東漢時代45 光武帝(四十五) 参狼羌 36年(3)

今回で東漢光武帝建武十二年が終わります。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
十二月辛卯(初一日)、揚武将軍馬成を行大司空事(大司空代理)にしました。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』からです。
この年、九真徼外(界外)の蛮夷張遊が種人(族人)を率いて内属し(中原の東漢に帰順し)、帰漢里君に封じられました。
 
[十一] 『後漢書光武帝紀下』からです。
金城郡を省いて隴西郡に属させました。
隴西太守は馬援です。
 
[十二] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
参狼羌と諸種(諸族)が武都を侵しました。
 
資治通鑑』胡三省注によると、参狼羌は無弋爰剣の後代です。爰剣の孫卬が種人(族人)を連れて南に向かい、賜支河曲の西数千里の地域に移りました。その子孫が分かれてそれぞれの種(族)を形成しました。例えば、ある者は氂牛種になりました。越羌がそれです。ある者は白馬種になりました。広漢羌です。ある者は参狼種になりました。武都羌です。
爰剣の曾孫忍と弟の舞は湟中に留まり、湟中の諸種羌になりました。
 
無弋爰剣について『後漢書西羌伝(巻八十七)』から簡単に書きます。
羌の無弋爰剣は秦厲公時代に秦に捕えられて奴隸になりました。爰剣がどの戎に属すかは分かりません。
爰剣は後に逃走して故郷に帰りました。この時、秦人が厳しく追撃したため岩穴の中に隠れて逃れました。
羌人が言うには、爰剣が穴の中に隠れた時、秦人が火をつけて焼きましたが、虎のようなものが現れて(景象如虎)火を遮ったため、爰剣は死なずにすみました。
爰剣は穴の外に出てから、劓女(鼻を削がれた女)と野で遇って夫婦になりました。女は自分の容貌を恥じたため、髪を垂らして顔を覆いました(被髪覆面)。ここから羌人は被髪(披髪。髪を伸ばしたまま束ねないこと)を俗にしました。
 
爰剣夫妻は共に逃亡して三河の間に入りました。『後漢書』の注によると、三河黄河、賜支河、湟河(湟水)を指します。
諸羌の人々は爰剣が焼かれても死ななかったため、その神力を怪異に思い(怪其神)、そろって畏事(恐れ敬って仕えること)して豪(長)に推しました。
 
当時、河湟黄河湟水)一帯は五穀が少なく、禽獣が多かったため、人々は射猟を事としていました(狩猟で生活していました)。しかし爰剣は田畜を教えました。
爰剣はしだいに敬信(尊敬と信頼)を受けるようになり、廬落(帳幕の家)の種人(族人。羌族で爰剣を頼る者が日に日に増えていきました。
羌人は奴隷を「無弋」と呼びました。爰剣はかつて奴隸になったため、「無弋爰剣」を名にしました。
爰剣の子孫は代々羌族の豪(長)になりました。
 
爰剣の曾孫忍の時代に、秦献公が即位し(戦国時代)、穆公西戎の覇者)の業績を回復させようと欲しました。
秦の兵が渭首に臨み、狄戎を滅ぼします。
忍の季父(叔父)卬は秦の威を畏れたため、種人(族人)と附落(附属する部落)を率いて南に向かい、賜支河曲から西数千里の場所に出ました。衆羌と遠く離れて関係を絶ち、交通がなくなります。
その後、子孫が分かれて種(族)を形成し、自由に住む場所を決めました。ある者は氂牛種になりました。越羌がそれです。ある者は白馬種になりました。広漢羌です。ある者は参狼種になりました。武都羌です。
忍と弟の舞だけは湟中に留まり、多くの妻婦を娶りました。忍は九子を産んで九種(九族)を形成し、舞は十七子を産んで十七種を形成します。

羌族の興盛はここから始まりました。

本文に戻ります。
今回、参狼羌と諸種(諸族)が武都を侵しましたが、隴西太守馬援が撃破して一万余人を降しました。
この後、隴右が清静(安静)になりました。
 
[十三] 『資治通鑑』からです。
馬援は恩信を開くことに務め、寛容な態度で下の者に接し、職責に合わせて相応しい人材を官吏に任命しました(任吏以職)。自分自身は大体(大局)だけを総攬します。
そのため賓客故人(旧知)が毎日、馬援の門を満たしました。
 
諸曹寺(諸官署、官員)が外事(政治。公務)について報告すると、馬援はいつもこう言いました「それは丞(『資治通鑑』胡三省注によると、郡守には丞が一人と諸曹の掾史がいました。「曹」は「部門」の意味です。功曹史は官吏の功労を考査して人事を掌り、五官掾は功曹や諸曹事に欠員ができた時に職務を代行しました。その他にも議曹、法曹、賊曹、決曹、金曹、倉曹等がいました)の任(責任)である。なぜ(私を)煩わせるに足るのだ(何足相煩)老子(私)を頗る哀憐して遨遊(遊楽)できるようにさせよ。もし大姓(豪族)が小民を侵し、黠吏(狡猾な官吏)が令に従わなかったら、それこそが太守の事である。」
 
以前、隣の県で讎(仇)に報いた者がいました(人が殺されました)。吏民は驚いて羌人が反したと言い、百姓が奔って城内に入ります。
道長(『資治通鑑』胡三省注によると、狄道は隴西郡の治所です。狄道長は狄道の県長です)が馬援の門を訪ね、城門を閉じて兵を発すように請いました。
この時、賓客と酒を飲んでいた馬援は大笑してこう言いました「虜がどうして敢えてまたわしを侵すのだ(虜何敢復犯我)。狄道長を諭して、帰って寺舍(官舍)を守らせよ。誠に怖れが激しいようなら、床の下に伏せていればよい(良怖急者,可牀下伏)。」
暫くして情勢が徐々に安定したため、郡中の人々は馬援に敬服しました。
 
[十四] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
光武帝が詔を発しました「辺吏の力が戦うに足らないなら守れ。虜を追う時は敵(の状況、勢力)を量り(追虜料敵)、逗留法にこだわる必要はない。」
資治通鑑』胡三省注によると、漢の法では軍行(行軍)した時に逗留畏愞(恐れ怯えること)した者は斬られました。これが「逗留法」です。
光武帝は敵に勝つことを重視したため、敵を追撃する際は状況に応じて進退を決めさせることにしました。
 
[十五] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
横野大将軍・山桑節侯王常、牟平烈侯耿況、東郡太守・東光成侯耿純が相次いで死にました。
 
耿況が疾病を患った時は、乗輿(皇帝の車)がしばしば臨幸しました光武帝自らしばしば見舞いに行きました)
光武帝は耿弇(耿況の子)の弟耿広と耿挙を共に中郎将に任命しました。
耿弇の兄弟六人(『資治通鑑』胡三省注によると、耿弇、耿舒、耿国、耿広、耿挙、耿霸の六人です)は皆、青紫(高官の印綬を身につけて病床に侍りました(省侍医薬)。当時の人々はこれを栄誉なこととみなしました。
 
[十六] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
盧芳が匈奴烏桓と連合してしばしば辺境を侵しました。
 
光武帝は驃騎大将軍杜茂等に兵を率いて北辺に鎮守させました。
資治通鑑』にはありませんが、『後漢書光武帝紀下』は「杜茂が衆郡(各郡)を指揮し、囚人の刑具を解いて北辺に駐屯した(杜茂将衆郡施刑屯北辺)」と書いています。杜茂が率いたのは主に囚徒だったようです。
 
杜茂等は飛狐道(『資治通鑑』胡三省注によると、趙魏から北辺に援軍を送る道です)を治め(修築し)、亭障亭候を築き、烽燧を補修し、匈奴烏桓と大小数十百戦しましたが、結局勝てませんでした。
 
[十七] 『資治通鑑』からです。
光武帝が詔を発して竇融と五郡太守に入朝させました(五郡は金城、武威、張掖、酒泉、敦煌です。金城は本年に廃されました。入朝はそれ以前の事です)
竇融等は詔を奉じて雒陽に向かい、多数の官属賓客が従いました。一行の駕乗(車)は千余輌におよび、馬羊が野を覆います。
 
竇融は雒陽に入って城門を訪ね、印綬を返上しました。
光武帝は詔を発して使者を送り、侯印の綬を戻させてから、竇融等を引見しました(『後漢書竇融列伝(巻二十二)』によると、竇融は涼州牧、張掖属国都尉、安豊侯の印綬を返上しました。光武帝はこのうち安豊侯の印綬を戻して引見し、諸侯の席に就かせました)。賞賜恩寵が京師を傾動(震動)させます。
暫くして光武帝は竇融を冀州牧に任命しました。
 
武威太守・梁統が太中大夫に、姑臧長孔奮が武都郡丞になりました。
姑臧(『資治通鑑』胡三省注によると、姑臧県は武威郡に属し、秦代には月氏戎が住んでいました。匈奴が「蓋藏城」と名づけましたが、後になまって「姑臧城」と呼ばれるようになりました)は河西で最も富饒(富裕)な地です。天下が不安定な時期は、多くの士が検操(節操)を修めなかったため、県にいる者(県長になった者)は数カ月も経たずに豊かな財富の蓄えを持ちました(天下が不安定な時代は、中央の監視が届かないため、姑臧の県長になった者は不正を行って財を為しました)。しかし孔奮は職に就いて四年の間、清廉潔白に努めたため(力行清潔)、人々に笑われ、「その身が脂膏の中にいるのに自分を潤すことができない」と言われました。
竇融に従って入朝した時、諸守令(太守や県令)の財貨は車を連ねて川沢を満たしましたが、孔奮だけは資(財産)がなく、単車で道に就きました。
光武帝はこれを表彰して郡丞にしました。
漢書百官公卿表上』によると、県長の秩は五百から三百石、郡丞の秩は六百石です。『後漢書百官志五』では、県長の秩は四百石か三百石です。郡丞は『漢書』と同じで六百石です。
 
光武帝が睢陽令任延を武威太守に任命しました。
光武帝が自ら接見し、戒めて言いました「善く上官に仕えて(善事上官)名誉を失ってはならない。」
しかし任延はこう言いました「臣は『忠臣は不和であり、和臣は不忠である(原文「忠臣不和,和臣不忠」。『後漢書循吏列伝(巻七十六)』では「忠臣不私,私臣不忠」です。『資治通鑑』胡三省注によると、唐代の高峻が編纂した『小史』が「忠臣不和,和臣不忠」としており、この方が意味が合うので、『資治通鑑』は『小史』に従っています。尚、『小史』は既に散逸しています)』と聞いています。正道を歩んで公を奉じるのは(履正奉公)臣子の節です。上下が雷同するのは陛下の福ではありません。善く上官に仕えるということにおいては、臣は詔を奉じるわけにはいきません。」
光武帝は嘆息して「卿の言は是である(卿の言う通りだ)」と言いました。
 
 
 
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東漢時代46 光武帝(四十六) 劉氏四王 37年(1)