東漢時代53 光武帝(五十三) 州牧と州刺史 42年

今回は東漢光武帝建武十八年です。
 
壬寅 42
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
春二月、蜀郡守将史歆が反し、太守張穆を攻めました。
張穆は城壁を越えて逃走します。
宕渠の人楊偉等も挙兵して史歆に呼応しました。
 
光武帝は大司馬呉漢を派遣し、二将軍と一万余人を率いて討伐させました。
呉漢軍が成都を包囲します。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
甲寅(中華書局『白話資治通鑑』は「甲寅」を恐らく誤りとしています)光武帝が西に巡狩(巡行)して長安行幸しました。
 
三月壬午、高廟を祀り、十一陵でも祭事を行いました。
その後、馮翊界を通って蒲坂(『光武帝紀下』の注によると、河東郡に属す県です)に進み、后土を祀りました。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』『後漢書馬援列伝(巻二十四)』と『資治通鑑』からです。
前年、光武帝が璽書詔書によって馬援を伏波将軍に任命し、扶楽侯劉隆を副(副将)にしました。
馬援は楼船将軍段志等を監督して南の交阯(交趾。徵側等)を撃ちます。
馬援軍が合浦に至った時、段志が病死したため、光武帝は詔を発して馬援に段志の兵を合併させました。
 
馬援は海に沿って進み、山に従って千余里の道を開き、本年春、浪泊に至りました。
(徴側軍)と戦って大破し、数千級を斬首して一万余人を降します。
馬援は徵側等を追撃して禁谿(『資治通鑑』胡三省注によると、「金溪」とも書きます)に至り、何度も敗りました。
(徴側軍)は四散逃走しました。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
夏四月甲戌(十五日。あるいは「癸酉」で十四日。下述します)、車駕光武帝が皇宮に還りました。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』からです。
癸酉(十四日。あるいは「甲戌」で十五日)光武帝が詔を発しました「今、辺郡では、穀五十斛を盗んだら罪が死に至っており、残吏(残酷な官吏)が妄りに人を殺す路(妄殺之路)を開いている。よってこの法を蠲除(廃除)し、内郡(中原の郡)と同じくする。」
 
光武帝紀下』は「甲戌(十五日)」の後に「癸酉」の事を書いていますが、「癸酉」は「甲戌」の前日なので、四月の出来事だとしたら十四日です。
中華書局の『後漢書光武帝紀下』は「甲戌」を「癸酉」に、「癸酉」を「甲戌」に訂正しており、巻末の「校勘記」で「書き写した者が誤って逆にした」と解説しています。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
戊申(中華書局『白話資治通鑑』は「戊申」を恐らく誤りとしています)光武帝が河内に行幸しました。
戊子(二十九日)、皇宮に還りました。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
五月、旱害に襲われました。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
二年前光武帝建武十六年40年)に盧芳が入朝するために南下して昌平に至りました。しかし光武帝は詔を発して南下を止めさせ、翌年に改めて入朝するように命じました。
盧芳は昌平から引き返してから、内心で疑い懼れ、再び叛しました。
閔堪光武帝が任命した代相)と交戦して数カ月が経ち、匈奴が数百騎を派遣して盧芳を迎えます。
盧芳は塞から逃走して匈奴に十余年留まり、最期は病死しました。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
呉漢が広漢、巴、蜀三郡の兵を動員して成都を包囲し、百余日に及びました。
 
秋七月、呉漢が成都を攻略し、史歆等を斬りました。
呉漢は桴(小さい筏)に乗って沿水を下り、巴郡に向かいました。
楊偉等は惶恐して解散します。
呉漢はその渠帥(指導者)を誅殺し、党与(徒党)数百家を南郡、長沙に遷してから還りました。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』からです。
壬戌、光武帝益州所部益州に属す地)で殊死已下(死刑以下)の者を赦しました。
 
[十一] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
冬十月庚辰(二十四日)光武帝が宜城を行幸し、還りに章陵で(父や先祖の)祭祀を行いました。
十二月乙丑、皇宮に還りました。
 
[十二] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
この年、州牧を廃して刺史を置きました。
 
漢書百官公卿表上』によると、西漢武帝が元封五年(前106年)に初めて州部刺史を置きました。秩六百石、定員十三人です。成帝綏和元年(前8年)に州牧に改名されて秩二千石になりました。哀帝建平二年(前5年)に刺史に戻されましたが、同じく哀帝元寿二年(前1年)にまた牧になりました哀帝元寿二年の記述は、私の通史にはありません。元寿二年は哀帝が死んだ年です。刺史が牧になったのが、哀帝が死ぬ前の事か、哀帝を継いだ平帝時代になっての事かははっきりしません)
後漢書百官志五』には「孝武帝が初めて刺史十三人を置いた。秩六百石である。成帝が牧に改めて秩二千石にした。光武帝建武十八年、刺史に戻し、十二人にそれぞれ一州を主管させた。一州は司隸校尉に属す」と書かれており、西漢哀帝時代の事が省略されています。
十二州は豫州冀州、兗州、徐州、青州荊州、揚州、益州涼州并州、幽州、交州を指し、それぞれ刺史が管轄しました。これ以外に京師周辺を司隸とし、司隸校尉に担当させました。
 
 
 
次回に続きます。