉郡に属す県です)を守らせ、諸郡の太守に一万余人を集めて臨菑を守らせました。双方は四十里離れています。
 
耿弇は進軍して二城の間にある画中に至りました。『資治通鑑』胡三省注によると画中は西安城東南の邑で、水があったため畫中(画中)命名されました。水から東に十八里進むと臨菑城に至ります。
 
耿弇は二城の状況を見て、西安は城が小さいものの守りが堅いうえに張藍の兵も精鋭であり、逆に臨菑は名声が大きくても実は攻め易いと判断しました。そこで諸校に命を下して五日後に合流して西安を攻めると宣言します。
これを聞いた張藍は朝から夜まで警守しました。
 
当日の夜半、耿弇が諸将に命じて皆に蓐食(寝床から起きる前に食事をすること。通常より早く朝食をとるという意味です)させました。
空が明るくなる頃には臨菑城に至ります。
護軍荀梁等が反対して言いました「臨菑を攻めたら西安が必ずこれを救いますが、西安を攻めても臨菑は救えません。西安を攻めるべきです。」
耿弇が言いました「それは違う(不然)西安はわしが攻めようとしていると聞いて日夜備えを為し、自分のことを憂いているので人を救う余裕はない(方自憂何暇救人)。臨菑は(我々が)不意を突いて至ったので、必ず驚擾している。わしはこれを攻めて一日で必ず抜いてみせる。臨菑を抜けば西安が孤立し、劇と隔絶するので、必ずまた亡去(逃亡)する。これは『一を撃って二を得る(撃一而得二)』というものだ。もし先に西安を攻めたらすぐに下すことができず、堅城に兵を留めて(頓兵堅城)死傷が必ず多くなる。もし抜くことができたとしても、張藍は軍を率いて臨菑に奔って還り、兵を一つにして勢を合わせ(幷兵合勢)、人(我が軍)の虚実を観察するだろう(大城の臨菑で守りを固めて様子を窺うだろう)。我々は敵地に深入りしており、後ろには転輸(物資の輸送)がないので、旬月の間(一月以内)に戦うことなく困窮することになる。」
 
こうして耿弇は臨菑の攻撃を開始し、半日で落として入城しました。
臨菑陥落を知った張藍は懼れを抱き、衆を率いて劇に逃げ帰りました。
 
耿弇は軍中に命じて虜掠(略奪)をさせず、張歩が来てから物資を奪って張歩の怒りを誘おうとしました。
それを聞いた張歩は大笑してこう言いました「尤来と大彤の十余万の衆をもってしても、わしは全てその営に臨んでこれを(尤来や大彤を)破った。今、大耿(耿弇。『資治通鑑』胡三省注によると、耿況の長子だったので「大耿」と呼びます)の兵は彼等(尤来や大彤)より少なく、しかも皆疲労している。何を懼れるに足りるか。」
張歩は三人の弟である張藍、張弘、張寿および元大彤の渠帥重異(重が氏、異が名です。『資治通鑑』胡三省注によると、南正重(五帝の一人顓頊の臣)の後代です)等の兵と共に二十万と号して臨菑大城の東に至り、耿弇を攻撃する準備を整えました。
 
 
 
次回に続きます。