東漢時代70 光武帝(七十) 光武帝の死 57年(2)

今回は東漢光武帝中元二年の続きです。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
二月戊戌(初五日)光武帝が南宮前殿で死にました。六十二歳です。
 
光武帝の遺詔が発表されました「朕は百姓にとって益がなかったので、全て孝文皇帝の制度西漢文帝の葬儀の規格。西漢文帝は金銀等の副葬をせず、大きな陵墓も造りませんでした)のようにし、約省に従うように務めよ。刺史や二千石の長吏は皆、城郭を離れる必要がなく、吏を派遣したり郵奏(上奏文を送ること。ここでは弔問の書を送ること)する必要もない。」
 
光武帝は軍旅に久しくいたため、武事を嫌いました。また、天下の疲耗(疲弊消耗)も知っていたため、休息を思い楽しみ(原文「思楽息肩」。「息肩」は「肩を休息させること」で、重い責任や労役を解くことの比喩として使われます)、隴蜀を平定してからは、緊急の時以外は軍旅について語らなくなりました。
かつて皇太子が攻戦について訊ねたことがありましたが、光武帝はこう言いました「昔、衛霊公が陳(陣。戦事)を問うたが、孔子は答えなかった(『論語』の故事です。衛霊公が孔子に軍事について問いましたが、孔子は「俎豆の事(祭祀儀礼は聞いたことがありますが、軍旅の事は学んだことがありません」と答えました)。これは汝が及ぶところではない(汝が口出しすることではない)。」
資治通鑑』はこの説話を光武帝建武十三年37年。当時の皇太子は劉彊です)に書いていまが、元になる『後漢書光武帝紀下』は光武帝死後に書いており、いつの事かははっきりさせていません。皇太子は劉荘(明帝)を指すと思われます。
 
光武帝は毎朝視朝(朝政。朝会)して、正午を越えてから(日昃)やっと解散しました。
しばしば公卿や郎将を引見して経理(経典の道理)を講論(議論)し、夜分(夜半)になってやっと眠りにつきます。
光武帝の勤労で怠らない姿を見た皇太子は、機会を探してこう諫めました「陛下には禹夏王朝商王朝の初代王)の明があるのに、黄黄帝老子の養性の福を失っています。精神を頤愛(愛護)し、優游自寧(悠々として自分を安んじること)とすることを願います。」
しかし光武帝はこう言いました「わしは自らこれを楽しんでいるのだから、疲れとなることはない。」
 
光武帝は征伐(戦争)によって大業を完成させましたが、いつも足りないことがあるかのように戦戦兢兢として慎重だったため(兢兢如不及)、政体(国家。または政治の要領)に対して明慎(明瞭かつ慎重)で、権網(大権)を総攬して時と力を量り(量時度力)、行動に過失がありませんでした(挙無過事)
天下が既に定まると功臣を退けて文吏を進め、弓矢をしまって馬牛を解散させました。光武帝の道は古(の聖人帝王)と比べるには至りませんでしたが、戈を止める武(「止戈之武」。武器を収めて戦いを止めさせる武功)にはなりました(雖道未方古,斯亦止戈之武焉)
このようであったので、前烈(前代の功業)を恢復して、その身を太平の世に到らせることができました。
 
以下、『後漢書光武帝紀下』からです。
かつて皇考光武帝の父)南頓君劉欽が済陽令になり、西漢哀帝建平元年(前6年)十二月甲子の夜、光武帝が県舍(県令の官舎)で生まれました。この時、赤光が室内を照らしたため、劉欽は奇異に思い、卜者王長に占わせました。王長は人払いをさせてからこう言いました「この兆は言葉にできないほどの吉です(此兆吉不可言)。」
この年、県界で嘉禾が生えました。一茎に九穂ができています。そこで名を秀にしました(「秀」は穀物が穂を出すこと、よく実ることを意味します)
翌年、方士の夏賀良という者が哀帝に「漢家の歴運が中衰したので改めて命を受けるべきです」と進言しました。そこで哀帝は太初元年に改元し、「陳聖劉太平皇帝」と称して厭勝(厄を圧すること)しようとしました。
王莽が帝位を簒奪すると、王莽は「劉氏」を嫌って避けました。銭に「金刀」の文字があったため、貨泉に改めます。しかし「貨泉」の文字が「白水真人」を表すと考える人もいました光武帝南陽舂陵の白水郷から興隆しました。「泉」を別けると「白水」になります)
後に望気の者(天象を見て占いをする者)蘇伯阿が王莽の使者になって南陽に行き、遥か彼方から舂陵の城郭を眺め見て、嘆息して言いました「素晴らしい気だ(気佳哉)。鬱鬱葱葱(鬱葱。繁茂した様子)としている。」
光武帝が始めて兵を挙げて舂陵に還った時、遠くから舍南(家の南)を眺めると、火光が赫然(盛大、顕著な様子)として天に繋がり、暫くして見えなくなりました。
以前、道士の西門君恵や李守等も「劉秀が天子になる」といいました。
これらは光武帝が天命を受けたことを示しています(最後の一文は意訳しました。原文「其王者受命,信有符乎。不然,何以能乗時龍而御天哉」。王者が命を受けるというのは、本当に符(兆)があるのでしょう。そうでなければどうして時に順じて龍に乗り、天下を御せるのでしょうか)
 
[] 『資治通鑑』からです。
太尉趙熹が喪事を主持しました。
当時は王莽の乱を経て旧典が残されていなかったため、皇太子と諸王が雑然として共に席に座り、藩国の官属も宮省(禁中)に出入りして百僚と違いがありませんでした。
趙熹は色を正して(厳粛な態度で)殿階(宮殿の階段)で剣を横たえ、諸王を抱きかかえて下の席に移し、尊卑を明らかにしました。
また、諸王と官属に関する上奏を行いました。複数の謁者が分かれて諸国の官属を京師の外の県まで将護(護送)し、そこで待機させます。諸王は全て邸(雒陽に設けられた諸王の邸宅)に入らせ、朝晡(辰の時と申の時。朝と午後)だけ宮内に入って哭臨することを許します。
趙熹が礼儀を整えて門衛を厳しくしたため、内外が粛然としました。
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』と『資治通鑑』からです。
二月戊戌(初五日。光武帝が死んだ日)、太子劉荘が皇帝の位に即きました。これを明帝といい、この時、三十歳でした。
陰皇后を尊んで皇太后にしました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
山陽王劉荊は哭臨しても哀しまず、逆に飛書(匿名の書)を作り、蒼頭(奴隷)に命じて大鴻臚郭況が東海王劉彊(元皇太子)に書を送ったと偽らせました(蒼頭が郭況の書と偽って劉彊に飛書を届けました)。書の内容は、劉彊は罪もないのに皇太子を廃され、その母郭后も排斥されて辱めを受けたので、東に帰って兵を挙げ、天下を取るように勧めるというものです。
更に書信にはこうありました「高祖は亭長から起きて陛下は白水から興きました光武帝南陽舂陵の白水郷から興隆しました)。王(劉彊)においては陛下の長子であり、故副主(元太子)なのでなおさらです(高祖や光武帝よりも帝位に近い場所にいます)。秋霜になるべきであって、檻の中の羊になってはなりません(原文「当為秋霜,毋為檻羊」。秋霜は冷気によって穀物を殺します。檻の中の羊は人に制されて殺されることになります)。人主が崩亡崩御したら閭閻(里門)の伍(民衆)でも盗賊になって野心を抱きます(欲有所望)。王ならなおさらでしょう。」
 
書を得た劉彊は惶怖して(驚き恐れて)すぐに使者(蒼頭)を捕らえました。飛書は封をして明帝に提出します。
明帝は劉荊が同母弟(陰皇后の子)だったため、この事を秘密にし、劉荊を京城から出して河南宮に住ませました。
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』と資治通鑑』からです。
三月丁卯(初五日)、光武皇帝を原陵に埋葬しました。
資治通鑑』胡三省注によると、原陵は臨平亭東南にあり、雒陽から十五里離れています。
臨平亭は西に平陰を眺め、大河黄河が北を流れています。
 
有司(官員)が上奏し、光武帝を尊重して廟号を「世祖」とよぶことにしました。
 
 
 
次回に続きます。