東漢時代69 光武帝(六十九) 東夷倭奴国 57年(1)
丁巳 57年
倭は日本です。当時の日本は分裂しており、その中に奴国がありました。この年正月、奴国の使者が東漢に入朝しました。
おおよその位置は会稽郡東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近いため、その法俗(法度・風俗)も多くが同じです(位置の説明は正確ではありません)。
倭の地は禾稲(稲作)、麻紵(紵も麻の一種です)、蚕桑に適しており、人々は織績(紡績・機織り)によって縑布(絹織物)を作ることを知っていました。
白珠、青玉を産出し、山には丹土(赤土)があります。
気候は温腝(温暖)で、冬も夏も菜茹(野菜)が生えます。
牛・馬・虎・豹・羊・鵲(または「雞」)はいません。
武器には矛、楯、木弓があり、一部の竹矢は骨を鏃に使っていました。
男子は皆、黥面文身(顔や体に刺青をすること)で、その模様の左右大小によって尊卑の差を区別しています。
男衣は全て横幅を結んで繋げています(原文「皆横幅結束相連」。恐らく、横幅が広い布で体を巻いて、布の端を結んでいるだけだ、という意味です。布を縫い合わせて作った中国の服とは異なることを説明しています)。女人は被髪屈紒し(「被髪」は肩にかかる束ねていない髪、「屈紒」は結って後ろに垂らす髪形です。恐らく、長い髪を結っていた、あるいは前髪はそのままで後ろの髪だけを結っていたという意味だと思います)、衣服は単被(一枚の布で作った掛布団、または寝衣)のようで、貫頭して着ます(原文「貫頭而著之」。孔を開けた布に頭を通して着ました。これを貫頭衣といいます)。
また、丹朱を体にふりかけ、その様子は中国が粉を使うようです。
城柵(砦を囲む柵)や屋室(家屋)があり、父母兄弟は別の場所に住みましたが、会の時だけは男女の別がありません。
手で飲食しましたが、籩豆(食物を盛る器)も使います。
その風俗は皆、徒跣(裸足)で、蹲踞(うずくまった姿勢。膝を曲げて腰を低くした姿勢)を恭敬の姿勢としました。
人の性は酒を好みます。
多くが寿考(長寿)で、百余歳に及ぶ者も非常に大勢います。
国には多くの女子がおり、大人は皆、四五人の妻を持ち、その他の者も二人か三人の妻がいました。
女人は不淫、不妒(嫉妬深くないこと)でした。
また、その俗は盗竊(窃盗)をせず、争訟(訴訟)は少ししかありません。
法を犯した者はその妻子を没収され、重い者はその門族を滅ぼされます。
人が死んだら十余日にわたって喪(遺体)を留め(其死停喪十余日)、家人は哭泣して酒食を進めません。しかし等類(家族以外の親戚や知人)は歌舞によって楽(歓楽)としました。
骨を焼いて卜を行い(灼骨以卜)、吉凶の判断に使いました。
海を渡って往来する時は(使者として中国に行く時は)、一人で櫛沐(髪をとかしたり沐浴すること)をさせず、肉も食べさせず、婦人も近づけさせませんでした。これを「持衰」といいます。
もし道中で吉利があったら財物をもって雇し(原文「則雇以財物」。「雇」は報酬を払うという意味です。持衰をして海を往来した者が無事に帰ったら報酬として財物を与えたようです。『三国志・魏書・烏丸鮮卑東夷伝(魏書巻三十)』では「もしも行った者が吉善だったら(順調に海を往復したら)、彼等に生口(奴隷)・財物を顧した(共顧其生口財物)」としています。ここでは「顧」が「雇」に通じます)、もし病疾(疾病)を患ったり害に遭ったら、持衰が不謹(不謹慎。不真面目)だったとして、共にこれを殺しました。
次回に続きます。