東漢時代38 光武帝(三十八) 祭遵の死 33年(1)

今回は東漢光武帝建武九年です。二回に分けます。
 
癸巳 33
 
[] 『資治通鑑』からです。
春正月、潁陽侯祭遵諡号は成侯)が軍中で死にました。
光武帝は馮異に詔を発して祭遵の営も併せて指揮させることにしました。
 
祭遵の為人は廉約小心(廉潔倹約慎重)で、克己奉公し(克己して公のために働き)、自分が得た賞賜は全て士卒に与えました。
祭遵の約束(規則。規律)は厳整で、祭遵軍が駐留した地の吏民は軍がいることを知りませんでした(略奪暴行を行わず、民の生活に影響を与えなかったという意味です)
士を用いる時はいつも儒術儒学の思想、教え)に則り、酒宴を開いたら楽(楽舞)を設け、必ず雅歌儒家の経典『詩経』に収録されている「雅詩(大雅小雅)」の歌です)を歌い、投壺(矢を投げて壺に入れる遊戯です。『資治通鑑』胡三省注によると、壺は首の長さ七寸、腹の長さ(高さ)五寸、口径二寸半、容量一斗五升で、壺の中に小豆を満たして矢が刺さるようにしました。矢は柘木で作られ、長さ二尺八寸です。勝った者が負けた者に酒を飲ませました。儒学の経典『礼記』にも記述があり、宴席における儀礼、儀式の一つとされていました)を行いました。
 
祭遵は臨終の際、家人や部下を戒めて薄葬を行うように遺言し、周りの者が家事について聞いても、最後まで何も言いませんでした(私人ではなく公人としての立場を重んじたので、家の事については遺言を残しませんでした)
 
光武帝は祭遵の死を聞いてひどく愍悼(哀悼)しました。祭遵の喪(霊柩)が河南に至ると、車駕(皇帝)自ら素服(喪服)で臨み、喪を眺め見て痛哭します(望哭哀慟)
皇宮に還る途中、城門に着いた時も、喪車が通るのを見てまた涙が止まらなくなりました。
喪礼(葬式)を挙げてからも、光武帝自ら太牢(牛羊豚各一頭の犠牲)を用いて祭祀を行います。
光武帝は詔を発して大長秋(『資治通鑑』胡三省注によると、秦代に皇后に属す官として「将行」が置かれ、西漢景帝時代に「大長秋」に改名されました。「秋」は収穫の時、「長」は恒久の意味なので、皇后に属す官の名になりました。西都西漢は中人(宦官)を使う時も士人を使う時もありましたが、東都東漢以後は全て閹人(宦官)を使うようになりました)、謁者、河南尹に喪事(埋葬の儀式)を護らせ(監督させ)、大司農に費用を負担させました。
埋葬にも車駕(皇帝)が参加し、埋葬が終わってから、また祭遵の墓で臨哭して(臨其墳)、夫人や室家(家族)を慰問しました。
その後も朝会の度に光武帝は嘆いて「祭征虜(祭遵は征虜将軍でした)のように憂国奉公の者をどうして得られるだろうか」と言いました。
衛尉銚期が諫めて言いました「陛下は至仁なので、祭遵を哀念して止みませんが、群臣がそれぞれ慚懼を抱くようになってしまいます(『資治通鑑』胡三省注は「光武帝が祭遵を思念してしばしば言葉にすると、群臣は自分が祭遵に及ばないことに恥じ入って懼れを抱くようになる」と解説しています)。」
光武帝は態度を改めて祭遵の死を嘆かなくなりました。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
隗囂が病を患い、しかも飢餓に襲われました。食事は糗糒(干糧)しかありません。
やがて恚憤(憤怒。憤怨)して死んでしまいました。
隗囂の将・王元と周宗は隗囂の少子隗純を王に立て、兵を指揮して冀を拠点にしました。
公孫述も将趙匡と田弇を派遣して隗純を援けます。
 
光武帝は馮異に冀を攻撃させました。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』からです。
雁門の吏人(吏民)を太原に遷しました。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』からです。
三月辛亥、東漢が青巾左校尉の官を置きました。
光武帝建武十五年39年)に青巾左校尉官は越騎校尉に改められます。
 
漢書百官公卿表上』を見ると、西漢武帝が八校尉を置いており、その中に越騎校尉も含まれます。
八校尉は中塁校尉、屯騎校尉、歩兵校尉、越騎校尉、胡騎校尉、長水校尉、射声校尉、虎賁校尉を指し、このうち、胡騎校尉は非常設でした。この他にも司隷校尉、城門校尉がいますが、八校尉には含まれません(顔師古注参照)。秩は全て二千石です。
後漢書百官志四』によると、東漢光武帝の時代に中塁校尉が廃され、胡騎校尉が長水校尉に、虎賁校尉が射声校尉に合併されました。屯騎校尉、越騎校尉、歩兵校尉、長水校尉、射声校尉の五校尉になります(これを五営といいます)。秩は全て比二千石です。
 
上述の通り、この年、光武帝が青巾左校尉を置き、後に越騎校尉に改められます。西漢時代に置かれた越騎校尉と光武帝が置いた青巾左校尉が一時併設されていて、後に青巾左校尉が越騎校尉に合併されたのか、越騎校尉が光武帝によって青巾左校尉に改められて、後にまた戻されたのかは分かりません。
 
「越騎校尉」の「越騎」については、「越人が内附して(中原に帰順して)騎兵になった」という説と、「材力(才力)が超越した者を集めた」とする説があります。『漢書百官公卿表上』の顔師古注は『漢書帝紀』に「胡越騎」という記述があり西漢宣帝神爵元年61年)、八校尉に「胡騎校尉」があるので、「越騎は越人の騎兵」という説を肯定しています。
しかし『後漢書百官志』の注は「越人は善騎を産出しない」という理由で、「材力(才力)が超越した者」という説が正しいと解説しています。  
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
公孫述が翼江王田戎、大司徒任満、南郡太守程汎に数万人を率いて江関から東進させました。
田戎等は馮駿等の軍を破り東漢光武帝建武五年29年、東漢の威虜将軍馮駿が江州に、都尉田鴻が夷陵に、領軍李玄が夷道に駐軍しました)、巫および夷道、夷陵を占拠しました。
更に荊門と虎牙(『資治通鑑』胡三省注によるとどちらも山の名で、荊門山は長江の南岸、虎牙山は北岸にありました。かつては楚の西塞でした)を占拠してから、江水をまたいで浮橋を造り、関楼(または「闘楼」。関所の城楼や城壁の上に建てられた楼閣です)を築き、欑柱(密集した木の柱)を立てて水道を塞ぎました(船が川を通れないようにしました)。また、陸路を塞ぐために、山をまたいで営を結びました。こうして漢兵の進軍を防ぎます。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
夏六月丙戌(初六日)光武帝が緱氏を行幸し、轘轅に登りました。
資治通鑑』胡三省注によると、緱氏県は河南尹に属し、県内に緱氏山、轘轅山、轘轅坂がありました。全て雒陽の東南に位置します。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
大司馬・呉漢が王常等四将軍と兵五万余人を率いて盧芳の将賈覧、閔堪と高柳で戦いました。
しかし匈奴が盧芳軍を援けたため、漢軍が不利になります。
これがきっかけで匈奴が勢いを増し、鈔暴(略奪暴行)が日に日にひどくなりました。
 
光武帝匈奴に備えるために詔を発しました。朱祜を常山に、王常を涿郡に、破姦将軍侯進を漁陽に駐屯させ、討虜将軍王霸を上谷太守に任命します。
後漢書銚期王霸祭遵列伝(巻二十)』によると、呉漢は雒陽に還りました。
 
 
 
次回に続きます。

東漢時代39 光武帝(三十九) 護羌校尉 33年(2)