東漢時代36 光武帝(三十六) 竇融合流 32年(1)
壬辰 32年
春正月、中郎将・来歙が二千余人を率いて出撃しました。山木を伐って道を開き、番須、回中から直接、略陽を襲います。
隗囂の守将・金梁(『資治通鑑』胡三省注によると、金氏は太古の金天氏の後代です。また、西漢に金日磾がいました。金日磾は匈奴休屠王の子でしたが、西漢武帝に降り、休屠王が金人を使って天を祭っていたことから金氏になりました)が斬られて略陽城が陥落しました。
それを知った隗囂は、大いに驚いて「神ではないか(神のように速い。原文「何其神也」)」と言いました。
呉漢等の諸将も来歙が略陽を占拠したと聞き、先を争って駆けつけました。
しかし光武帝は、隗囂が頼りとする地を失い、要城を亡くしたため、必ず全ての精鋭を動員して攻めて来ると判断しました。もし隗囂が長い日を経て久しく包囲しても城(陽略)を攻略できなかったら、士卒が頓敝(疲弊)するので、その危に乗じて進撃できます。
そこで光武帝は使者に呉漢等を追わせて全て還らせました。
公孫述も将・李育、田弇を派遣して隗囂を助け、山を削って堤を築き、激水(流れが激しい水)を城内に注ぎました。
来歙は将士と共に命を捨てて城を堅守しました(固死堅守)。矢が尽きたら家の屋根を壊し、木を切って武器にします。
隗囂は鋭を尽くして攻めましたが、数カ月経っても攻略できませんでした。
閏四月、光武帝が自ら隗囂を征討しようとしました。
光禄勳・汝南の人・郭憲が諫めて言いました「東方が定まったばかりなので、車駕はまだ遠征するべきではありません。」
郭憲は車の前に立ちふさがって佩刀を抜き、車靷(馬が車を牽く帯。馬の胸についています)を斬りました。
そこで光武帝は馬援を招いて意見を求めました。
馬援はこの機に隗囂の将帥には土崩の勢(崩壊する形勢)があり、兵が進めば必破の状(必勝の状況)があると語りました。また、光武帝の前で米を集めて山谷を造り、指で形勢を描きました。衆軍が通る道を開示し、繰り返し分析して、明確に状況を教えます(昭然可曉)。
この時、竇融も五郡太守と羌虜(羌族)、小月氏(かつて月氏が匈奴に敗れて多く人が西域に移り、大月氏を建国しました。しかし一部の人は南山に留まりました。これを小月氏といいます。西漢高帝六年・前201年参照)等の歩騎数万、輜重五千余輌を率いて光武帝の大軍と合流しました。
当時は軍旅(軍隊)がまだ草創(創建)の時期だったため、諸将が朝会する時の礼容は多くが厳粛ではありませんでした。
それを聞いた光武帝は竇融を称賛し、百僚に宣告して竇融の態度を見倣わせました。
光武帝と竇融が共に進軍し、数道から隴山を登りました。
隗囂は妻子を連れて西城に奔り、楊広を頼りました。
『後漢書・隗囂公孫述列伝(巻十三)』の注は「西城は県名で漢陽郡に属す。一名を始昌城という」と解説していますが、『資治通鑑』胡三省注はこう書いています「西県は元々隴西郡に属しており、後に改めて漢陽郡に属すことになった。西城は西県の城であり、西城を県名とするのは誤りである。また、東漢明帝永平十七年(74年)になって天水郡が漢陽郡に改められた。」
公孫述の将・田弇と李育は略陽の包囲を解いて上邽を守りました。
また、来歙の妻に縑(絹の一種)千匹を下賜しました。
光武帝が進軍して上邽に至り、詔を発して隗囂に告げました「もし手を束ねて自ら訪ねて来るのなら、父子が相見でき、他の事故がないことを保証しよう(保無他也)。もし黥布になることを欲するなら、それも自分しだいである(自分で責任を取れ。好きなようにすればいい。原文「亦自任也」)。」
しかし隗囂は最後まで投降しませんでした。
光武帝は四県を竇融に封じて安豊侯とし、弟の竇友を顕親侯にしました。
また、五郡太守を全て列侯に封じました。
『後漢書・竇融列伝(巻二十三)』によると、武鋒将軍・竺曾(元酒泉太守)は助義侯に、武威太守・梁統は成義侯に、張掖太守・史苞は褒義侯に、金城太守・庫鈞は輔義侯に、酒泉太守・辛肜(元敦煌太守)は扶義侯になりました。
次回に続きます。