東漢時代65 光武帝(六十五) 劉恭殺害 52年

今回は東漢光武帝建武二十八年です。
 
壬子 52
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
春正月己巳(中華書局『白話資治通鑑』は「己巳」を恐らく誤りとしています)、魯王劉興光武帝の兄劉縯の子)を北海王に遷し、東海国を拡大するために魯国を編入しました。
 
光武帝は東海王劉彊光武帝の子。元皇太子)の去就に礼があったので(『資治通鑑』胡三省注は「天下を譲ったことを指す」と解説しています)、大封によって優遇しました。食封地を二十九県とし、虎賁旄頭を下賜して鍾虡の楽を設け、乗輿(乗輿は皇帝の車ですが、ここでは皇帝の制度を指します)と同等にしました(擬於乗輿)
資治通鑑』胡三省注によると、虎賁(武士)は千五百人おり、鶡尾山鳥の尾)がついた冠を被りました。虎賁中郎将に属します。旄頭は儀仗隊を先導する騎兵です。鍾虡は猛獣の形で飾った鐘(楽器)です。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
夏六月丁卯(初七日)、沛太后郭氏(郭聖通)が死にました。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです(以下の内容は光武帝建武二十二年46年に『後漢書馬援列伝(巻二十四)』から引用しました。ここでは『資治通鑑』の内容を書きます)
馬援の兄の子婿(娘婿)王磐は王莽の従兄に当たる平阿侯王仁の子でした。
王莽が敗れてからも、王磐は富貲(豊富な財産)を擁して游俠になり、江淮の間で名が知られるようになりました。
後に京師で遊んで諸貴戚(貴人や皇族)と友善な関係を結びました。
しかし馬援は姉の子曹訓に訓戒してこう言いました「王氏は廃姓(廃された姓。失敗した姓)だ。子石(王磐の字)は屏居(隠退)自守するべきなのに、逆に京師の長者(権貴の者)と遊び、気を用いて自ら行い(原文「用気自行」。志のまま行動する、積極的に自由に動く、という意味だと思われます)、多く陵折する(人を圧する、凌駕する、虐げる)ところがあるので、失敗するのは確実だ(其敗必也)。」
一年以上経ってから、王磐は事件に坐して死んでしまいました。
 
ところが王磐の子王肅もまた王侯の邸第(邸宅)に出入りするようになりました。
当時は禁罔(禁令法律)がまだ疎かで、諸王は皆、京師におり、競って名誉を修め(名声を競い)、士を招いて交遊していました。
馬援が司馬呂种に言いました「建武の元(開始)は天下の重開(重建)を名としている。今から後は海内が日に日に安定するはずだ。ただ国家の諸子(皇子。諸王)が並んで強壮になり、しかも旧防(諸侯王の勢力拡大を防ぐ旧制。諸侯王と賓客の交わりを禁止するという内容も含まれます)がまだ成立していないことを憂いる。もしも(諸侯王が)多く賓客と通じたら、大獄が起きることになるだろう。卿曹(卿等)はこれを戒慎(警戒)せよ。」
 
本年、郭后が死んでから、ある者が上書して、「王肅等は受誅の家(罪を犯して誅殺された者の家族)でありながら客(諸侯王の賓客)となり、事に因って(機会を探して)乱を生もうとしています」と言いました。
 
ちょうどこの頃、更始帝(劉玄)の子寿光侯劉鯉が沛王劉輔(郭后が産んだ子)の寵信を得ていました。
劉鯉は劉盆子(赤眉帝)を怨んでいたため、客と結んで元式侯劉恭を殺してしまいました(劉恭は更始帝時代に式侯に封じられました。『後漢書光武十王列伝(巻四十二)』と『資治通鑑』は「故()式侯恭」と書いているので、東漢に投降してから侯位を廃されたようです)
 
光武帝は劉恭が殺されたと聞いて激怒しました。
沛王もこの事件に連座して詔獄(皇帝が管理する獄)に繋がれ、三日経ってからやっと釈放されます。
この事件がきっかけで光武帝は詔を発し、郡県に命じて諸王の賓客を逮捕させました。互いに牽引(牽連。引っ張ること。巻き添えにすること)して死罪に坐した者は千人を数えます。
呂种もこの禍に遭い、処刑に臨んで(臨命)嘆息して言いました「馬将軍は誠に神人だ。」
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
秋八月戊寅(十九日)、東海王劉彊、沛王劉輔、楚王劉英、済南王劉康、淮陽王劉延が始めて封国に赴きました(始就国)
 
[] 『後漢書光武帝紀下』からです。
冬十月癸酉、光武帝が詔を発し、死罪の繫囚(囚人)を全て集めて蠶室(蚕室)に下しました。女子も宮刑にしました。
 
「蠶室」は宮刑を行う獄です。この詔によって、死刑囚は命が助けられて宮刑(男の生殖器を切断する刑)に改められました。
女子の宮刑は「幽閉」ともいいます。刑の詳細は不明です。
 
[] 『資治通鑑』からです。
光武帝が群臣を集めて問いました「太子の傅(師)となるのにふさわしいのは誰だ(誰可傅太子者)?」
群臣は光武帝の意思を量って迎合し、そろってこう言いました「太子の舅(母の兄弟)に当たる執金吾原鹿侯陰識が可です(任せられます)。」
資治通鑑』胡三省注によると、原鹿県は春秋時代の鹿上です。
 
博士張佚が色を正して(厳粛な態度で)言いました「今、陛下が太子を立てたのは、陰氏のためですか?天下のためですか?陰氏のためなら陰侯で可です。しかし天下のためなら、必ず天下の賢才を用いるべきです。」
光武帝が張佚を称賛して言いました「傅を置きたいと欲するのは、太子を輔佐するためである。今、博士(張佚)は朕を正すことも難としなかった。太子が相手ならなおさらだろう(況太子乎)。」
光武帝はすぐに張佚を太子太傅に任命し、博士桓栄を少傅にしました。(二人に)輜車(帷幕の屋根がついた車)と乗馬(車を牽く馬)を下賜します。
 
桓栄は多数の諸生を集め、車馬や印綬を並べてこう言いました「今日(このような恩恵を)蒙ったのは、稽古(古事を研究すること)のおかげである(稽古之力也)。努力しなければならない(可不勉哉)。」

[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
北匈奴が使者を派遣して東漢に馬や裘(皮衣)を献上し、改めて和親を乞いました。あわせて音楽を請い(原文「請音楽」。下の文を見ると、漢の楽器を望んだようです)、西域諸国の胡客(胡人。『資治通鑑』は「胡洛」としていますが、『後漢書南匈奴列伝(巻八十九)』では「胡客」です。恐らく『資治通鑑』の誤りです)を率いて共に献見(貢物を献じて朝見すること)する機会を求めます。
 
光武帝はこの件を三府(太尉、司徒、司空府)に下して酬答の宜(応答の方法)を議論させました。
司徒掾班彪が言いました「臣が聞くに、孝宣皇帝は辺境の守尉(太守と都尉)に勅令してこう言いました『匈奴は大国で変詐(変化と詐術)が多い。交接(交流)してその情を得たら、匈奴が漢のために)敵を退けて打ち破るが(則卻敵折衝)、応対(対応)してその数(術)に入ってしまったら、逆に(漢が匈奴に)軽視され、虐げられることになる(則反為軽欺)。』
今、北単于は南単于が来附東漢に帰順すること)したのを見て、その国を謀ること東漢南匈奴北匈奴を攻めること)を懼れたので、しばしば和親を乞い、また遠くに牛馬を駆けさせて漢と合市し(交易し)、重ねて名王を派遣して貢献を多くしました。これは全て、外に富強を示して欺誕(欺瞞。騙すこと)しているのです(富強を示して東漢を騙しているのです)。臣はその献(貢物)がますます重くなるのを見て、その国がますます虚(空虚)になっていると分かります。帰親(親しむこと。または和親の願い)が頻繁になるほど、懼れがますます多く(大きく)なっているのです。しかし今はまだ南を助けることができないので(未獲助南)、北とも(関係を)絶つべきではありません。羈縻(籠絡)の義(道理)では、礼において答えないということはありません(籠絡するためには、返答するのが礼です。原文「羈縻之義,礼無不答」)。よって、臣が思うに、賞賜を頗る加えて(巨額の賞賜を与えて)、献上された物とほぼ同等にするべきです(略與所献相当)
報答の辞は必ず適切にしなければなりません。今、稾草(草稿)を立てたので併せて提出します。(報答の)内容はこうです『単于は漢恩を忘れず、先祖西漢時代の呼韓邪単于の旧約を追念し、身を守って国を安んじる(輔身安国)ために和親を修めようと欲した。計議が甚だ高いので(非常に高明な計策なので)単于のためにこれを嘉する。以前、匈奴はしばしば乖乱(動乱。内乱)があり、呼韓邪、郅支が互いに讎隙(怨恨。敵視)して、共に孝宣帝の垂恩(恩恵)救護を蒙った。そのためそれぞれが侍子を派遣し、(漢の)(藩屏。藩臣)を称して塞を保った(守った)。その後、郅支が忿戾(怨恨。叛乱)して自ら皇沢(皇帝の恩恵)を絶った。逆に呼韓は附親して忠孝がますます顕著になった。漢が郅支を滅ぼしてからも、(呼韓邪は)国を保って後嗣に位を伝え、子孫が代々継承した(子孫相継)
今、南単于が衆を携えて南に向かい、塞を訪ねて命に帰し(款塞帰命)、自らを呼韓の嫡長とした。序列によるなら彼が立つべきである(次第当立)。ところが(他者の)侵奪によって失職し単于の地位を失い)(他者の)猜疑によって背いたので匈奴内で分裂したので)、しばしば兵将将兵。ここでは出兵の意味です)を請い、帰って北庭北匈奴単于庭)を掃討しようとした。策謀が紛紜(入り乱れること。雑乱としていること)として至らない所がない(漢の兵を動かすためにあらゆる策を行った)。しかしその言(南単于の言)だけを聞くべきではないと思い、また、北単于が連年貢献して和親を修めようと欲しているので、南匈奴の要求を)拒んで許さず(同意せず)、こうすることで単于(北単于の忠孝の義を完成させようとした。漢は威信を持って万国を総率(統帥)し、日月が照らす所は全て臣妾となった。風俗が異なる百蛮も、義においては親疏がなく、服順した者には褒賞を、畔逆(叛逆)した者には誅罰を与えている。善悪の效(成果。結果)は呼韓と郅支がそれである(呼韓邪は漢に服して子孫が栄え、郅支は漢に叛して滅ぼされました)。今、単于は和親を修めようと欲し、款誠(忠誠。誠意)が既に達した。何を疑って、西域諸国を率いて共に献見に来ることを欲するのだ。西域の国が匈奴に属すのも漢に属すのも、何の違いがあるのだ。
単于はしばしば兵乱を連ね、国内が虚耗している。貢物は礼を通じるだけで充分であり(裁以通礼)、どうして馬裘を献じる必要があるだろう。今、雑繒(多種類の絹)五百匹、弓鞬丸一揃い(弓鞬は弓を入れる道具、丸は矢を入れる袋です)、矢四発(四本)単于に贈る。また、献馬した左骨都侯、右谷蠡王に雑繒をそれぞれ四百匹と斬馬剣をそれぞれ一本下賜する。単于は以前こう言った『先帝の時に呼韓邪に賜った竽、瑟、空侯(全て楽器です。「空侯」は「箜篌」とも書きます)が全て敗れたので(破損したので)、再び裁賜(情けを汲んで下賜すること)されることを願う。』しかし単于の国はまだ安んじておらず、武節を励まして(方厲武節)戦攻を務(急務。主目的)にしていることを念じ、竽・瑟の用途は良弓・利剣に及ばないので、それらは贈らなかった。朕は小物を愛すのではない。単于が欲するところに便宜があるかどうかを考慮したのである(於単于便宜所欲)。訳(通訳)を派遣してこれを単于に)報せる。』」
光武帝は班彪の意見を全て採用しました。
 
 
 
次回に続きます。