東漢時代53 光武帝(五十三) 州牧と州刺史 42年
壬寅 42年
春二月、蜀郡守将・史歆が反し、太守・張穆を攻めました。
張穆は城壁を越えて逃走します。
宕渠の人・楊偉等も挙兵して史歆に呼応しました。
呉漢軍が成都を包囲します。
三月壬午、高廟を祀り、十一陵でも祭事を行いました。
馬援は楼船将軍・段志等を監督して南の交阯(交趾。徵側等)を撃ちます。
馬援軍が合浦に至った時、段志が病死したため、光武帝は詔を発して馬援に段志の兵を合併させました。
馬援は海に沿って進み、山に従って千余里の道を開き、本年春、浪泊に至りました。
賊(徴側軍)と戦って大破し、数千級を斬首して一万余人を降します。
賊(徴側軍)は四散逃走しました。
癸酉(十四日。あるいは「甲戌」で十五日)、光武帝が詔を発しました「今、辺郡では、穀五十斛を盗んだら罪が死に至っており、残吏(残酷な官吏)が妄りに人を殺す路(妄殺之路)を開いている。よってこの法を蠲除(廃除)し、内郡(中原の郡)と同じくする。」
戊子(二十九日)、皇宮に還りました。
五月、旱害に襲われました。
盧芳は昌平から引き返してから、内心で疑い懼れ、再び叛しました。
盧芳は塞から逃走して匈奴に十余年留まり、最期は病死しました。
呉漢が広漢、巴、蜀三郡の兵を動員して成都を包囲し、百余日に及びました。
秋七月、呉漢が成都を攻略し、史歆等を斬りました。
呉漢は桴(小さい筏)に乗って沿水を下り、巴郡に向かいました。
楊偉等は惶恐して解散します。
呉漢はその渠帥(指導者)を誅殺し、党与(徒党)数百家を南郡、長沙に遷してから還りました。
十二月乙丑、皇宮に還りました。
この年、州牧を廃して刺史を置きました。
『漢書・百官公卿表上』によると、西漢武帝が元封五年(前106年)に初めて州部刺史を置きました。秩六百石、定員十三人です。成帝綏和元年(前8年)に州牧に改名されて秩二千石になりました。哀帝建平二年(前5年)に刺史に戻されましたが、同じく哀帝元寿二年(前1年)にまた牧になりました(哀帝元寿二年の記述は、私の通史にはありません。元寿二年は哀帝が死んだ年です。刺史が牧になったのが、哀帝が死ぬ前の事か、哀帝を継いだ平帝時代になっての事かははっきりしません)。
『後漢書・百官志五』には「孝武帝が初めて刺史十三人を置いた。秩六百石である。成帝が牧に改めて秩二千石にした。光武帝建武十八年、刺史に戻し、十二人にそれぞれ一州を主管させた。一州は司隸校尉に属す」と書かれており、西漢哀帝時代の事が省略されています。
次回に続きます。