東漢時代48 光武帝(四十八) 凌統の進言 38年
戊戌 38年
春正月、南宮前殿を築きました。
会稽を大疫(疫病)が襲いました。
十二月癸卯、光武帝が詔を発し、益・涼二州の奴婢で八年以来(光武帝建武八年・32年以降)、自ら所在地の官に訴えた者は全て免じて庶民とし、身を売って奴婢になった者も同じ額を償う必要がないことにしました(売者無還直)。
この年、莎車王・賢と鄯善王・安がそれぞれ使者を送って奉献しました。
しかし光武帝は中国が定まったばかりだったため同意しませんでした。
太中大夫・梁統が上書しました「臣が窺い見るに(竊見)、元帝初元五年(前44年)は死刑を軽くした事件が三十四件あり(軽殊死刑三十四事)、哀帝建平元年(前6年)は死刑を軽くした事件が八十一件あり(軽殊死刑八十一事)、そのうち四十二件(四十二事)は自らの手で人を殺したものの、死刑から一等減らされました(減死一等)。その後、これが常準(定法。慣例)に立てられたため(著爲常準)、人々は法を犯すことを軽んじ、吏は殺人を軽視するようになりました(原文「吏易殺人」。この「易」は「容易」ではなく「軽視」の意味だと思います)。臣が聞くに、立君の道(国君になるための道理)とは仁義を主とし、仁とは人を愛し(仁者愛人)、義とは理を正すものです(義者正理)。人を愛す(愛人)とは、残暴を除くことを務めとし、理を正す(正理)とは乱を去らせることを心(中心)とします。刑罰は衷(中心。適切な姿)にあるべきであり、軽を取ってはなりません(刑罰が軽くなり過ぎてはなりません)。高帝は命を受けて約令定律し(律令を制定し)、誠に宜(義。道理。適切なこと)を得ていました。文帝は肉刑、相坐(連座)の法だけを除省(廃除)し、残りは全て旧章(旧制)を遵守しました(率由旧章)。
哀・平が継体(継承。即位)するに至ると、即位の日が浅かったため、(皇帝による)聴断(訴訟の判決)が少なくなりました(聴断尚寡)。そこで丞相・王嘉が軽率に穿鑿(無理に曲解すること)し、先帝の旧約成律を虧除(減らしたり除くこと)しました(『資治通鑑』胡三省注は「『漢書』の『王嘉伝』にも『刑法志』にもこの事は書かれていないが、梁統は王嘉と時代が近いので、引用した内容が妄言であるはずはない。班固(『漢書』の編者)が省略して書かなかっただけだ」と解説しています)。その結果、数年の間に百余の事において、あるいは理に対して便が無くなり(道理が無くなり。原文「或不便於理」)、あるいは民心を満足させられなくなりました(或不厭民心)。
よって、体(政体)に対して特に害があるものを謹んで表し、左(後ろ)に傅奏(陳述)します。陛下が有司に宣詔(詔を下して命じること)し、その善(法令の中で正しい内容)を詳しく選んで不易の典(不変の法典)を定めることを願います。」
光武帝は公卿に討論させました。
光禄勳・杜林が上奏しました「大漢が興きたばかりの時は、苛政を蠲除(廃除)したので海内が歓欣(歓喜)しましたが、後になるとしだいに滋章(繁茂・顕著。法令が複雑で苛酷な様子です)になり、果桃・菜茹(野菜)の饋(贈物)も集めて贓(賄賂)とされ、義を妨げることがない小事でも大戮(死刑)にされました。その結果、(「国に廉士がいなくなり、家に完行(完美な節操、行動)がなくなったので」。『後漢書・宣張二王杜郭呉承鄭趙列伝(巻二十七)』を元に補いました。『資治通鑑』は省略しています)、法では禁じることができず、令では止めることができず、上下が互いに(法から)逃げて(上下相遁)、弊害がますます深くなりました。臣の愚見によるなら、旧制(今までの制度)のままとするべきであり、翻移(変更。改変)は相応しくありません。」
梁統が再び上言しました「臣が上奏した内容は、厳刑について言っているのではありません。『経(『尚書‧呂刑』が元になっています)』はこう言っています『刑の衷(刑法が適切な状態)において百姓を制す(爰制百姓于刑之衷)。』衷というのは、軽すぎることもなく、重すぎることもない(不軽不重)という意味です。高祖から孝宣に至るまで海内が治を称えましたが、初元(元帝)、建平(哀帝)に至ると盗賊が増え始めました。全て刑罰が不衷で(不適切で)、愚人が法を犯すことを軽視したために(愚人易犯)そうなったのです。このように観ると、刑を軽くするという方法は(刑軽之作)、逆に大患を生み、姦軌の者(法を守らない者)に恵を加え、害を良善の者に及ぼすことになります。」
結局、この件は棚上げにされました(事寝不報)。
次回に続きます。