東漢時代68 光武帝(六十八) 讖文 56年(2)

今回は東漢光武帝中元元年の続きです。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
光武帝長安行幸しました。
四月戊子(二十日)、長陵(高帝陵)を祀りました。
 
五月乙丑(二十八日)長安から皇宮に還りました。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
六月辛卯(二十四日)、太僕馮魴を司空にしました。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
乙未(二十八日)、司徒馮勤が死にました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
この夏、京師で醴泉(甘泉)が涌き出しました。
飲んだ者は固疾(長い病)が快癒しましたが、眇(片目や斜視)と蹇(足の障害)だけは治りませんでした。
 
また、赤草が水崖(崖。水辺)に生えました。
更には郡国が頻繁に「甘露が降った」という報告をしました。
 
群臣が上奏して言いました「地祇(地の神)の霊が応じたので朱草が萌生しました(『後漢書光武帝紀下』の注によると、徳が草木にも及んだら朱草が生えます)。孝宣帝は嘉瑞がある度にいつも改元し、神爵、五鳳、甘露、黄龍を年紀に列しました(年号にして瑞祥を記録しました)。感を神祇(神)に至らせ(「神を感謝し」または「神に感応させ」。原文「感致神祇」)、徳信を表彰するためにそうしたのでしょう。その結果、教化が行き届いて太平になり(化致升平)、中興と称されました。今、天下は清寧で、霊物が繰り返し降っています。陛下の情には損挹(謙譲)があり、辞退して受け入れようとしませんが(推而不居)、どうして祥符の顕慶(顕著な吉祥)を埋没させて聞こえなくすることができるでしょう。太史(『資治通鑑』胡三省注によると、史官の長です。『後漢書光武帝紀下』の注は「太史公は武帝が置いた。位は丞相の上である(位在丞相之上)」としています)に命じて撰集(収集記録)させ、来世に伝えるべきです。」
しかし光武帝はこの意見を採用しませんでした。
 
光武帝は自分に徳が無いと考えて謙遜したため、郡国が吉祥を報告しても常にそれを抑えて自分には当たらない(自分のために現れた吉祥ではない)としました(抑而不当)。史官の記録が少ないのはそのためです。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
秋、三つの郡国で蝗害がありました。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
冬十月辛未(初六日)司隸校尉東莱の人李訢を司徒にしました。
 
[十一] 『後漢書光武帝紀下』と資治通鑑』からです。
甲申(十九日)光武帝が司空馮魴に命じて高廟で告祠(報告の祭祀)させ、こう告げました「高皇帝は群臣と約して(約束して)、劉氏でなければ王になれないことにした(非劉氏不王)。呂太后は三趙(高帝の子に当たる趙幽王劉友、趙恭王劉恢、趙隠王劉如意)を賊害し、専ら呂氏を王にしたが、社稷の霊に頼って社稷の霊のおかげで)呂禄と呂産が誅に伏すことになり、天命が失われるところだったが、危うくなった朝廷が改めて安らかになった(天命幾墜、危朝更安)。呂太后を高廟に配食(合祀)し、至尊と廟を共にするのは(同祧至尊)、相応しくない。薄太后(高帝の妃で文帝の母)は母徳が慈仁で、孝文皇帝は賢明によって国に臨み、子孫がその福に頼って延祚(長久な福)を今に至らせている。よって薄太后に尊号を献上して高皇后とし、地祇(地の神)に配食させる。呂太后の廟主(廟の牌位)は園(墓陵)に遷し、四時(四季)に上祭する(祭祀を行う)。」
 
こうして劉氏を危うくした呂太后は高皇后の地位から降ろされ、薄太后が高皇后として地祇と一緒に祭祀を受けることになりました。
 
[十二] 『後漢書光武帝紀下』と資治通鑑』からです。
十一月甲子晦、日食がありました。
 
[十三] 『資治通鑑』からです。
この年、明堂(朝会や祭祀の儀礼を行う場所)、霊台天文台、辟雍(学校)を建てて天下に圖讖を宣布しました。
資治通鑑』胡三省注によると、明堂は平城門(雒陽城南面の門です)から二里離れた場所にありました。天子は平城門を出てからまず明堂を訪ね、その後、郊祀(郊外の祭祀。平城門は雒陽城南面にあるので、ここでは南郊(天の祭祀)を指すと思われます)を行います。
辟雍は明堂から三百歩離れており、車駕(皇帝の車)が辟雍を訪ねる時は北門から入ります。三月と九月に辟雍の中で郷射礼(射術を競う儀式)が行われます。辟雍の周りは水で囲まれており、観者(観衆)を制限しました。
霊台は高さ三丈で十二門がありました。平昌門(平城門)から真直ぐ南に向かうと、大道の東に明堂があり、西に霊台がありました。
 
本文に戻ります。
光武帝は『赤伏符』によって帝位に即いたため、讖文を信用しており、嫌疑(疑って決断できないこと)の多くを讖文によって決定していました。
以前、給事中桓譚が上書して諫めました「人の情とは見事(目に見える事)を疎かにして異聞(奇怪な伝聞)を貴ぶものです(忽於見事而貴於異聞)。先王が記述したところを観ると、全て仁義正道を本としており、奇怪虚誕(荒唐)の事はありません。天道や性命(天賦の命。天命)は聖人でも語るのが難しいので、子貢孔子の弟子)以下、聞くことができませんでした孔子が天道について語らなかったため、子貢等の弟子も聞く機会がありませんでした)。後世の浅儒ならなおさら通じることができないでしょう(況後世浅儒,能通之乎)。今、諸々の巧慧小才(巧妙狡猾な小人)や伎数の人(方術の士。『資治通鑑』胡三省注は「明堂の羲和、史卜の官を指す」と解説しています)が図書をますます増やして讖記を矯称(偽称)し、こうすることで貪邪を欺惑し(貪婪で奸邪な者を騙して惑わし)、人主を詿誤(過ちに導くこと)しています。なぜこれらを抑えて遠ざけずにいられるのでしょうか(焉可不抑遠之哉)。臣譚が伏して聞くに、陛下は方士の黄白の術(金銀を作り出す術。錬金術を窮折(徹底的に排斥すること)しました。これは甚だ英明なことです(甚為明矣)。それなのに讖記を聴き納れようと欲するのは、どうした誤りでしょうか(又何誤也)。この事(讖書。預言)は、時には(事実と)符合することもありますが、卜を繰り返せばいくつかが当たるのと同じようなものです(卜数隻偶の類)。陛下は明徳を垂らし、聖意を発し、群小の曲説(邪説)を遮断して、『五経』の正義を述べるべきです。」
上奏文が提出されると光武帝は不快になりました。
 
この頃、ちょうど霊台を建てる場所を議論することになり、光武帝が桓譚に問いました「わしは讖によって決めたいが如何だ?」
桓譚は久しく黙ってからこう言いました「臣は讖を読みません。」
光武帝が理由を問うと、桓譚は再び讖が経典ではないことを極言(直言。厳しい諫言)しました。
光武帝は激怒してこう言いました「桓譚は聖(聖人)を誹謗して国法を無視している(非聖無法)。連れ出して斬れ(将下斬之)!」
桓譚は叩頭して謝罪し、頭から血が流れました。長い時間が経ってやっと赦されましたが、朝廷から出されて六安郡丞に任命され、道中で病死しました。
 
資治通鑑』は霊台建設に合わせて本年光武帝中元元年56年)に桓譚の事を書いていますが、実際は以前の出来事です。桓譚が死んだ年ははっきりしません。
 
後漢書光武帝紀下』は「この年、初めて明堂、霊台、辟雍および北郊兆域を建てた」と書いています。
「兆域」は通常、墓地の意味ですが、ここでは祭地を意味すると思われます。
光武帝紀下』は翌年にも「初めて北郊を建てて后土を祀った」と書いています。
資治通鑑』は本年に北郊を建てたことには触れず、翌年に「初めて北郊を建てて后土を祀った」と書いています。
後漢書祭祀志中』には「この年、初めて北郊、明堂、辟雍、霊台を築いたが、まだ祭祀儀式を行わなかった(未用事)」「三十三年(中元二年。翌年)正月辛未、郊(郊祭を行った)」とあります。
本年に北郊の建設を開始し、翌年に祭祀を行ったようです。
 
[十四] 『後漢書光武帝紀下』からです。
済陽と南頓の本年の傜役をまた免除しました。
 
[十五] 『資治通鑑』からです。
単于(呼韓邪)が死に、弟の左賢王莫が立ちました。これを丘浮尤鞮単于といいます。
光武帝が使者を派遣し、璽書詔書を持って新単于に璽綬を授けさせました。併せて衣冠や繒綵(絹織物)を下賜します。
この後はこれが新単于が立った時の慣例になりました。
 
[十六] 『後漢書光武帝紀下』と『後漢書西羌伝(巻八十七)』からです。
武都の参狼羌が反し、吏人(吏民)を殺略しました。武都太守が戦いましたが、郡兵が敗戦します。
 
隴西太守劉盱が従事辛都、監軍掾李苞を派遣し、五千人を率いて武都に赴かせました。隴西兵が羌族と戦って酋豪を斬り、首虜(斬首と捕虜。または首級)は千余人に上ります。
この時、武都兵も羌族を破って千余級を斬首しました。
残りは全て投降しました。
 
 
 
次回に続きます。

東漢時代69 光武帝(六十九) 東夷倭奴国 57年(1)